2021年11月4日木曜日

薩摩藩邸の引水をめぐる謎

■上水が…

貴重品扱いされた例として、

堀越正雄「日本の上水」新人物往来社/S45・刊 pp.162-163

が、五代将軍綱吉の養女の竹姫の薩摩島津家への輿入れ時の事例をあげている。

二度まで夫や許婚に死なれた竹姫様は、将軍吉宗の命で、享保十四年十二月、島津大隅守継豊の後添いの正室として輿入れすることになったが、すでに隠居していた先代藩主吉貴は、気にくわないものの逆らうわけにもゆかないので、いろいろと条件を出した由。

 かなり「過去の慣例上に照らして無理難題」なものもあったようなのだが、それらも含めて吉宗が「丸呑み」してしまった条件の一つが、

「芝の屋敷の門前を通っている水道 の水を邸内へ引きたい。」

というものとのことで、著者は

「門前を流れている上水を邸内に引込むということ、それこうした場合でなければ幕府が許さないほどだったとは、いかに上水を貴重に扱 っていたかが知れよう。」

と結んでいる。

■しかし…

この話、どこかおかしい。

薩摩藩は、芝方面に多くの屋敷を保有していたのは確かで、手近な資料で、正規の藩邸を調べても、

・江戸城幸橋御門内に、中屋敷(江戸初期には上屋敷)

があるほかは、

・上屋敷(同じく中屋敷)が、芝新堀端、つまり、新堀川(渋谷川)右(南)岸の増上寺向かい、後述の西応寺北西の地区に

・下屋敷が、高輪、現・品川駅向かいの位置

にある。

国会図書館・蔵「分道江戸大絵図(乾)」享保6 [1721]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542714/3








■正徳期の…

上水図

伝・正徳上水図














によれば、用水路は、

・下屋敷脇については、現・柘榴坂と現・第一京浜国道の双方に流れていたし

・上屋敷(中屋敷)脇には、それを取り巻くように水路がある。

 しかし、これはどちらも、三田「」水の水路であり、この三田上水は、享保7〔1722〕年に、すでに他の青山・千川・本所上水とともに廃止・閉鎖されているのである。

■あるいは…

  • 三田上水の廃止前から、この縁談が持ち上がっていたが、折衝に時間がかかって、廃止後に正式にまとまったのかとも考えたが、継豊の前正室で、毛利吉元の娘の皆姫が病死したのは享保12年3月20日(旧暦)なので、それは考えにくい。
  • 玉川上水の分水のうち1流は、金杉橋を渡って渋谷川右岸に達した後東流しているので、あるいは、その水路沿いの薩摩藩邸があった可能性も考えて、いろいろな江戸図をみたが、見当たらない。
  • 逆に、金杉橋から、西方向の薩摩藩邸に向かって、新たな水路を設けた可能性についても、正徳図を見ればわかるように地盤は東下がりなので勾配の関係で難しいうえ、たとえ藩邸前まで届いても、藩邸内での泉水などへの活用はほぼ不可能だろうし、実際、そのような水路は上水図その他の史料にも見当たらない。

■そもそも…

薩摩藩という大藩の武家屋敷なのだから、その前に、もともとは、まずは江戸城、次いでは武家屋敷のために設けた上水路があるのに、これから引水できない道理がない。

したがって、どう考えても「門前を通っている水道 」という前提が誤りで、「門前は通っていないが水が欲しい」という条件と考える方が素直だろう。

しかも、大名家が「自力」で水を引くことについては「細川上水」という先例があるので、湯水のように自費を使ってよいのなら、別に上記のような条件として提示する必要もないわけなのである。

と、なると、これは、工事費を、幕府が負担するにせよ、薩摩藩が負担するにせよ、要するに「お手軽」に上水が使えるようにしてほしい、という条件なのではなかろうか。

■結局…

一番関係者の負担が少ない(薩摩藩としても、将軍家の姫君を迎えて、その先膨大な費用負担が生じるので、水のために膨大な費用は出せないはず)のは

上記、柘榴坂の三田上水路の復活

なのではないか、思われる。

■と、いうのは…

  • すでに、この享保14年の時点では、三田上水と並行していた細川上水の両水路跡を活用して、三田用水が高輪猿町まで通水していたこと
  • 三田用水は、農業用水ではあるが、水路沿いの武家屋敷が引水するための「実験」をした記録があるし、岡山藩池田家は実際に引水していた可能性も否定できないこと
     三田用水研究: 三田用水の通水期間(その2:近世)
      中「延享3(1746・7)年冬季の通水とその破綻
       「■備前岡山藩下屋敷への通水」 
     
  • 薩摩藩下屋敷南の柘榴坂には、高輪猿町から二本榎を経た三田上水路の末流が前記のとおりあったこと
  • この水路は、閉止後7年程度しか経過していないうえ、正徳上水図によれば道路下(埋樋)か道路沿い(白堀)に水路があったので、水路敷の手配も容易であること
  • 元開水路(白堀)であったなら、いわゆる川浚いをすれば済むし、暗渠(伏樋)だったとしても、いわゆる埋め殺し状態だったと思われるので、復旧も容易であること
  • 明治期の史料をみても、すくなくとも柘榴坂上まで通水し、さらに南方向の有馬邸、岩崎邸(前伊藤博文邸)も三田用水の水を使用していた記録があること
     三田用水研究: 天保4(1832)年の三田用水分水口と、その後の変遷 
      中「●明治4(1871)年」
  • 江戸時代にも、名所図会に、柘榴坂北脇の石神社前の水路が描かれていること
     諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ
などによるのであって、この点は、もう少し追及してみたいところなのである。


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