【旧朝倉邸勉強会】重要文化財「旧・朝倉家住宅」の保存と活用を「地域」から考える


「第14回代官山フォーラム」第3部 於:代官山ヒルサイドプラザ  2018 316

[基調報告]重要文化財「旧・朝倉家住宅」の保存と活用を「地域」から考える

                     きむらたかし@三田用水

1 旧・朝倉家住宅の「重文」への途

  大正 5年 義父・朝倉徳次郎氏 朝倉虎治郎氏*が建築に着手
 
徳次郎氏の妻であるナミ氏は、明治42年に没し、そのころから徳次郎氏は現在のヒルサイドテラスANNEXのところに建てられた隠居所に移ったと思われる。


*M37 渋谷村・町・区会議員 T04 東京府会議員 S07 府会・区会議長


虎治郎氏は府会議員となったのを期に、政治家としての事務所を兼ねた、この旧・朝倉家住宅の建設を企図したものと思われる。そのためと思われるが、この住宅には接客用の部屋が非常に多い。 
     「本宅新築支払控」(「猿楽雑記」口絵)によれば
      T07/06 に 「石留払」とあるので、このころ石を敷き並べた基礎工事が完成
      続いて、同月「木材うんちん」とあるので、木材を搬入
      9月に「大工手間」「コヤガケ」とあるので、ここから、作業用の小屋を建てて、仕口・継手の加工「刻み)
      を開始したようである 


     詳細は、「【旧朝倉邸勉強会】旧朝倉家住宅 建設経過の推定 」で
      

  同  8年 完成 (棟札:大正8年3月16日)

  昭和19年 朝倉虎治郎氏没 (妻・タキ氏 昭和21年没)

  同 22年 ()中央馬事会に売却     相続税・富裕税(戦後)納付のため

  同 23年 農林省(→農林水産省)に譲渡 ()中央馬事会解散のため

        この間 大蔵省に所有権移転

  同 32年 経済安定本部(→経済企画庁→内閣府)が借用 

農林省時代同様長官公邸として使用

  同 39年 渋谷会議所と改称

  平成11年 このころ 会議所(当時 総理府)用途廃止

 *平成14年 旧朝倉邸保存運動開始 【『猿楽雑記』p.136参照】

       渋谷会議所の保存を考える会」(8月) 朝倉徳道氏、槇文彦氏ら

          →「渋谷会議所(旧朝倉邸と庭園)を考える会」(11月)

            『鈴木教授報告書』(152月)
                 東京大学大学院光学系研究科建築学専攻鈴木研究室
                     「旧朝倉邸(渋谷会議所)調査報告書(仮)」2003/03

           →「朝倉邸と庭園の将来を考える研究会」(153月)財務省などに働きかけ

            「朝倉邸と庭園の将来を考える会」(同4月)


H15年2月の保存運動のWEB発信開始直後にたまたまダウンロードしていた空中写真。
この種の「運動」の初期にありがちな「貧乏臭さ」が微塵もないWebページに驚いた記憶がある。
   
    平成15年 11月 文化庁、財務局、東京都、目黒区、渋谷区が管理団体についての
               打合せ会開催 この時点で「内定」


   平成16年 1015日 文化審議会答申

        1210日 重要文化財指定(附指定:棟札、庭門、附属屋)

        文部科学省(文化庁)に所管変更

  平成17年 11月 渋谷区「旧朝倉家住宅保存管理活用計画案」(以下「計画案」)策定

  平成18年 11月 渋谷区を管理団体に指定(維持費は渋谷区が負担)

 *平成19年 1月~12月 「旧朝倉家住宅管理等検討会」(4回)

 

【指定理由〔結論部分抜粋〕】

重文指定基準1: (五)流派的又は地方的特色において顕著なもの

  旧朝倉家住宅は、接客のための御殿、内向きの座敷、茶室など、機能に応じ異なる意匠でまとめた良質の建物と、これと一体となった庭園が良好に保存されている。東京中心部に残る関東大震災以前に遡る数少ない大正期の和風住宅として価値が高いとともに、東京が近代都市へ本格的に脱皮する過程で、市街地化が急速に進む周縁部において営まれた邸宅であり、近代における和風住宅の展開*を知る上でも重要である。

 

1階(黒)、2階(青)、屋根(赤)(各鈴木報告書)の重ね図
右上(南東)の内玄関脇から、左(北西)の蔵への通路入口まで「中廊下」が貫いている
右上(南東)の内玄関脇から、左(北西)の蔵への通路入口まで「中廊下」(黄塗部分)が貫いている
 
  *木村報国「明治時代の住宅改良と中廊下形住宅様式の成立」北海道大學工學部研究報告 Vol.21,pp.51-149,1959
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/40656

  中廊下を備える住宅は、明治末期ころからその前兆が現れ、大正期に入って普及した
  旧朝倉家住宅の建築は、その定着した時期にあたるといえ、これが指定理由にいう
  「近代における和風住宅の展開」の過程を示すサンプルといえる


  もともとは、いわゆる接客のための「表向」とバックヤード「奥向」を分断する機能を持ち、ある部屋から
   他の部屋を横切らずに他の部屋に移動するために考案されたと言われているが
  平井聖教授によれば、使用人が主人やその家族のいる空間に不用意に入り込んでこないようにすること
  が普及の要因だった、とする。(同「日本住宅の歴史」NHKブックス209/S49:刊 pp.192-193)


【資料画像】内玄関側からみた中廊下



2 「地域」との関わり

(1)  これまで(「1」中「*」印)

   保存運動 (前述)

検討会  2町会長(親交会・恵比寿新栄会)、故・元倉副理事長、朝倉理事など参加

∴かつて「相応のチャンネル」はあった。                     今は?

    旧朝倉家住宅は、地域の強い要望で重文指定に至り、その運営についても地域からの意見を検討会を通じて反映させる機会があった。いわば「地域ネコ」ならぬ「地域重文」である。
 
(2)  これから

何をしたいか、何をすべきか、何ができるか?             本日のテーマ

   どのようなチャンネルを構築するか

 3 「重文」(文化財)の取扱い 
(1)「保存と活用」

     平成30年2月28日読売新聞夕刊1面記事など

      文化審議会文化財分科会企画調査会中間まとめ
      http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2017/09/20/2017083101.pdf
     
              旧朝倉家住宅には大きな影響はない ∵国(文科省)有

      文化財を「どう使うか」は、一義的には「所有者」の判断

      それに、法律上・手続上の制約が加わっている
        +「制約」についての憲法29条に基づく代償措置

(2)文化財中建築物の「特殊性」

(「活用」についての本質的前提)

   「使うため」に作られ、「使われた」からこそ残った

                            例外:寺院の五重の塔など

    私有の建築物は、現に「使われ」るのがむしろ通常    民家(60%*)・住宅・寺院**
          *その半分には、人が居住していると推定される
         ** 仏教寺院であれば、まず例外なく堂内で灯明をあげるし、密教系寺院の護摩法要では大量
           に火を焚く。東大寺に至っては、僧侶が火のついた松明を持って堂内を走り回る


    公有の建築物も、「使われている」例が多い                Ex.旧神戸居留地十五番館

     参照:文化庁「文化財建造物等の地震時における安全確保の指針」H08
              H07の兵庫県南部地震で、上記「旧神戸居留地十五番館」が崩壊した
          
早朝の地震だったので、人身には事なきを得たものの、平素レストランとして使われて

             たので、地震発生の時刻によっては、ここだけでも大惨事となっていた
              この事態を受けて、文化財建築物の防災について、従来は火災対策を主眼としていた
          ものから、地震対策も重視することになった



∴「お宝」だからといって「しまって」おくわけにゆかない

    ←建築物は、(広い意味で)使ってこそ価値がある

    ←建築物は、使わないと痛む 湿気による腐朽・蟻害・カビ など
                                Cf.高松塚古墳

    結局「痛まない程度に、どこまで、どう使うか」という課題に帰着する

      利用を前提に保存し、保存を前提に利用する  Ex.山形県旧県会議事堂

建物内側には、かつて県会の議場として使われた大きく開放的な空間がある
その空間を内装も含めて維持し、催事のスペース等としてしての活用もはかるため、建物の内側で耐震補強すると補強材だらけになってしまうことから、建物外側に補強材として鋼鉄製の(フライング)バットレス〔控壁〕を設ける方法が選択された
この種の後から設置される部材は、従来の建物部分と明確に識別できるものとする一方、なるべく存在感を無くす必要があるため、鋼材を一般的なボルト止めでなく溶接で組み立てている

参照:宮澤智士「保存と活用」(『歴史的建造物の保存』新建築学大系50 所収)pp.394-396
     木村勉・金出ミチル『修復』(理工学舎/2001・刊)pp.83-103
(3)「保存」(と「復原」)のための修理(「近い将来」の課題)
    文化財の修理 ①解体修理 ②半解体修理 ③屋根葺替修理 ④塗装修理
          ⑤部分修理 ⑥*管理的補修

          *⑥にかえて、災害復旧、調査工事を挙げる資料もある

   従来 旧朝倉家住宅では

平成17~18

    主 屋 一部の屋根の葺替(③〔一部〕)
        玄関脇の柱周辺(⑤)

    附属屋 庭門  ①(文化庁解体→渋谷区再築)
        旧車庫 ②+復原修理 後述

建物の現況

築後100年経過(大正8=1919年)

屋根は平成1718年に台所上など一部葺替えたが、その他は、現在、素人目にも劣化が目立つ



文献によれば、屋根材の耐用年数は数十年とされている
完全に艶がなく黒い部分は、どちらも、損傷したオリジナルの瓦から交換した部分である可能性が高い
しかし、それ以外の部分については、旧朝倉家住宅の方が高品質の瓦と思われるのに、この20年の間の、瓦表面の艶の差は覆い難い。

  H17には

   柱の垂直性などに一部異常が発見されている(渋谷区報告書p.32

濡れ縁、入側廊下の端部の束の束石からの踏み外し(同上)+犬走の亀裂

←地盤の生い立ち(敷地の一部は傾斜地に盛土)に起因する不同沈下か?
 
 
    →「そう遠くない将来」に大規模な補修(①②)が必要

   ・復原修理は、大規模な修理(①②)と並行して行われることが多い
      (近年は、さらに耐震性向上工事〔前述〕も)

   【復原修理の手順の概略】

予備調査 文献・史料収集、非破壊による調査など
    補助金申請との関係もあり、この段階でかなりのレベルの目処を付ける必要がある

    解体しながら、調査し、復原のための「証拠」を探す 
            ←建物それ自体が、最も重要な「動かぬ証拠」
      ・バラしてみないとわからないことが多い
      ・逆に、バラすと想定外のことがわかることもある

    その他の資料を含めて復原計画を立てる

    文化庁長官に対する「現状変更許可」の申請→文化審議会での審議

    許可内容にしたがって復原・再構築

 4 「懸案」としての「復原」

  渋谷区の「活用計画案」・「検討会」のメインテーマの一つ

    とくに、「〔洋風〕1階会議室」(現狀) ←〔和風〕寝室・座敷・仏間(原状)

     通常の住宅の「リフォーム」ならば、「それらしく古めかしい」設えの敷居、鴨居や襖を補足
     する程度で済む
     しかし、厳格な根拠が必要な、文化財の「復原」の場合には、「どう戻すか」について大きな
     制約がある

      

  ・どの時点まで「時間軸を巻き戻す」か

    原則=新築時〔←復*〕 ただし、当時の状態を示す合理的根拠・資料が必要

        Ex.金剛寺(高幡不動)山門・不動堂 S3133

→解体調査で解明された改築経過に基づき建立時の室町期の姿に

*この「原」との文字に「オリジナルの状態に戻す」という意味が込められている
                 つまり「いいとこ取り」はできない


→新築時の建物の状況について確実性の高い資料のない場合は
 別の時点を探る

        Ex.下ヨイチ運上家(北海道) S50~54

          →嘉永6(1863)年建築の、倭人の商人とアイヌとの交易所

           新築時の資料が不足のため写真等の残る明治期の姿に

           位置、方角については、古絵図で特定(明治期に曳家)


各「修理報告書」より

「復原」というと、右の「下ヨイチ運上家」のような「失われた物を補足する」ような変更を想像しがちである
しかし、左の高幡不動は、主として江戸時代の流行に沿った華美な装飾物や欄干などを全て取り外して、創建された室町時代の姿に「復原」されている。
堂の正面にある向拝の軒先から取り外された鳳凰の彫刻は、不動堂の奥に新築された「奥殿」に展示されている。
 
     結局 確実性の高い資料のある、最も古い時点が原則となる

     しかし、旧朝倉家住宅の場合、微妙な問題がある

  ・どこを復原するか

    その建物の価値を主としてどこに認めるのか

              公開範囲にも関係

     たとえば、台所 ←徳道氏のスケッチ参照

いつの時点の状態に復原するかによって、コンロor竈や水場が異なるものになる
また、竈に復原するにしても、大正8年の時点に戻す場合には台所上部の煙抜きを撤去することになる
また、当地の渋谷町水道が通水を開始したのは、大正12年5月1日なので、それまでは三田用水か井戸の水を水瓶に汲み置いて使っていたことになる
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112061/28
逆に、虎治郎氏は、渋谷町水道の調査委員などを務めていたので、その通水後は率先して水道を自邸に引き込んだはずである
 
 
 5 旧朝倉家住宅での「解体修理」「復原」の実例
(1)  庭門
解体→再構築時の復原
(2)「旧朝倉家住宅附附属屋」〔車庫〕
    半解体→「原状」に復原(「現状」から躯体一部撤去・面積減少)

赤丸が車庫 「鈴木報告書」添付図に補入

 


右上の写真は、文化庁の説明資料より

 
 
6 これから、「地域」として、できること、すべきこと、は何か


(1)「旧朝倉邸勉強会」H19/12

    起源:故・元倉副理事長の

「代官山 スクール開校案」H19/11

    ←「代官山大学『代官山学』講座 開講()H19/04

  「講座1」として「旧朝倉家住宅の歴史と保全活用計画」

    概要:「旧朝倉家住宅」に関する課題について調査・検討し、

渋谷区唯一の重要文化財の保全や改修に関し区への応援団となる

(2)勉強会の「とりあえずの作業」

    復原修理を想定した、過去の旧朝倉家住宅の情報収集 ←徳道氏の作業の継続

    分散している情報を収集して集積・統合し関者間の共有化をはかる

      →いずれは公開して、旧朝倉家住宅に関する

・理解者を増やす

・埋もれている情報の提供を促す

この2枚の写真だけで、失われた正門をかなりの精度で復原できることがわかる
同様の資料となる、地域に眠っている写真として期待できるものとして、たとえば
・門を「借景」として、その前で撮った子供の七五三や入学の記念写真
   門の細部、とくに右脇の潜戸の意匠がわかる
・邸内1階の続き間で、虎治郎氏の支持者を集めた宴会時の記念写真
   襖絵や欄間の意匠がわかる
などが考えられる。
・統合した情報の未来への承継をはかる

 

文化遺産の保護・復原について

専門的知識を有する先生方とのネットワークを構築する

                                  以上

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