2018年5月7日月曜日

御城内 玉川上水の揚水用の桝形


■幕末~明治初期の…
江戸周辺の写真としてば、F.ベアトのそれが有名だが、最近注目されている写真としてはモーザー*のそれがある。

*外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」
 http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180406-OYT8T50009.html

 知の拠点セミナー
 http://www.kyoten.org/seminar/H30/78/

■この連休中…
モーザーの写真をネット上で見ることができないかと、検索をしているうちに、

国立大学附置研究所・センター長会議のweb中の

東京大学史料編纂所附属 画像史料解析センター
http://shochou-kaigi.org/interview/interview_41/
と題する、
東京大学史料編纂所 附属画像史料解析センター/近世史料部門維新史料室(兼)
の 保谷徹教授
のインタビュー記事に行き当たった。

■同webページの…
冒頭から3枚目の写真のキャプションを読んでみると…
なんと「城内の旧松江藩邸。下が反転加工したガラス原板画像の全容で、坂の右が藩邸。上の写真は、前に置かれた木製の桝のアップ。ここから上水道を屋敷内に引き込んでいる。
と書いてある。

■当然のことながら…
モーザーの写真の著作権は消滅しているので、PCに取り込み、写真の変形を修正し、さらに、サイズ、色調を調整してみると、

写真全体が



右側の建物の中央より少し奥の、建物の石積みの基礎の際にあると思われる枡を拡大したものが


全体写真の方は元のWeb上の画像が小さかっただけに不鮮明なのは仕方ないとして、枡の拡大写真の方は驚くほど精細であることがわかる。

■記事によれば…
オリジナルの写真は、いわゆる「8×10」(エイトバイテン)つまり、20×25センチクラスより一回りや小ぶりとはいっても、大きなサイズの湿版で撮影されているうえ、現代の標準ないし長焦点のレンズに相当する焦点距離のレンズを使って、ほぼ無限遠の距離を撮っているので(しかも、スナップ・ショットではないので、十分に時間をかけてピントを調整できる)、広角のレンズに比べて、もともと、「性能が出しやすい」といわれている標準~長焦点のレンズの性能をフルに活かした画像なのだろう。

■カメラの…
話はほどほどにしておいて、肝心の用水の枡の話に戻る。

旧松江藩邸(出雲松江藩上屋敷)は、江戸城外堀の赤坂御門を入ってすぐ右手にあり、屋敷地の西側は堀に接している(後記の「五千分一東京図測量原図」参照)ので、この写真は、屋敷の東側の道を北方向から撮ったものということになる。

■ここへの…
上水の給水経路は、

貞享期(1684~1688)のものとされる上水図(通称「貞享上水図」)には

































には記載がない(松江藩邸には、赤坂御門のすぐ東で北側から給水されている)。

また、正徳期(1711~1716)のものとされる上水図(通称「正徳上水図」)でも


「松平出羽守」が松江藩邸
































大きな変化はみられない。

同図では、四谷御門から外堀内側に引き込まれた玉川上水が、門の東の「糀町五丁目」で、松江藩邸を含む3か所の屋敷と「永田丁組合」の屋敷群に向け、それぞれ独立した地中の管路(埋樋)に分水されている。

おそらく、写真の分水は、正徳期の後に、従前からの北側からの給水だけでは水に不足を来たしたとか、邸内に新築した建物に北側の分水からの給水が難しい、などといった事情があって、「永田丁組合」用の分水から新たに分水されたものではなかろうか。

■枡の…
写真をみると、その右(西)側に屋敷内への水の引き込み用と見られる四角い斜めの管が地盤面よりも上にあるのに対し、ここまでの埋樋は地盤面よりも下、つまり地中にあるはずなので、この枡は、そこまでの地形の高低差の影響によって生じている水圧を利用して水位を上げるための、いわば「揚水枡」(上水記によれば「登り龍樋」などともいうらしい)と推定できる。

■と、なると…

「糀町五丁目」から松江藩邸に至るまでの土地の高低差を確認する必要があるのだが、当時から約150年経った現代の地形図でトレースしても、「都心部中の都心部」なので、その間の地形の変化が大きくて全く歯が立たない。

たとえば、国土地理院のwebの「地理院地図」
の「高低差」機能を使うと、一定の区間の高低差を断面図で確認することができる
ただし、現在では後述の三平坂が削られているので、ここでは、使い物にならない。

しかし、この地域については、幸いなことに「都心部中の都心部」だけあって、「地図の宝石」と評する人もいるほど美しい上に細密な、明治10年代に参謀本部陸軍部測量局が測量した「五千分一東京図測量原図」*が残されてる。

* http://net.jmc.or.jp/books_map_tokyoSokuryogenzu.html

■同図を…

歴史的農業環境閲覧システム**
http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html

**東京を選択
  http://habs.dc.affrc.go.jp/habs_map.html?zoom=13&lat=35.68428&lon=139.75339&layers=B0
  Base Layer で
  「東京五千分の1(1880年代)」
  を選択
  Overlays
  はすべてOFF

で確認すると


取り込んだ画像を明るく修正している。中央の「宮内省用地」の範囲が松江藩邸


には、要所要所に標高データも記入されているのだが、全体写真正面の道の部分に記入されている標高データ(海抜 m)を赤字で補入すると、以下のようになる。









全体写真正面の急な坂道の上端が地図の下端にある「三平坂」の頂上と思われ、その急坂部の下から、画面左(東)側に略直交する道路のあたりまで「ダラ下がり」で下ってきていることが見て取れる。

■つまり…

(かなり推定にわたるところはあるが)この松江藩邸東面の道路の南北方向の断面は



 のような状態と考えられ、枡の部分には、少なくとも図の右(北)から枡までの高低差約5メートル強分の水圧が生じていることになるので、下図のような枡を用いれば容易に藩邸内に水を引き入れることが可能になることになる。






















■そればかりでなく…

この部分の水圧にはまだ余力がありそうなので、枡やそこから邸内に引きこむ導水樋(画面右)の気密性がある程度確保できれば、導水樋内の水にも水圧がかかることになり、邸内のさらに高い場所にも配水することも可能だったと思われるし、その程度の気密性を確保するのは、木造船(構造船)の舷側などに用いる木材を剥ぎ合わせる技法を使えば、当時の技術水準でも十分可能だったと思われるのである。

■実は…
この枡にここまでこだわったのには、理由がある。

「貞享上水図」の一部と思われる絵図で、三田用水の前身といえる、細川上水と三田上水が、下北沢村から芝方面まで並走していた部分をみると、いくつかの桝形を示す記号が描かれている。

これらが「単なる接続枡」ならば、少なくとも埋樋の屈曲部などには不可欠なのだから、二本榎から北にはもっと数が多く描かれていなければおかしいことになる。したがって、同図に描かれている枡は、そのような一般的な枡とは異なる、何らかの特別な機能を持っていたものと考えざるを得ない。

その中でも、特に異様に感じたのは、今の目黒駅の略東方で、三田上水を引き入れていると思われる保科肥後守の屋敷であって、屋敷への引水を示す茶色の線が引かれているばかりでなく、その線と上水路を示す青い線の交点附近に桝形が描かれている。




























ほぼ同一場所の、細川・三田両上水時代の、沿革圖系の地図


国会図書館蔵「設彩江戸大江図」[伝・延享-宝暦頃](NdlId:8369288)〔部分〕


上の上水図の保科肥後守屋敷は、この図では堀大膳(土佐)?守屋敷となっている。
この図で松平主殿守抱屋敷の南に接している有馬日向守屋敷は、上水図には描かれていない。
このことからも、上水図に水路沿いの全ての武家屋敷が描かれているわけではなく、桝形と同様に一定の条件を満たすものだけが描かれていると考えられる。















































実際、前・高松宮邸のところにあった細川家中屋敷への上水道である細川上水はさておいて、三田上水は、もともとが芝・三田(あるいは、それに加えて高輪)地区への上水の供給を目的として開鑿されたのであるから、その水を引水している屋敷は多々あったはずなのに(細川上水については細川邸に到達する直前の2つの桝形が描かれているが)、三田上水については類例がないので、その点からみても、単なる分水枡や接続枡とは考えにくいのである(そもそも、この辺りは原則として開渠(白堀)だったはずであるし)。

今回判明した、松江藩邸前の揚水用の桝形は、この保科邸前のそれをわざわざ描いた理由を示唆していて、同邸に水を引き入れるために同様の揚水用の枡が設けれていたことを示しているように思われる。


【参考画像】

フェリックス・ベアト撮影の、幕末ころの赤坂の家並(画面左手)。中央の小高い杜は、紀州藩徳川家の上屋敷で、松江藩邸は、その右手前にあったことになる。中央の堀は弁慶堀と呼ばれ、溜池の上流部にあたる。


  
「江戸一目図屏風」津山郷土博物館・蔵   〔部分〕https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/3320315200/3320315200100020/mp030010

左手前の、堀の堰のような場所が、いわゆる「溜池の落し」と思われるので
中央上部の建物群が松江藩邸ということになる





【追記】2018/06/04

芳賀徹:外「写真でみる江戸東京」新潮社〔とんぼの本〕/2003年・刊

を眺めていたら、p.92に、玉村康三郎撮影と推定されている、モーザーのそれとほぼ同一アングルの写真(横浜開港記念館・蔵の由)があった。



すぐ前に、人物が写り込んでいるので、モーザーの写真よりも、揚水枡の大きさの見当を付けやすい。

しかし、左側のお武家さん(なんぼ背が低いとしても、身長140センチ位はあるのでは?)
との距離の差を考えてもやたらにデカイ
6尺豊かとまでは言えないにしても、頭部とのプロポ-ションからしても、身長170センチ位
はありそうに見える
まぁ、このガタイを見ただけで相手はビビるだろうから、門衛には最適であろう



【追記】
モーザーによる、写真は

YOMIURI ONLINE
「 外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」
の3ページ目
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180406-OYT8T50009.html?page_no=3
でもみることができる。



【追々記】

■揚水枡に味をしめて…

幕末~明治初期の他の写真に用水の枡が写っているものがないか、探してみると

後藤和雄/松本逸也・編「写真集 蘇る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社/1987・刊

pp.6‐7の「江戸・外堀呉服橋周辺」と題する写真で、道路中央部に埋められている用水枡らしいものが写っているのを見つけた。

解説文によれば、中央左の呉服橋がまだ木造なのと、その袂にガス燈が建っていることから、
明治8~13年撮影とのことである。
【追記】
前掲「写真で見る江戸東京」p.76 の同一の写真についての解説では
右手中央にそびえているのは清水喜助設計で明治7年に駿河町に建てられた三井組
、明治10年に石橋化された常盤橋が木橋なので明治7-10年の撮影だろう

としている。




上の写真中央やや右の路上の桝形。
手前は人力車だが、往来のまん真ん中に放り出しにしておいても、特に問題が生じなかったらしいのも「時代」というものなのだろう。
 
 よく見ると、その前後の道路に、一旦掘削して埋め戻したような跡が見られるので、地中の樋菅を交換して程ない時期なのかもしれない。

正徳上水図〔部分〕


 ここは、現在の八重洲1丁目の外堀通りの場所であるが、上の正徳上水図によると、この通りに赤線が引かれていことから、神田上水の接続枡らしい。

 なお、迅速測図(フランス式彩色図)によれば、この道に樋管が道路に埋設されていることを示す破線が描かれてい。

「歴史的農業環境閲覧システム」
https://habs.dc.affrc.go.jp/habs_map.html?zoom=13&lat=35.68428&lon=139.75339&layers=B0
より
 
【追記】
 
前掲「写真で見る江戸東京」pp.30-31より
横山松三郎撮影の「半蔵門」をモノクロ化+諧調加工
ハイライトの部分が江戸城内に向かう埋樋に設けられた桝の由
人物往来社版「江戸幕府の制度」附図中「江戸城吹上御庭全圖」より半蔵門抜粋
確かに半蔵門から2筋の埋樋が場内に入っている

 
 なお、上水記の図では…
堀越正雄「玉川上水系配管の仕組み」
(「多摩のあゆみ34号 特集 玉川上水そのⅡ」たましん地域文化財団/S59.02.15・刊所収)
p.17
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1392015100/1392015100100010/tamanoayumi034/?p=14


と、より詳細で、余水吐(「吐樋」)まで記載されている。



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