■国立公文書館・蔵の…
「羽村臨視日記」〔羽邑臨視日記〕
https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000001846.html
の6ページ目に、天保4(1832)年当時の、三田用水の取水圦の絵があるのを見つけた。
「画ノ通〔り〕甲州道中新町通り下北沢村地先三田用水 分水口を見届〔け〕初めて秩父淺間邊の山を見届〔け〕候」 と読むのだろうか? それにしても、今の世田谷区北沢5丁目から (サイズはともかく)浅間山が見えたのだろうか。 |
【参考】 寛政元(1789)年の改修記録
【野崎家文書】「三、天明八年 三田用水頓吟味中日記」
渋谷区「渋谷区史料集」同区/S57・刊 p.45
乍恐以書付奉申上候、一、三田用水組合村々惣代之者奉申上候、右三田用水圦樋大破仕候二付、去申年御入用御普請奉願上御見分御吟味相済、普請被仰立被下置候処、只今以御下知無御座候段被仰渡奉畏候、然所最早苗代時節ニも相趣候二付、用水懸渡申し度奉存候へ共、右圦大破二付去申年中も漏水等仕候故、御上水方御役所ゟ度々御察当有之候二付、此度御普請奉願上候段申上置、用水取入口築留置申候、右之次第二御座候得は当用水引方御願可仕様無之難犠任侠、何分御慈悲急々御普請被成下候様偏奉願上候、以 上 、寛政元年酉四月六日 三田用水組村々惣代下渋谷村野崎組名主 善 右 衛 門上大崎村名主 喜 太 郎今里村名主 八 右 衛 門伊奈摂津守様御役所
【参考】編者不明「文化六巳年調 上水方心得帳」
〔推定〕幕府御普請方・蔵/森 左太夫・写
森は「弘化二~嘉永六(1845-53)年あしかけ九年にわたって普請方改役を務めた人物である(坂誥智美『江戸城下町における「水」支配』1999 図5)という。 」(後掲「江戸上水…」p.324)
に、
一 三田用水引取分水口、矢筈形の場所え芥掛り候へは、右引取村方にて取揚候、右取揚候者は代田村内に住居いたし候佐五右衛門と申者に付、上水路見回り候者及見候へは可申渡候事
とある由*。
この上流の、北沢用水や烏山用水などについては、このような「決め事」はみあたらない
*榮森康治郎, 神吉和夫, 肥留間博 編著「江戸上水の技術と経理 玉川上水留・上水方心得帳 : 増補CD版」クオリ/2006・刊 p.314
■なお…
国会図書館・蔵の、いわゆる「貞享〔1664-1668〕上水図」の写しと思われる
玉川上水大絵図. [4]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2589442
書題「貞享の頃 玉川上水大繪圖 貞」
各図を PhotoShopで合成 |
の左上隅には、三田・細川両上水の取水圦が、堰だけ妙にリアルに描かれている。
「武藏通史」によれば、両分水口の距離は3町ばかり(328m)としている由 三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 p.138 |
■この…
分水口は、先の天保期の後、史料上少なくとも2回の改修を経ていることになるし、それが3回以上である可能性もある。
- この絵の17年後の、嘉永2(1849)年4月に、この取水圦は、石造に改修されている*1
〔仮に「嘉永圦という」〕
*1 品川町「品川町史 中巻」同町役場/S07・刊 p.488
東京都渋谷区「新修渋谷区史 上篇」同区/S41・刊 p.515
大正12年の関東地震で、江戸末期の取水圦が崩壊、昭和2年に東京府の水道局の施工により新たな取水圦が設置され*2
- 〔仮に「昭和圦」という〕
*2 三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊〔以下「江戸三田」という〕 p.71
東京都公文書館・蔵 【公開件名】三田用水火薬庫分水取入口改造並水路護岸工事南出豊作 の「計画平面図」を白黒反転 |
同上 |
後者の取水圦が昭和40年代の通水停止まで使用された。
ということになっているが…
どうも、それだけに止まらないようなのである。
■もっとも…
先の「嘉永圦」と「昭和圦」との間に、以下のような小さな変化があったことはわかっているし、昭和圦完成後も同様である。
●明治4(1871)年
高輪南町の肥後七左衛門の飲料水9坪が認められ、三田用水に合流された。*3
*3 「江戸三田」p.50(「三田用水取調表」)
小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団;玉川上水と分水の会/2012・刊〔以下「小坂・近代化」〕p.74
東京国立博物館・蔵 「玉川上水線路図」〔抜粋〕 「三田用水田用水」に加え「三田用水呑水」の独立した取水圦と水路が描かれている |
高輪南町は、品川駅前の柘榴坂下から南方向の海岸沿いの街場である。
もともと、柘榴坂沿いには幕政時代から水路があった。
一方、明治中期には柘榴坂の、南方にあった岩崎家(旧伊藤家)、毛利家、北方にあった高輪御用邸が三田用水の水を利用していた(「江戸三田」 p.156「三田用水普通水利組合明治廿九年度歳入出総計予算」など)が、肥後家への分水が後にこれらに転用された可能性がある。
【追記】
東京都水道歴史館のデジタルアーカイブ
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/
中の、
玉川上水白堀分水絵図
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/content/detail/K0264
の5ページ目に、三田用水の取水圦の下流5間の位置に「後藤象次郎*分」として、縦横3寸、水積9坪の取水圦が描かれている **
反時計回りに90度転回 |
*元土佐藩士で、明治政府の高官を勤め、後に板垣退助と共に自由党を結成した後藤象二郎であれば、後の高輪御用邸の場所に屋敷を構えていた
【三校】法史の玉手箱_vol48_表面_Yellow green (moj.go.jp)
** 解説では「制昨年不詳」とされているが、玉川上水の分水口が統合されてるので明治3年以後、海軍火薬製造所への分水が描かれていないので明治13年以前である
小坂 克信「玉川上水の分水の沿革と概要」(公財)とうきゅう環境財団/2014・刊pp.39,59
」
なお、同アーカイブ中の、明治12年~明治22年作図とされている
玉川・神田両上水平面図
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/content/detail/K0268
の2ページ目には、千川上水と三田用水の水路が描かれていて、その三田用水の取水圦の上流に、後記の明治13年に設けられた「海軍省分水」は描かれているが、先の後藤分の分水は描かれていない
水の速力や水量が緻密に計測されている |
●明治9(1876)年
後に駒場農学校となる勧農局牧場のために三田用水から新たに分水された。
もっとも、分水口には追加・変更はなく、従来のままだったため「水行速カナラシムル為メ元玖樋口象鼻へ三寸ノ坑木ヲ打チ立ルコトヲ許可ニ相成タリ。」とされている。
●明治13(1880)年4月
当時海軍が設置した目黒火薬製造所のための1尺四方(水積100坪)の石造*4の取水圦が、三田用水のそれのすぐ上流に新設され〔「火薬庫圦」という〕、16メートルの水路を通じて、従前からの三田用水に合流された*5
*4 「小坂・近代化」p.90
*5「江戸三田」pp.217-218
但し、海軍造兵廠と組合間の明治24年の條約書の第2条但書では、48尺(14.544m)とされている(目黒区史資料編・同区/S37・刊p.1000)
|
前図からみて、三田用水の嘉永圦を踏襲した構造・仕様と思われるので、 寸法は当然異なるが、嘉永圦の構造・仕様もこの図と同様だろう。 小坂克信「玉川上水の分水の沿革と概要」 https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf p.58より転載 |
●昭和4(1929)年
大日本麦酒(現・サッポロビール)が工事費の全額を負担して、ここから同社の目黒工場(現・エビスガーデンプレイス)までの約5キロメートルにヒューム管を敷設する暗渠化工事が開始され、総工費約24万円を要したこの工事は、昭和10年に完成した。*6
その際、昭和圦のすぐ下流に水量監視用と思われるプールを残して、そこにヒューム管を接続して、そこから下流部分は従来の開渠が埋め立てられている。
*6 サッポロビール株式会社広報室社史編纂室「サッポロビール120年史」同社/H08・刊 p.512
【追記】
の「日本ヒューム管株式会社」のページに、「東京府三田用水管使用 内径四八インチ」と題した写真が掲載されている。
●昭和16(1941)年
これは、水路自体にかかわることではないが、皇紀2600年のこの年、三田用水普通水利組合が設立50年を迎えて、取水圦敷地の南端近くに鉄筋コンクリート製の弁天堂を建立した*7。
もっとも、同地に弁天を祀ったのは、昭和圦の工事の際に地中の巣から大量に現れたヘビの供養のためとのとなのだから*8、工事が行われた昭和初期から10数年も放っておくとは思えず、おそらく工事の直後に小さな堂を建ててあったのではないかと想像しているのだが、そうだとすると、先の水量監視用のプールにかかっていた太鼓橋はやや大げさすぎ、そちらも、昭和16年の堂と同じコンクリート製なので、これと同時に架けられたものなかろうか。
*7 「江戸三田」p.71-72
*8 「江戸三田」p.72
「江戸三田」p.73 なお、ちょうどこの反対方向から、昭和43年に撮影された鮮明な写真が 加藤嶺夫「東京消えた街角」河出書房新社/1999・刊 p.126 にある |
「三田用水普通水利組合所有地 地籍測量図」S59.09 より引用 |
【追記】
暗渠化後の取水口直下の太鼓橋のあるプール状の部分、上流側と左右の側壁は、昭和圦のそれをそのまま利用していたように思われる。
前記:東京都公文書館・蔵 【公開件名】三田用水火薬庫分水取入口改造並水路護岸工事南出豊作 の「計画平面図」を抜粋 |
■疑問の残るのは…
「火薬庫圦」の設置から「昭和圦」の間、いいかえれば、明治13年以降の「嘉永圦」と「火薬庫圦」が2つ並んだ状態は、大正12年の関東地震まで続いていたのか、にある。
この疑問が生じたのは、その状態を地図で確認できるのではないかと期待して探していた
M42測・1万分の1地形図「中野」
のうち地震直前の時期に発行された「T10修測2」図を2010年になって入手できたときである。
しかし、同図をみると
M42測T10修測2・1万分の1・中野+同・世田谷の接合図〔抜粋〕 |
見てのとおり、取水圦が2つ並んでいたり、三田用水の水路の西に16メートルの水路があるようには見えないのである。
■これだけの…
話ならば、道路と同じようにあまりに細い水路は、作図上省略されることもあるので(現に、三田用水からの分水もあらかた表記されていない)断定はできないのだが、もう一つ気になる地図の変遷がある。
それが、「江戸三田」の巻末にも綴じ込まれている「東京市水道水源水路之圖」である。
「江戸三田」巻末の図で、三田用水の水路のあたりを見ると
東京都公文書館のデータベースに明治16年7月4日 海軍兵器局長より三田村火薬製造所に係る玉川上水分水樋口変更工事着手の義照会に付、三田用水は合流の水路に付同用水組合年番戸長へ通知ほか1件の記録
「品川歴史館資料目録 三田用水普通水利組合文書」品川区教育委員会/H09・刊「(2)文書」中p.12に記載の37 明治三三・十二・六 火薬庫分水口見積及仕様表 石工 清水文次郎→荏原郡役所38 明治三三・十二・八 三田用水分水通り豊口見積仕様書 大工 富川作次郎→ 荏原郡々長 村上佳景39 明治三三・十二・十二 通知案(目黒火薬製造所原樋の件起案文書)荏原郡役所~清水条吉他二名なる文書
*この種の普請において、いわゆる基本設計を「見立て」と呼び、同じく実施設計(または、そのための測量)を「水盛」と呼んでいた。
前者には、
取水口より下流、二ツ橋までの6か所の橋の修理費用
取水口より「五番石橋」(=中ノ橋。後の駒場橋)までの800間(1456m)
同所より「中渋谷村分水口」(神山分水口)までの503間(916m)
が記録されている
*原典は、編纂委員長倉本彦五郎「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)pp.42-44
詳細な分析は未了だが、おおむね10数年ごとに伏替つまり全面改修されていることがわかる。
同上 |
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