2020年1月3日金曜日

三田用水の通水期間(その2:近世)


  三田用水の通水期間(その1:近代)
  https://mitaditch.blogspot.com/2019/06/blog-post.html
  の続篇です。

■幕末期に…

三田用水路に、1年を通じて通水されていた可能性を示す史料については、前篇「その1:近代」の末尾で触れたが、ようやく手持ちの資料中から発掘できた(史料6。ただし、後述のように2次資料のうえ、出典もあきらかではない)の機に、改めて、手許の資料を見直して、そこに至る時系列をある程度トレースできる史料を抽出してみた。

以下、それらの史料を、原則として作成日時順に挙げてみることにする。



■用水の開鑿初期の「原則形」

1 渋谷区・編「渋谷区史料集三」同区/S57・刊
  野崎家文書/一一、天明八年 三田用水頼吟味中日記続 p.111
  「舟橋安右衛門様 御役所」宛「延享四年正月十三日」(1747年2月22日)付
  「乍恐書付を以奉願上候」
 

右〔三田・細川両上水の〕堀鋪拾四村田場用水堀被下置候同八卯年伊奈半左衛門〔忠達〕様へ右拾四村御料・私領ゟ奉願候得は願之通被仰付、御役人御差出堀筋御普請被仰付、世田谷領下北沢村之内て四谷御上水を引分ケ毎年三月苗代ゟ圦之戸前ヲ明ケ、八月末至田場へ水入用無之節は圦ノ戸〆置申侯、尤右堀敷御年貢之儀は永引被仰付、堀筋之義ハ半左衛門様御掛りて御座候、 
 
 これによれば、旧三田水と細川上水の水路敷を利用して三田水を開鑿した当初は、毎年3月の苗代の時期から、旧暦8月末(新暦ではおむね9月末から10月初め)に限って通水することとされていたことになる。

 
延享3(1746・7)年冬季の通水とその破綻

2 ●渋谷区・編「渋谷区史料集三」同区/S57・刊
  野崎家文書/一一、天明八年 三田用水頼吟味中日記続 p.111
  「舟橋安右衛門様 御役所」宛
  「延享四年正月十三日」(1747年2月22日)付 
  「乍恐書付を以奉願上候」(前掲続き)

然ル所此度上大崎村之内本多伊予守〔忠統〕様御下屋敷江御分水被遊度由て去九月廿六日町年寄奈良屋市右衛門殿堀筋御見分之上水組村方ゟ書付御取被成御吟味相済、水上拾弐ケ村分水口不残御留メ水下大堀之義も御築留、四ッ谷御上水圦樋戸前同十一月三日不残御明ケ水御引被遊候付水勢強く御座候故、三田村之内銭噛窪と申築樋之場別紙絵図之通同十二月廿一日押崩シ松平主殿頭〔忠刻〕様御下屋敷へ夥舗水吐候二付…
 延享3年末に、上記原則を修正して、本多伊予守の上大崎村所在の下屋敷*への通水を試みた折の記事である。
 本多は、吉宗の許、享保の改革を実務的に推し進めた立役者といわれる、当時の幕府の重臣の一人といえるが、自邸のためだけの私的な目的で通水を行おうとしたのであれば、「四ッ谷御上水圦樋戸前同十一月三日不残御明ケ」というのは「水の流し過ぎ」**と思われるので、どうも、水路沿の武家とくに大名屋敷への1年を通じての通水を行うための実験的な意味があったように思われる。
 しかも、後記「史料4」の理由から、将軍家の鷹場などの保全のために「水上拾弐ケ村分水口不残御留メ水下大堀之義も御築留」しているのだから、水積900坪(3尺四方分)の水が、最下流部まで流れ落ちることになる。

 果たして、現在の目黒の日の丸自動車教習所西あたりの「築樋之場***を決壊させて、


日の丸自動車教習所前の三田用水のモニュメント
木樋を支える基礎として使われた石が使用されている

水路西側斜面下の「絶景觀」とも呼ばれた松平主殿の屋敷内を「夥舗」〔おびただしく ^^;〕浸水させてしまったわけである。

歌川廣重「繪本江戸土産」のうち
「目黒千代が池」
松平主殿の屋敷内にあった

国会図書館・蔵「弘化三年九月調 麻布…碑文谷 一圓之繪圖」(NdlId:2567256)より
錢噛窪分水付近を抜粋し、色彩を修正
この付近は三田用水路の水路が築堤上にあることが、水路脇の緑色の表記でわかる。
円内で、上方(東方向)に分岐している水路が「錢噛窪左岸分水」(別名「白金分水」)
実際には、これとほぼ正対する位置に「錢噛窪右岸分水」があり、
上記の「絶景觀」内の「千代が池」につながっていた
https://mitaditch.blogspot.com/2017/04/blog-post.html
http://mitaditch.blogspot.jp/2016/11/blog-post_6.html
 


結局、三田用水路への冬季の通水の試みは、後記「史料5」から判断すると、沙汰止みになったと思われる。

*  〔補訂〕200404
  この屋敷の具体的な位置が、どうや特定できた。
  国会図書館のデジタルコレクション中の
  「目黒中渋谷下渋谷 : 寛保延享ノ頃」〔1741-1748〕
  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542333/5
  によれば、水路右岸(南)のおそらく鳥久保分水脇に、本多伊豫守の屋敷があったことがわかった。
  当地は上大崎村であり、地図の表題とは時期的にも整合しているが、現在の目黒駅付近の永峯町のあたりを
  みると、細川上水と三田上水が描かれていて、この表題が描かれている水路と整合していない。
   
** 明治初期、海軍の火薬製造所のために用水を増水させる際の水路改修図面によれば、茶屋坂上付近の本水
  路に水堰を設けて、そこから下流に流れる水量を制限している。


東京都公文書館・蔵 M13土木課往復録・甲3815抜粋
図の右端に、本水路(大堀)に設けられた「樋口」がある

***この付近は、渋谷川と目黒川の分水嶺となっている尾根が痩せた場所にあたり、そこに水路を通すために、堤を築いたうえ、その上部に木製の樋を置いて通水していた場所である。


■決壊した水路の御普請(幕府費用負担の工事)による補修
3 前掲「野崎家文書」 p.107

  「伊奈摂津守(忠尊)様 御役所」宛
  「天明八年申四月」(1788年5月)付
  「三田用水一件此度願書之趣御吟味ニ付乍恐奉申上候」
    :

一、延享三寅十二月、右用水路之内字銭瓶窪築立場伏樋之所三拾六間大破仕村々自カ難及付、其節之御支配舟橋安右衛門様御役所江奉願候処、御吟味之上翌卯三月御入用御普請被仰付、出人足は御扶持米被下置候、
       :

  前記「史料2」は、事故の報告に止まるものではなく、それに続けて、決壊した水路の補修費について、用水組合員である農民の手に余るとして、幕府にその負担を請願する文書である。
 その結末について、事故から約40年後の上記文書に記述があったので、時間的に順不同にはなるが、ここに引用しておく。
 いわば幕府の都合による通水による事故であることが考慮されたのか、御普請つまり幕府の費用負担で補修工事が行われたことがわかる。
 加えて、御普請といっても、木材や切石などの材料費、大工、石工などの職人の手間賃は、幕府持ちながら、土工事などは関係農民の負担で行われるものが多いようだが、この工事については、動員された農民(出人足)の扶持米(実質的には日当)も下付されている。*

*「 徳川」幕府とはいうものの、遅くも「参勤交代した唯一の将軍」といわれる吉宗の享保期前あたりから、「徳川」との名はついていても、親藩、有能な譜代、有力な外様による集団指導体制になっていたように思われる(徳川宗家の断絶に加え、相次ぐ天災による幕府財政の悪化が要因と言われる)。
  そのような時代になったせいか、上記のような事態に対して幕府は、現代の我々の基準からみても、合理的、というか「リーズナブル」といえる対応をしている。
 尤も、これは、用水沿いの村々に、いわゆる「天領」が多かったせいで、いわば行政的に対応できたともいえるかもしれないのだが、品川用水を巡っての「水争い」について、行政的な対応が尽きたときの、最終的な幕府の司法的な判断を見ると、この国が、この時代も、いわゆる律令制時代から連綿と続く、法治国家だったことを痛感する。
 この話は、新たにブログを作らなければいけななくなるかもしれないので、ここではこの程度で。
 
 
4 前掲「野崎家文書」p.100-101
 
  御奉行所様」宛
  「天明八年申三月五日」(1788年4月10日)付
  「乍恐以書付奉願上候、
 
武州荏原郡品用領北品川宿・上大崎村・下大崎村・同州同郡馬込領谷山村・上目黒村三分・上知目黒村・中目黒村・下目黒村・同州豊島郡麻布領下渋谷村七分・中渋谷村三分・同州荏原郡麻布領白金村・三田村・同州同郡世田谷領代田村、都合拾四ケ村御料・御霊屋料・私領・寺領弐拾四分組合三田用水組村々…は御鷹野御場故秋之末后翌春末迄御飼付場故、水懸渡不罷成…
 

 三田用水に、冬季間通水しない理由が、単にこの期間は水田に給水の必要がない、というばかりでなく、水路の周辺地域が将軍家の「御鷹野御場」(大半が「目黒筋御場」、一部「中野筋御場」にあたる)
<https://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502>
で、鷹狩の対象となる、キジ、ウズラあるいはツルなどの餌の確保や生育のためにもあったことを示す文書である。

冬季に三田用水に通水しない、もう一つの理由
5 前掲「野崎家文書」 p.108

  「伊奈摂津守(忠尊)様 御役所」宛

  「天明八年申四月」(1788年5月)付
  「三田用水一件此度願書之趣御吟味ニ付乍恐奉申上候」(前掲)

勿論本文ニ申上候通古来二筋之水道年中通り候故、近郷之田畑共一統潤ひ候間、田方之水持宜御座候所、只今ハ冬水桶通り不申、 
    : 
依之此度無拠奉願候は、冬水相通し候義不罷成侯共、年々三月上旬ゟ八月下旬迄御定之樋口通用水被下置候様奉願上候義御座候、

(附箋)「御場所筋故、冬水相通し候義は罷成申間敷候間、毎年三月上旬ゟ八月下旬迄用水潤沢被下置侯様奉願上義御座候、尤三月上旬后ハ苗代時節候得共、此義は只今迄之通御場御用相済次第水懸渡し可申候、」


 前記「史料4」の理由から、三田用水では、早春の苗代への水の利用も制限されていたことがわかる。

 なお、引用文の冒頭に「古来二筋之水道」とあるのは、三田用水の前身である三田上水+細川上水を指す。これらは「上水」だったので、原則として「年中通り候」という状態だったのである。
 
 
冬季に三田用水に通水のなかったことを示す実例

6 東京都品川区・編「品川区史続資料編(一)」同区/S51・刊
  二 近世編 (一)支配 4 貢租  p.231

   廻状
  「文化8年 9月8日」(1811年10月12日)付

以廻状得御意侯、秋気相増候得共弥各様方御安康御勤役可被成御座珍重奉存候、然ハ三田用水昨七日皆留被仰下右付、未田揚水掛之場所も有之由申立、弐分明キ御願申上侯処、外用水不用時節、当用水斗入用之儀者いかゝ候哉、願之趣日限致候、明九日四ツ時迄差出可申出被仰渡、右付其御村方水車人江も申聞度儀も有之侯間、柳屋源蔵方迄可申付御差越可被成候、尤今ひる七ッ時無間違無御差出可被成候、年番共相待居申候間、右之段廻状を以御通達致候、此状早〃御願達留りゟ御返し可被成候、己上、
      九月八日              当未年番
 三田用水の冬季の通水が行われていなかったことを示す実例である。
文化8年9月7日(1811年10月11日に通水が止まった後、まだ水を必要としている水田があるとして、「弐分明」つまり通常の20%の通水を願い出たところ、その必要性を具体的に文書で示すよう指示されたので、それを、関係者に照会するための廻状である。


■幕末期の高輪薩摩屋敷への通水
7 企画・建設省関東地方建設局京浜工事事務所/編集・多摩川誌編集委員会「多摩川誌」
 (財)河川環境管理財団/昭和61329日・刊
 「第4編 第2 1.4.1 亀有,青山,三田,千川上水」
              http://web.archive.org/web/20130105185141/http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/kensaku/mokuji2/01youyaku.html
弘化年間(18441847)には高輪の島津薩摩守邸内にも分水された.
 幕末期に、三田用水が、高輪の、現在の品川駅西にあった薩摩藩の下屋敷にも供給されたとする史料であるが、残念ながら2次資料であるうえ、出典も不明である。

 しかし、
  • ここは、三田用水の前身の三田上水が供給されていた地域であること(正徳上水図)
  • 維新後は、北白川宮家などの屋敷地となった場所であり、その庭園跡に水路が残っていること
  • 屋敷地南の柘榴坂沿いに水路があったことは、江戸名所圖繪の「石神社」の絵から明らかであること
  https://mitaditch.blogspot.com/2019/01/blog-post.html
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/06/post-9eaf.html
 などから、かなり信ぴょう性が高いといえる

 しかし、この通水が、春先から秋までの季節的なものに止まるのか(上記「石神社」の図会に描かれている時季も、服装からみて冬季ではない)、1年を通じてのものなのかは、現時点では不明である。

■備前岡山藩下屋敷への通水
8  大崎御屋敷図

    絵図分類名 屋敷図 T5
    資料番号 T5-134
    旧題  池田信充所有大崎御邸旧図
    年代(和暦) 未詳
    年代(西暦) 未詳
 現在の上大崎1丁目から東五反田5丁目にかけて、後に池田山と呼ばれることになった、備前岡山藩池田家の下屋敷があったが、その屋敷地のほぼ北西(図の左上)に
「上水元井戸」
と書かれた四角いマークがあり、それが邸内一帯に張り巡らされた水路に接続されている。

9 大崎御絵図 

  絵図分類名 屋敷図 T5
  資料番号  T5-76
  旧題  江戸大崎御屋敷絵図
  年代(和暦)  明和9年10月
  年代(西暦) 1772
  http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/zoomify/T5-76.html


 こちらの図では、上図の上水元井戸の場所は、左下(南東)方向の敷地内の水路に接続されているほか、右手(北)方向に同様の線が描かれている。
  • これが、掘井戸ならば、広汎な屋敷内に水路で水を供給するのは不可能といってよいこと
  • また、この場所が、この邸内で最も三田用水路に近接しているといってよいこと
から、

この北方向からの水路が、三田用水に接続されていることはほぼ確実で、この図が描かれた、明和9(1772)年当時、1年のうちの通水期間は不明ながら、ともかくも、岡山藩邸に三田用水の水をここに引いていた可能性は極めて高い、といってよい。

 ただし、通水期間を通年というには、先の、とくに「史料4」との矛盾が解消される必要がある。

 
■とりあえずの結論としては…
近世期の三田用水の通水期間が、通年であることをかなりの確率で認定できるのは、前篇の「その1:近代」末尾にふれた「合薬製造所」設置以降と、今のところ判断せざるを得ない。

  なお、遅くも明治初めには水車があった品川用水でも、分水口の冬季の最大で3分開けが認められたのは、
 明治10年になってからで、明治3年当時は、毎年4月1日より9月30日までは「皆開キ」それ以外は「皆塞ギ」
 だった(品川町「品川町史 下」同/S07刊pp.865-866)。
 遡って、慶應4年当時も、春彼岸から秋彼岸までは「3分明」で、それ以外は閉塞されていたという(同p.853)。
 付言すると、明治3年3月民部省土木司による「分水口の改正」で、分水口の面積が従前のほぼ3割に縮小
 されているので(小坂克信「近代化を支えた多摩川の水」玉川上水と分水の会/2012・刊pp.17-18)、慶應4年
 当時と明治3年当時とでは、通水期間、通水量とも大きな変化はない。
 
 ただ
  • 冬季は、玉川上水の主要供給先である江戸府内の水の需要も減少するはすなので、いわば「物理的」には、冬季の通水に支障はないはずである
ので、残る支障としては
  • 前記「史料4」で触れた、目黒筋御場による制約があり得る
ことになる。
 幕末期には、いわゆる「駒場野騒擾」
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Komaba.htm
など、駒場御場については様々な変化があった*ことが知られており、同所に関する変化と三田用水の通水の管理との関連を、検討してみる必要がありそうである。

*たとえば、慶應3(1967)年正月には、これらの御場を取り締まっていた「鳥見役」が廃止されている
  (世田谷区立郷土史料館・編「旧太子堂村森家文書 御用留 四」同区教育委員会/H29・刊 pp.268-269)
 

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