2021年11月23日火曜日

三田用水取水口の弁天堂由来

■かつて…

笹塚駅近く、世田谷区北沢5丁目の、三田用水の玉川上水からの取水圦のところに、弁天堂があった。

三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S53・刊(以下「江戸三田」)
p.78〔下〕

■この弁天堂の…

由来については、当ブログの…

三田用水研究: 天保4(1832)年の三田用水分水口と、その後の変遷 

の、

●昭和16(1941)年

のところに

これは、水路自体にかかわることではないが、皇紀2600年のこの年、三田用水普通水利組合が設立50年を迎えて、取水圦敷地の南端近くに鉄筋コンクリート製の弁天堂を建立した*7

もっとも、同地に弁天を祀ったのは、昭和圦の工事の際に地中の巣から大量に現れたヘビの供養のためとのことなのだから*8、工事が行われた昭和初期から10数年も放っておくとは思えず、おそらく工事の直後に小さな堂を建ててあったのではないかと想像しているのだが、そうだとすると、先の水量監視用のプールにかかっていた太鼓橋はやや大げさすぎ、そちらも、昭和16年の堂と同じコンクリート製なので、これと同時に架けられたものなかろうか。

*7 「江戸三田」pp.71-72

*8 「江戸三田」p.72

と書いたのだが、どうやらこれは、ある程度は当たっていたように思われる。

■ 先日…

ネットオークションに出品されていた

地図 昭和22年 三千分の⼀ 代々⽊/ 1/3000 東京都 渋⾕区 昭和8年測図
なる地図(いわゆる「帝都地形図」と同系統の地図と思われる)の画像について、

書誌部分によれば、「昭和八年五月測図、昭和二十二年補修」とあるのだが、三田用水の取水圦の部分の画像は、以下のようなものであった


■つまり…

この図によれば、
・左上の取水圦から、少し南東方向に広場が描かれ
・その平地の南東から、三田用水路が開渠として描かれ
ており、さらに
・取水圦から開渠とを結ぶ延長線の少し北側に小さな四角形で建物が描かれ
・その建物の脇に鳥居マークが描かれ
ている。

■ところで…

東京都公文書館・蔵の「三田用水及火薬庫分水取入口改造圖ノ一」T15を見ると




取水口から12尺(約3.6m)から下流は開渠になっているようであり、したがって水路の位置に弁天堂を建てるこことは難しい。

■それに対し…

冒頭の写真の弁天堂は、昭和54年の測量図によれば、暗渠化された水路の直上にあることになる。

「三田用水普通水利組合所有地地籍測量図」(S59)第①図抜粋

■つまり…

この地形図は、書誌にある、地図の「補修」時点である昭和22年の状態を反映したものとは考えにくい。

 なぜなら、
  • この取水圦から、渋谷区恵比寿の大日本麦酒の工場までの水路は、遅くも昭和10年代の前半には、全てコンクリート製のヒューム管によって暗渠化されている
  • 鳥居マークが付されている建物は弁天堂と考えられるが、冒頭の写真のとおり、昭和16年以降は(「江戸三田」p.74-75)、弁天堂は水路上に設けられている
からである。

■したがって…

この地形図は、昭和8年当時の、三田用水の取水圦の状況を示していることになる。

 ところで、「江戸三田」を改めて読み込んでみたところ、以下のような記述が見つかった。

弁天堂碑由来と五十周年記念碑

弁天堂の前には、建立の縁起を刻んだ石碑が、組合によって建てられている。但し、現在は大きく欠損しており、碑銘を直接判読することはできないが'組合に保存されている資料によると、左のようなものである。

(表 面)
昭和四年十一月十五日
笹塚弁財天嗣堂建立之碑
三田用水普通水利組合
(裏 面)
此地古来弁財天嗣宇経歳月朽廃矣為今上陛下御即位大礼記念本組合決議嗣堂建立本年四月起工茲告竣成為材用鉄筋混凝土錐規模不大堅牢無比足以伝干永久乎
                         春翠野頼政博書
三田用水普通水利組合管理〔以下略〕
  (「江戸三田」pp.72-73)

「江戸三田」p.72

■結局…
  • 昭和4年に、工事中に出現したヘビの供養のために、水路敷の北に接して、コンクリート製の弁天堂が建立され*
  • 昭和16年になって、皇紀2600年(=1940年=組合結成50年=昭和15年)を記念し、新たな弁天堂を再築した**
のだろう。

*昭和7年の組合の予算書中、歳出経常部に「水衛所並二弁天堂其他修繕費」が計上されている。(「江戸三田」p.171)

**

  • 先の「帝都地形図」によれば、昭和16年当時の弁天堂は、開水路上となるため。昭和4年には建立不可能。 
  • また、「江戸三田」p.78 〔下〕の写真にキャプションに「弁天堂…組合設立50周年記念に建立」と書かれている。

■この…

「弁天」については…

組合が昭和五十九年九月清算結了後、品川区西五反田天台宗徳蔵寺に安置することになり」(「江戸三田」p.72)とされ

 また、一説(原典忘却)には、記念碑についても同寺に移されたとも言われている。

 しかし、藤井正雄*「玉川上水と三田用水」(法曹vol.602〔H12.12〕pp.2-8)によれば、

…笹塚取水口付近には、弁天像を祭った弁天堂と、その建立の縁起を刻んだ石碑『笹塚弁財天祠堂建立之碑』が組合によっれ建てられたという記録が残っている。この弁天堂は、三田用水の取水口が関東大震災で破壊されあと、改修工事を行った際に、地中の蛇の巣を掘り起こしたので、蛇の供養のために建立したものだということであるが、組合の清算結了後にこれらは取り除かれており、今は往時の写真を残すのみである。ただ、本尊の弁天像は、組合の事務所のあったところに近い五反田の天台宗徳蔵寺に移されて安置されている。しかし、石碑の行方は徳蔵寺の住職もご存じないとのことであった。」(pp.7-8)
とのことである。

*筆者は、執筆当時最高裁判事。三田用水について、かつて「法人清算事件として関りを持った」というので、一時期、東京地裁判事の当時、組合の清算手続きを監督する立場にあったのだろう。

■なお…

「郷土目黒」(目黒区郷土研究会*)Vol.41〔H09〕 pp.6-7「《小特集 目黒の川と用水》三田用水(昭和45年9月)―笹塚から目黒へ―」中に「取水口近くの笹塚弁財天堂」と題されたサッポロビール提供の写真がある。
*2013年,残念ながら閉会の由。https://ameblo.jp/rie-kamoshida/entry-11608601847.html  

もっとも、筆者の見る限り、この種の「郷土史研究団体」の通例として、最後は、その会報に「同じ人が」「同じような中身」を毎回書き続けるというパターンが、「郷土目黒」を見る限りでは続いていたので「ああ、やっぱり」という以上の感想は持ちようがなかったのは確かなのである。

今のインターネット時代、かなりの情報が、国会図書館、国立のそれをはじめ各地の公文書館、ciniiを始め学術的なデータベースを通じて、少なくとも「モノを調べる」初期段階では、他人と「群れて」その「ご教示」いただく必要など毛頭ない時代になっているのだし、その結果の発信についても、会報みたいな印刷物にする必要は毛頭なく、各人が、ブログなどを通じて臨機に世に問うことができるのだから、そのような時世に対応できなければ、消滅しても当然といってよいのである。

加藤嶺夫「東京 消えた街角」河出書房新社/1999・刊 のp.126に「三田用水」と題して、昭和43年10月20日撮影の、取水圦下流の太鼓橋の写真がある。


【余談】

「江戸三田」掲載の石碑の写真には不可解なことが多い。

・弁天祠建立記念碑(p.72)

 画像を見ると、白っぽい石にかなり多くの文字が彫り付けられているように見える。

 上部に、2×2の組文字で「??記念」と読める、いわばタイトルにあたる組文字があるので、これが「表面」と思われるが、全く、文字数が合わない。
 かりにこれが「裏面」としても、引用した碑文の後に多くの関係者の名前があるが、それにしても、文字数が多い。

 あるいは、「江戸三田」掲載のいわば予定原稿から、実際には意匠を変更し、タイトルの組文字 を追加し、予定されたていた表裏の碑文を全部表面に刻んだのかもしれない。

・五十周年記念碑(p.78)

 このページには、下部に、先に掲げた太鼓橋の奥に弁天堂が写っている写真と、上部に組合結成五十周年記念行事の参加者の集合写真が掲載されている。

 しかし、この2枚に写り込んでいる、五十周年記念碑は、石碑の形も表面の文字も、集合写真では「組合結成」の4文字が2×2の組文字であるのに対し、もう一方は素直に縦書きされている模様だし、さらには設置方向も異なっている(加えて、後列右から4,5人目の人物の奥に頂部の尖った石碑が見えている。)。











 集合写真の方の石碑とくに基台部分の輪郭が不自然なので、おそらくは、大型乾板からの印画紙への密着焼きのレベルでの合成かとは思われるが、石碑の表面の

 皇紀二千六百年
 組合結成 五十周年記念碑
 三田用水普通水利組合

との文字は明白に読み取れる。

 CGの無いこの時代、合成用のこの碑の画像をどうやって作ったのだろうか。

【付記】

渡部一二「武蔵野の水路」東海大学出版会/2004・刊 の
p.174の写真④(昭和54年3月撮影)
によれば、

この記念碑は、昭和20年5月末の、いわゆる「山の手空襲」によって、碑の左右それぞれ3分の1と頂部が失われたらしい姿で、碑の方角は「江戸三田」のどちらの写真とも整合していないが、先の郷土目黒の昭和41年の写真によれば、碑は堂から数メートル西南西方向に南面して立っているようで、この渡部p.174の写真④と合致している

2021年11月7日日曜日

「明治初期の三田用水路」ページへのリンク

 ■当初は…

どちらかといえば「玉川上水」の話として採り上げたつもりで、当ブログの「ページ」の方に1アーティクル設けたのだが…

いろいろ探っているうちに、「三田用水」の話になってしまったし、意外にアクセス数も増えてご興味ある方も多いようなので 、ここに該当ページへのリンクを掲載しておくことにした。

三田用水研究: 明治初期の三田用水路 (mitaditch.blogspot.com)

2021年11月4日木曜日

薩摩藩邸の引水をめぐる謎

■上水が…

貴重品扱いされた例として、

堀越正雄「日本の上水」新人物往来社/S45・刊 pp.162-163

が、五代将軍綱吉の養女の竹姫の薩摩島津家への輿入れ時の事例をあげている。

二度まで夫や許婚に死なれた竹姫様は、将軍吉宗の命で、享保十四年十二月、島津大隅守継豊の後添いの正室として輿入れすることになったが、すでに隠居していた先代藩主吉貴は、気にくわないものの逆らうわけにもゆかないので、いろいろと条件を出した由。

 かなり「過去の慣例上に照らして無理難題」なものもあったようなのだが、それらも含めて吉宗が「丸呑み」してしまった条件の一つが、

「芝の屋敷の門前を通っている水道 の水を邸内へ引きたい。」

というものとのことで、著者は

「門前を流れている上水を邸内に引込むということ、それこうした場合でなければ幕府が許さないほどだったとは、いかに上水を貴重に扱 っていたかが知れよう。」

と結んでいる。

■しかし…

この話、どこかおかしい。

薩摩藩は、芝方面に多くの屋敷を保有していたのは確かで、手近な資料で、正規の藩邸を調べても、

・江戸城幸橋御門内に、中屋敷(江戸初期には上屋敷)

があるほかは、

・上屋敷(同じく中屋敷)が、芝新堀端、つまり、新堀川(渋谷川)右(南)岸の増上寺向かい、後述の西応寺北西の地区に

・下屋敷が、高輪、現・品川駅向かいの位置

にある。

国会図書館・蔵「分道江戸大絵図(乾)」享保6 [1721]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542714/3








■正徳期の…

上水図

伝・正徳上水図














によれば、用水路は、

・下屋敷脇については、現・柘榴坂と現・第一京浜国道の双方に流れていたし

・上屋敷(中屋敷)脇には、それを取り巻くように水路がある。

 しかし、これはどちらも、三田「」水の水路であり、この三田上水は、享保7〔1722〕年に、すでに他の青山・千川・本所上水とともに廃止・閉鎖されているのである。

■あるいは…

  • 三田上水の廃止前から、この縁談が持ち上がっていたが、折衝に時間がかかって、廃止後に正式にまとまったのかとも考えたが、継豊の前正室で、毛利吉元の娘の皆姫が病死したのは享保12年3月20日(旧暦)なので、それは考えにくい。
  • 玉川上水の分水のうち1流は、金杉橋を渡って渋谷川右岸に達した後東流しているので、あるいは、その水路沿いの薩摩藩邸があった可能性も考えて、いろいろな江戸図をみたが、見当たらない。
  • 逆に、金杉橋から、西方向の薩摩藩邸に向かって、新たな水路を設けた可能性についても、正徳図を見ればわかるように地盤は東下がりなので勾配の関係で難しいうえ、たとえ藩邸前まで届いても、藩邸内での泉水などへの活用はほぼ不可能だろうし、実際、そのような水路は上水図その他の史料にも見当たらない。

■そもそも…

薩摩藩という大藩の武家屋敷なのだから、その前に、もともとは、まずは江戸城、次いでは武家屋敷のために設けた上水路があるのに、これから引水できない道理がない。

したがって、どう考えても「門前を通っている水道 」という前提が誤りで、「門前は通っていないが水が欲しい」という条件と考える方が素直だろう。

しかも、大名家が「自力」で水を引くことについては「細川上水」という先例があるので、湯水のように自費を使ってよいのなら、別に上記のような条件として提示する必要もないわけなのである。

と、なると、これは、工事費を、幕府が負担するにせよ、薩摩藩が負担するにせよ、要するに「お手軽」に上水が使えるようにしてほしい、という条件なのではなかろうか。

■結局…

一番関係者の負担が少ない(薩摩藩としても、将軍家の姫君を迎えて、その先膨大な費用負担が生じるので、水のために膨大な費用は出せないはず)のは

上記、柘榴坂の三田上水路の復活

なのではないか、思われる。

■と、いうのは…

  • すでに、この享保14年の時点では、三田上水と並行していた細川上水の両水路跡を活用して、三田用水が高輪猿町まで通水していたこと
  • 三田用水は、農業用水ではあるが、水路沿いの武家屋敷が引水するための「実験」をした記録があるし、岡山藩池田家は実際に引水していた可能性も否定できないこと
     三田用水研究: 三田用水の通水期間(その2:近世)
      中「延享3(1746・7)年冬季の通水とその破綻
       「■備前岡山藩下屋敷への通水」 
     
  • 薩摩藩下屋敷南の柘榴坂には、高輪猿町から二本榎を経た三田上水路の末流が前記のとおりあったこと
  • この水路は、閉止後7年程度しか経過していないうえ、正徳上水図によれば道路下(埋樋)か道路沿い(白堀)に水路があったので、水路敷の手配も容易であること
  • 元開水路(白堀)であったなら、いわゆる川浚いをすれば済むし、暗渠(伏樋)だったとしても、いわゆる埋め殺し状態だったと思われるので、復旧も容易であること
  • 明治期の史料をみても、すくなくとも柘榴坂上まで通水し、さらに南方向の有馬邸、岩崎邸(前伊藤博文邸)も三田用水の水を使用していた記録があること
     三田用水研究: 天保4(1832)年の三田用水分水口と、その後の変遷 
      中「●明治4(1871)年」
  • 江戸時代にも、名所図会に、柘榴坂北脇の石神社前の水路が描かれていること
     諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ
などによるのであって、この点は、もう少し追及してみたいところなのである。


2021年11月2日火曜日

三田用水(附:品川用水)の分水樋

■三田用水に…

限った話ではないが、用水や上水は、河川や大きな用(上)用水から分岐した後、当然ながら、流末まで1本の水路だけで完結するわけではなく、流末までには、複数の分水に分岐されるのが通常である。

■しかも…

大概は、複数の村の田用水や呑水に利用されるのだから、往々にして、各村間の水の分配を巡っては、しばしば紛争の火種になる。

多くの場合は、関係村の協議によって、たとえば、灌漑する水田の面積によって、限られた水の分配割合が決定されるのだが、では、その決められた水量を、どうやって、正確に維持するのかについては、今の「ほとんど上水道」みたいな水量計やバルブのない時代には、さまざまな工夫が行われてきたようである。

■その典型例は…

今でも、三田用水の神山分水跡



に、痕跡が残されている

Half Mile Project (coocan.jp) 「三田用水」調査ノート(6) 末尾

  [追記]2014/06/22 神山分水口とほぼ確定 を再録

2021年10月16日土曜日

代々木上原のヒューム管水路の位置の「見立違い」判明

■このブログの…

三田用水研究: 三田用水の仮称「白金の折り返し」の変遷 (mitaditch.blogspot.com)

の末尾で少し触れたのだが、

三田用水の

・最終的な実際の水路の位置

・最終的な三田用水普通水利組合所有の水路敷の土地

とは、必ずしも一致していない。

■今のところ…

それが確認できているのは

・現在の防衛省の艦艇装備研究所の敷地内

ここは、明治12・3年、海軍火薬製造所の開設にあたって、それまでの開渠のS字型の水路を、埋樋(暗渠)と懸樋(水路橋)を使って直線的に改修している。

国立公文書館・蔵「火薬調製所建築に付水道変換の義主船局達」M12
前同の内「懸渡箱樋概圖」

  しかし、三田用水の組合所有の水路敷の土地の位置には変更がないままだったようである。

・旧山手通りの西郷橋南詰からデンマーク大使館南のヒルサイドテラスD棟前あたり


東京都公文書館・蔵 S08


ここは、大日本麦酒による用水路上流部の暗渠化に先だって、昭和初期の旧山手通りの拡幅にあたり、水路が、当初はU字溝によって、後にはヒューム管のよって通りの西縁の歩道下に敷設されているが、なぜか、水路敷地の位置に変更が生じていない。

一方、ヒルサイドテラスD棟南の猿楽分水あたりから目切坂上までにかけては、大正末に、当時は、朝倉家の所有地内、今のヒルサイドテラス敷地内にあった水路の敷地(これ自体は、青線、青〔道/路〕などとも呼ばれる、地番のない一種の公有地*)と、後の旧山手通りの歩道部分の土地とが交換されていて、こちらは地籍測量図にも反映されている。

*旧法定外公共物(旧里道・旧水路) : 財務局 (mof.go.jp) 

までなのだが…

もう一つ、その「候補地」と考えていた場所に

・渋谷区上原の旧駒場橋から二ツ橋までの区間


東京地図社/S37・刊











があった。

■この区間…

大山交差点あたりから三角橋を経て駒場橋

明治10年代の駒場橋(手前)と駒場農学校正門(奥右)













のあたりまでは、用水は、いわゆる駒場道の西南に沿って流下し、そこで、駒場道の北側にわたって

国立公文書館・蔵「甲州往還幡ヶ谷村より旧駒場原まで道取広」駒場橋(旧称「中ノ橋」)付近抜粋












二ツ橋あたりで、再び駒場道をわたってその南に流路を変えていた。


国立公文書館・蔵「学校門前道敷取広ノ件」M12
赤塗が駒場道の原型(いわゆる赤道・赤線)で、茶塗が拡幅予定部分
右下隅が駒場橋、左端中央が二ツ橋













三田用水は、昭和始めから10年代中頃までにかけて、用水を使用していた大日本麦酒株式会社(現・サッポロビール株式会社)が、工事費を全額負担して、それまでほとんどが開渠だった水路を、直径1m強のヒューム管*に変換しており、この場合、地中にコンクリート管を埋め込むのだから、当然、上流の駒場橋よりも下流の二ツ橋の方が標高が低いため、従前の水路の場所にこだわる必要はないわけで、より直線的な上図にある拡幅後の駒場道沿いのルートを選ぶ方が合理的と考えられた。

*ヒューム管について・ヒューム管とは - 全国ヒューム管協会 (hume-pipe.org)

 によれば、ヒューム管が我国で本格的に工業化されたのは、大正14年とのことであり、この三田用水路の暗渠化工事には、まさに当時最新鋭の資材が使われたことになる。

そのため、従前は、

Half Mile Project 

のように、駒場橋と二ツ橋間は、駒場道の南にヒューム管による水路があったのではないかと想像していたのである。

■しかし…

2019年3月、駒場あたりにお住いの光行さんから、ご近所の散歩の折に見つけられた、渋谷区上原2-29の旧いお家が解体された敷地の中から発掘されたばかりのヒューム管の写真をお送りいただいた。

2019年3月11日光行さん撮影


2019年3月13日光行さん撮影


【追記+告知】
こういった、それぞれの問題意識というか研究テーマとか興味に基づいて、サーベイしている方々(面識(小坂克信先生や梶山公子氏など)やこれまでのコミュニケーション(SoHonda氏など)の有無にかかわらず、勝手に「三田用水研究仲間」と呼ばせていただく)から、貴重というほかない情報をご提供いただけるのは、大変ありがたい。
情報というのは、単体ではほとんど場合「意味がない」「意味がなさそうな」ものが大半なので、ある程度の数が集まって意味がわかるのがほとんどで、アメリカのCIAとか旧ソ連のKGBなどの仕事が典型なのですが「無意味に見える情報」を集積することによって、場合によっては「とんでもない情報」が判明する、というのは、いわば「日常茶飯事」。
当方は、こういった流れや分析作業をを「情報の結晶化」と呼んでいるのですが、このブログ自体「三田用水研究仲間」の方々に「結晶化」させる「分子」をご提供する目的があります。
逆に、↑のような「お宝」情報は当然お報せいただきたいのすが、そんなそれ自体が意味のある情報に限らず、「意味がなさそうな」情報と思えても、是非コメント欄にお寄せください。
「結晶化」できるかどうかはわかりませんが、必ず、それに資しそうな何らかのフィードバックはさせていただく所存です。

下の対照用の写真からみてもサイズが一致しているようだし、

【対照用写真】

渋谷区富ヶ谷2-22 2008年9月6日撮影


同上。ここは、元々の水路敷の位置

 

2021年10月8日金曜日

三田用水の「仮称:白金の折り返し」の変遷

 ■当ブログの…

三田用水研究: 明治初期の三田用水路 (mitaditch.blogspot.com)

の末尾近くで触れた目黒通りの旧白金御料地、現・自然教育園向かいの妙圓寺前の水路。

そこで採り上げた、玉川・神田両上水平面図

https://www.ro-da.jp/suidorekishida/content/detail/K0268

自体、同ページに書いたように、謎が多い記載なのだが、

いずれにしても、妙円寺から南は、今でも行ってみるとわかるが、これが都内か?と思うほど深い谷であり、水路は、それを北方向に大きく迂回する形で設ける必要がある。

【参考資料】
内務省地理局『東京実測全図』(M20)4幀の1抜粋
妙圓寺脇分水最上部

妙圓寺脇分水最下部

妙圓寺脇分水最底部附近から北方の妙圓寺方向を見上げる
中央部上方のケヤキの向こうが同寺の本堂と思われる


この場所の水路は、さらに、絵地図などによって、かなり違った記載がなされている。

【暫定公開】
それぞれに解釈が難しく、なかなか「これは、こうです」といった断定ができないので、とりあえず、画像を並べておいて、徐々に解説を付記してゆくことにする

■まずは…

細川上水と三田上水が並行して流れていた

寛文4(1664)~享保7(1722)年

の絵地図


国会図書館・蔵
芝目黒辺絵図(NDLID:2542078)


























外側を大回りしているのが細川上水、内側が三田上水である。

次葉の絵図面とちがって、上流側は開渠(白掘)と、板を敷並べた橋で目黒道を渡り、道の北側で折り返しで暗渠か土橋で再び目黒道を渡っている。

目黒道北側の松平讃岐守の下屋敷内(次図参照)を水路が通っている可能性があるが、大名屋敷内を上水路や用水路が通過することは珍しいことではなく*、神田上水は、本水路が小石川の水戸徳川家の上屋敷を通過しているし、三田用水の神山分水は現渋谷区松濤の紀伊徳川家の下屋敷を通過している。

*実は、これはここ5年ほどの研究課題なのだが、上水や用水のための水路を設けたいとの要請のあるとき、土地の領主や利用(所持)者は、そのために利用できなくなる土地についての代償措置を求めることはできるものの、水路を設けること自体を全面的に拒絶することはできなかったようなのである。
上水は、人の生命を維持するために不可欠な呑水などの生活用水の供給源だし、(農業)用水は、当時のいわば「米本位社会」の基本インフラなのだからいわば当然で、今、かつて読んだ文献を探し直しているとことろだが、これは、中世期から始まったといわれているものの、律令時代の行基による新田開発なども考えると、もっとはるか昔にさかのぼる、我国の根源的なルールなのかもしれない。 
 

国会図書館・蔵
玉川上水大絵図(NDLID:2589442)抜粋
180度転回




















いわゆる貞享上水図の抜粋と思われる絵図。
前図に比べると、いわば進化した水路の設計となっている。
退色が激しいので、画像調整をしてはみたものの判読が難しいが、
三田上水は、目黒道の南縁で、おそらく開渠のまま折り返しており
細川上水は、3つの桝形を使って水位を調整しながら目黒道北縁で水路を折り返している
ようである。


■次は…

三田用水時代、つまり

享保9(1724)年以降

であるが、残念ながら、この時期の水路を描いた絵地図の類は未だに発見できていない。というか、有るにはあるが、概念図の域を出ていない。

その一つといえるのが、図法からみて、幕府普請方作成の沿革圖書系統に属する

「天保十三年寅年五月之形
 麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図」(1842年)
 がある。

NdlId:2542289

































この図によれば、三田用水路が目黒道の下部で折り返しているらしいことはわかるが、それ以上の水路の詳細はわからない。

しかし、この時代の、この場所の三田用水路の姿を推測する手掛かりとなる史料として

寛政9(1787)年11月の
「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」品川町史・中巻 pp.488-501)
という、同年幕府の費用で行われた(「御普請」)、三田用水路からの分水口などの改修工事のいわば会計報告書がある。

この工事の際、他の分水口と同時に行われた、この地の埋樋や桝形などの更新工事の記録には、それらの仕様が、以下のようにかなり細かく報告されている。

品川町史・中巻 p.492

桝形を3つ*設けているほか、埋樋1か所、白樋(上部が開放された、U字溝のような形状の木造の水路)2か所が設けられ、前図の細川上水と同じような水路設計のように思われる。

*東京府志料によれば、明治5年当時の、ここの水路の桝形は4か所とされている。


江戸名所図会・第7巻
天保5-7 [1834-1836]









出版時期を基準にすると、前掲の出来形帳から約50年後のこの地の姿ということになる。

■明治期には…

玉川・神田両上水平面図 天保5-7 [1834-1836]年
東京都水道局・蔵 180度転回














【追記】
おそらく同じベースと思われる、より鮮明な地図があった

国立公文書館・蔵「東京府郡区境界ヲ変更ス」M22
抜粋+画像調整

















■昭和期の最終形

三田用水普通水利組合所有地地籍測量図(昭和59年) 第47図抜粋
























昭和27年に、法律(土地改良法)の規定にしたがって解散となった三田用水普通水利組合は、清算手続きに入り、昭和59年9月末日に同手続きが終了した。

いわゆる「三田用水事件」の最高裁判決を経て、組合の所有地であることが確定した水路敷の土地は、原則として、宅地についてはその使用者に売却され、道路として使用されていた部分については、道路管理者に移管されたのであるが、その移管部分は、測量図上茶色に塗って示されている。

上図によれば、水路は、目黒通りの南端(測量された昭和55年当時)から、約3~4メートルの位置から、1.3メートルほどの幅で道路に並行して通過していたことになる。

現況では目黒通りの幅員は16.36メートルなので、目黒駅方向への第2車線の南縁あたりに該ることになる。
拡幅の記録を調べる必要はあるが、現状になる拡幅前は、この水路が道路外にあった可能性も高いように思われる。

■もっとも…

この地籍測量図を見てわかったのだが、とくに明治期以降は、このいわば法律上の水路敷と、実際の水路の位置が一致していない場所があることに留意する必要がある。

その典型例は、目黒の防衛装備研究所の敷地内であり、ここは、明治13年に、当時帝国海軍の火薬製造所を設けるために、それまでの自然地形を反映した略S字型に流れていた水路を、当初懸樋を使用して直線状に改修した(その後、逆サイフォンで地中を通した)が、水利組合の所有地は明治13年以前のままの位置にあった。

もう1か所は、旧山手通りの西郷橋あたりからヒルサイドテラスのD棟あたりまでの区間で、昭和初期に、山手通りの西端を通るように改修されたが、組合の所有地はそれ従前のまま、変更がなかった。


2021年7月3日土曜日

錦絵「角谷製綿工場之眞景」

■定期的に…

送られて来る古書市の目録に、標記の版画による錦絵が掲載されていた。

 絵柄自体は、渋谷区の刊行物や都の公文書館のデジタル・アーカイブで見知ってはいたものの、やはり、三田用水、それも鉢山口の分水口や、鉢山分水の最上流部にあった角谷製綿工場の水車が描かれているとなると「捨て置けない」ので、速攻で発注しておいた。

 幸い、他に発注者がいなかったのか、抽選に当たったのかは不明だが、先ほど届いた。

(とはいえ、当方が発注するのはニッチなものが多いせいか、いままで、この古書市で入手できなかったことはない)

【以下、解題は順次追記】

■まずは…

全景


■左下隅の

角谷製綿工場の水車
上懸け水車は、水を高い位置から落とすうえ、
水車にとって抵抗となる下部の水が無いか少ないため、水力を効率的に利用できる

鈴木芳行「近代東京の水車」1992/現=東急財団・刊*〔以下「水車台帳」〕 pp.425-426

 三田用水路東の急傾斜地を活かして、水輪越しにその頂部から水を懸ける「上懸水車」であることがわかる。
 絵のように、ここは角谷和市が経営する角谷製綿工場として綿打ちに使用されていたが、その当時は永田熊吉が所有していた。なお、角谷は、大正2年に廃業するまで、鉢山分水の下流部の中澁谷138番地に精穀用の水車を所有していた(前掲・水車台帳p.279#629)。

 
■右下…

鉢山分水の取水圦とも思われる部分
開渠で分水というのは、三田用水関係の江戸期の史料との不整合がある
*
明治期になって、正規の分水のほかに、製綿所の雑用水など特定の用途のために設けられた可能性がある
原料の綿花や打直し用の綿を洗ったり、とくに、第2工場には蒸気機関があるので、水は必須である。

*品川町役場「品川町史・中巻」同町役場/S07・刊p.489記載の、寛政9年の更新時の「仕様書」によれば、三田用水からの分水圦は、鉢山口を含め、全て、下図のような仕様となっている。


また、駒場東大北の山手通り沿いの、渋谷区松濤2丁目22にある、昭和初期に函渠に改修されたときに設けられたと思われる、三田用水の神山口も、上記の鉢山口同様の上部が塞がった箱樋をコンクリート化しただけで、同等の構造となっている*

【追記】

東京都渋谷区区白根記念郷土文化館・編「渋谷の水車業史」(同区教育委員会/S61・刊)
p.70 「特色のあった水車」中「製綿/角谷水車」

に引用されている「『渋谷郷土特報』第49号(昭和47年3月1日発行)所載の「日々是好日」(会長・角谷輔清*氏稿)」(p.14)には

 明治25年1月25日、この日がわたしの誕生日。区内の渋谷小学校を明治32(1899)年に卒業した。おやじの角谷和市は愛知県三河国の出身。朝倉虎治郎**さんと同郷、年令は朝倉さんより11か12年上であった。

 私の子供の頃には、すでに角谷家の事業である製綿工場が繁昌していた。家のすぐ前を流れる三田用水を利用して水車をかけて綿を製造するのであった。わたしはこの用水で泳いだことを覚えている。毎日のように馬車で綿花を運んできて、これを原料に工場で木綿わたをつくる。

 ぐるぐる回る水車の大きさは、直径2間(3.6m)、三田用水を樋で流し、水車はいつもよく回っていた。それだけで三馬力位の動力は得られた筈なのに、蒸気も使った。工場で働く人は男女で大体10數人、多くは地方出の人ばかりで、毎日よく働いてくれた。

 …この人たちが、毎年7月のお盆休みと正月休みには、それぞれ自分の田舎へ帰る。そのときみやげに持って帰る江戸名所の「にしき絵」―江戸から東京になっても立派な「にしき絵」が沢山つくられてあった―そのうちの「角谷製綿工場真景」というのを、後年、大正時代に渋谷のローカル紙「東京朝報」をやっていた有田肇君が、おやじの処へもってきたのがある。東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷と大きく書いてあるから、明治30年頃にできた絵であろう。

* 元・渋谷区議/区会議長/区長(S28-36)

** 元・渋谷村/町/区議/区会議長/東京市議/府会議長

とある。 

 今見ると、どうしても水車に目が行くが、当時、郷里にこの絵を持ち帰った製綿工場の従業員にとっては、高い煙突のある蒸気機関を備える近代的な工場で働いていることの方が「ご自慢」だったのだろう。 

【追々記】

前掲「水車台帳」p.279 によれば、角谷製綿工場の経営者である角谷和市(T05当時の住所地:渋谷町下澁谷744番地)は、明治末期(推定)から大正05年の廃止まで

渋谷町中澁谷138番地に精穀用水車(俗称:鶯谷水車)を所有していた(#629。なお、#665、#542参照)


青線が三田用水鉢山分水
「#…」は「水車台帳」の通番

【追記】

M42測 1/10000地形図 世田谷〔抜粋〕





もっとも、前記のT02年に角谷和市は、水車の利用は廃止したものの、製綿業自体を廃業したわけではなさそうで、

東京交通社「大日本職業別明細図・渋谷区」S08/06・刊によれば、甲州街道沿いの幡ヶ谷・笹塚間に「角谷製綿所」があったことがわかる。









*この「笹塚の角谷製綿所」については、コメント欄参照


2021年5月15日土曜日

2021年5月7日金曜日

爺が茶屋で将軍吉宗一行は何を食べたのか

 ■「目黒のサンマ」の…

モデルと言われている、茶屋坂上、かつ、実相寺山口から少し下った、通称「爺が茶屋」。


歌川廣重「名所江戸百景 目黒爺が茶屋」

旧暦享保17年2月21日(新暦1732年3月半ば)に、吉宗一行がここで食べた団子といも田楽の記録があった。

 中目黒村の村役人である名主による記録であり、かなり信ぴょう性が高いので、紹介する。

 東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/S52・刊

「島村家文書」「三四 享保一八年一月 組成之節記録覚」中p.252

「壬〔享保十七年?〕二月十一日

公方様〔吉宗〕御成御場大崎村御初居(、)木橋耕地、谷山桐ケ谷耕地通、下目黒町植木や清八御通抜、同村瀧泉寺境内御通抜、御猶予相屋阿免引 上覧相済、同村野道通り 御膳所祐天寺ゟ中目黒村耕地通、同村名主金吾方御通抜竹の子掘取上覧相済、同村耕地御鷹野御用相済、山道ゟしばはらへ被為 成 御猶予之間、団子、田楽 御前ニおゐて焼方被仰付候、

            其節

団子弐百五拾本      彦四郎
          同人つま
       焼方   と  ら
            其 外
いもてん楽弐百五拾本   縁 者
   右差引
但御場御見分之節も 同村名主 金  吾
 少々焼方あり

〔享保十七年?〕三月五日中越村名主庄三郎方御寄合之節請取

一、白銀 弐牧
子〔享保十七年?〕三月十九日青山善光寺門前御寄合所ニ而御渡被成候
一、金弐百疋 団子 てんかく代
一、金百疋  別段御手当
一、金壱分弐朱 (同箱弐 但四枚代
       (くし竹代
 右之通り
               中目黒村
 享保拾八歳          彦四郎

  丑ノ正月十九日

公方様当所御成御鷹野節
道成坂 壱軒茶屋ニ而銀壱枚

御拝領仕徽事包紙

御鳥見
粟津喜左衛門様
高月忠右衛門様
近藤彦兵衛様」

 あくまで、中目黒村名主金吾の「メモ」なので、各項目の区切りがわかりにくいのだが、ほぼ確実にいえることとしては、

この、吉宗の享保17年2月〔旧暦〕の目黒筋への御成では、

大崎から居木橋村、谷山村、桐ケ谷村を通り*1(当然、この間、折に触れて鷹で冬鳥を狩ったのだろう)、目黒不動(竜泉寺) 

に参詣した後、休息(御猶予)を兼ねて目黒飴*2作りを見物。

そこから北に向かって、祐天寺


で昼食、上記名主金吾方でタケノコ堀り*3を見物の後、(推定)田道耕地で本格的に鷹狩を行い、「しばはら」(推定だが、雉御立場のあった目黒川左岸の田道耕地東の台地*4)に向かうため茶屋坂を上り、そこの、爺が茶屋で休息し、目の前で、団子、田楽を焼くように仰せつけて、それを見物した。

その際に、主人彦四郎の妻とらが焼いた「団子」と「縁者」が焼いた「いも田楽」が、(供連れ分も含めて)各250本、吉宗一行に供された。

目黒筋御場繪圖〔部分〕に関係地点補入

と、いうことになるのだろう。

【補記】歴代の中には、城内での「御毒見」済の冷え切った食事に嫌気をさして、上記のような焼きたての団子や田楽。おそらくは、駒場の御用屋敷での、アツアツの、狩った鶴や鶉あるいはイノシシなどの焼きたての肉を食べたいために、やたらに狩に行きたがる将軍もいたらしい。

*1 各村の位置関係

東京都公文書館・蔵「朱引図」〔抜粋〕
【追記】詳細は
御府内場末往還其外沿革圖書 [4]壱拾六中
参照

*2 江戸名所圖繪「目黒飴・桐屋」

〔同・部分〕おそらくこの作業が「目黒飴挽」


*3 歴史を訪ねて 目黒のタケノコ 目黒区 (city.meguro.tokyo.jp)

  なお、タケノコ飯は、クリ飯とともに目黒不動周囲の料亭で供する名物だったという
  参照:田山花袋「東京近郊一日の行楽」博文館/T12・刊
     「目黒不動附近」p.548 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972006/281

*4 三田用水研究: 中目黒の「雉御立場」 (mitaditch.blogspot.com)