2019年1月4日金曜日

三田用水の品川分水

■品川町史の…

・中巻
https://books.google.co.jp/books?id=eM5etc2FqQsC&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&pg=PP989#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false
 *タイトルに「上巻」とあるのは誤記
のpp.487-501には
寛政9〔1797〕年10月「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」記載の、

・下巻
のpp.891-894には
 明治11〔1878〕年10月「三田用水水路分水口寸坪取調書」記載の、

三田用水の分水がそれぞれリストアップされている。



■その約200年の間に…

寛政当時からいくつかの分水口の増減があるが、その中で最も注目されるのが、「あるく渋谷川入門」の著者である梶山公子氏も着目している*「…取調帳」19番の「品川口」といえる。

* http://www17.plala.or.jp/mitayousui2016/
 中「2016年 10月15日
  三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く」 の(註8)

 
と、いっても、三田上水
 
通称・正徳上水図の三田上水流末部抜粋
北品川宿あたりは東海道筋を南下している
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
と三田用水の両時代を通じて、分水口名となっている「品川」(この場合は旧・北品川宿)の農地を灌漑することが可能なのは、公式には三田用水の流末とされていた白金猿町から先の余水路だった、本立寺から南に流下する水路*しか考えようがなかったのではあるが、さりとて、「この元の三田用水の余水路が品川口からの分水」と断定できるまでのウラが、なかなか取れなかったのである。
 
* 約10年前の2009年6月6日に行った、こ余水路のツアーのリポートは
 
■その懸案を解決したのは…
 
「水車台帳」つまり

松本芳行「近代東京の水車 -明治・大正期の多摩川流域尾の水車分布-」1992
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4

だった。

 すなわち、同台帳記載の3+1か所の水車の所在地と引用水路は

#438 河野寅次郎 水車
水車所在地 荏原郡品川町大字北品川字小関耕地611番地
〔引用〕玉川上水三田用水品川分水路

#855 日本醤油株式会社水車
水車所在地 荏原郡品川町北品川宿631番地
〔引用〕玉川上水三田用水品川分水路

#990 (藤倉桂助)二番水車
水車所在地 荏原郡大崎村下大崎477番地
〔引用〕玉川上水三田用水品川分水大崎水路

なお、
#697 立石知満水車
水車所在地 荏原郡大崎村下大崎458番地
〔引用〕玉川上水三田用水大崎

とされていて、これらをいわゆる「郵便地図」にプロットすると、以下のようになる

 





































■このように…

三田用水の「品川口」が、かつての余水路が正式な分水路である「品川分水」となったものであることは明らかになったものの、そこで、新たな問題が生じることになる。

余水路であった時代は、北品川宿の水田の灌漑に必要な水を含めて、白金猿町まで流れてきた水をすべてこの水路に落とせば済んでいたはずだが、先の品川町史下のリストによれば、この品川分水となった時代には水積が規定され*、この品川口の分水口からは、一定量以上の水が流出しないように変更されていることになる。
 
* 4寸7分2厘四方、22坪2合7勺8才

三田用水は、いうまでもなく、水路の勾配にしたがって水を自然流下させているのであるから、品川分水になったかつての余水路に代わるあらたな余水路が絶対に必要になったはずなのである。

そこで、考えられるのは、先の正徳上水図に描かれている、かつて三田上水の時代に、二本榎から、ほぼ現在の柘榴坂に沿ってJR/京急の品川駅前に向かっていた(宿場としての)北品川宿に水を供給していた水路である。

この方向には
  • 江戸時代の終わりころ、弘化年間(1844~1847)に,、現在のグランドプリンスホテル高輪などの場所にあった薩摩藩の屋敷に、三田用水の水が供給しされていたこと
    (企画・建設省関東地方建設局京浜工事事務所/編集・多摩川誌編集委員会「多摩川誌」(財)河川環境管理財団/昭和61年3月29日・刊「第4編 第2章 1.4.1 亀有,青山,三田,千川上水」
    http://web.archive.org/web/20130105185141/http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/kensaku/mokuji2/01youyaku.html
  • 明治期になって、ここは北白川宮などの皇族の屋敷となったが、その庭の跡と思われる「港区立高輪森の公園」に、庭園用の水路の遺構が残っていること
    • 堤塘及水路使用料」とは、三田用水のそれとは別の水利権に基づいて、三田用水路を利用して引用する場合に支払う水路の利用料である
  • 現在の柘榴坂中ほどにかつてあった「石神社」を描いた、江戸名所図会をみても、柘榴坂*沿いに水路があったこと
     (平成作庭記 諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ
      http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/06/post-9eaf.html
      参照)

石神社と門前の水路
 * ただし、各種の江戸図をトレースしてみると、この柘榴坂は多くの変遷を経ているように見える
から、明治期以降も水路が存在したことは間違いなさそうである。

【追記】
なお、三田用水の終端とされる高輪猿町から、二本榎~柘榴坂方向への水路については

の「●明治4(1871)年」の項参照。

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