同大学の西沢淳男教授の
「関東代官竹垣直道日記」が連載されていて、その第3篇
(同大「地域政策研究」15巻4号pp.132-166)
を読んでいたら、そのp.148(pdfファイルのp.19に、旧暦・嘉永3(1850)年1月21日、将軍徳川家慶の駒場狩場への御成の折の、今の文化村通りを登り切って山手通りと交差する辺りを描いた略図があった。
ここは、下の駒場御狩場之圖の右上の四角で囲ったあたりである。
【注記】駒場御狩場と三田用水の、明治期以降の関係については参照
■冒頭の…
【参考】 1805(文化2)年5月3日、家斉の御成の際のルートについて「五月三日
一、駒場原 雉 御成リニ候
:
一、御道筋 例ノ通リ渋谷宮益町・道玄町角ヨリ長谷川屋敷脇通リ原入口御休所、是ヨリ御場ヘ御用相済ミ…御用屋敷御膳所相成リ申シ候」
とある。
目黒区教育委員会「綱差役川井家文書」同/S57・刊p.27
* この制札については、嘉陵紀行 第4篇 「文政三年庚辰五月八日遊 駒ヶ原より四方の方位大略圖」
に、以下のように記されている。
駒ヶ原御用地。御用屋敷前より横折て、北の方に少し行ば下り坂あり、坂を下りはつれば田あり、又向へ上がる坂あり、はつれば木戸の外に、ふりよさ松の大木一本あり、制机〔札〕を建、御用地之内無用のものみだりに入べからずとしるさる、北のはづれにも、此制札有、御立場は御用地の内。西の方へよせて土居を築き、木は植られず、四方の限り皆松を植らる。其外には山畑有處も見渡さる、高さ五六丁ある高みなれど、見晴しはなし、原の内に人の行かふ路二三條あり、こは御用地のめぐりに住、民家の人のはづかに出入するのみなれば、草ふみわけたるのみ也、
つまり、駒場狩場内は、一切の通行が規制されていたわけではなく、近隣の農民が農作業のために、通行することは可能だったことになる。
現に、江戸名所圖會巻之三、八冊の「駒場野」の図には、嘉陵の言及する狩場南の制札が描かれているが、そこには、制札の脇を通って狩場から出るために、空川に架かる橋を渡っている鍬を背負った農民が描かれている。
赤〇が制札 |
なお、著者の村尾嘉陵は、徳川御三卿の一家清水家の用人なので、主君に随行して狩場に入る機会も多かったと思われ、上記は、その折の観察記録だろう。
■実は…
手前左右に三田用水路を渡る橋の欄干が写っている(M35) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843187/10 正門の正式移転前あるが、巨木を用いた門柱は旧正門から移設されている 東大農学部の歴史 - 農学部の黎明 (u-tokyo.ac.jp) 明治11年1月24日の項参照 |
未閏3月21日付け文書の次に編綴されているものの、文化年間の唯一の未年は文化3(1806)年であるところ、同年には閏8月はない。前年の文化2(1805)年には閏8月があるので、何らかの理由で文化3年の文書の中に前年の文書が編綴されていたものと思われる。)
上大崎村
右村役人
この文書は、未8月2日付け文書の次に編綴されているようなので、先に記したとおり、文化年間の唯一の未年である、同3(1806)年のものと考えて問題ないだろう。
- 御入口とあるのが、略図の木戸のあたり、
- 御場所とあるのが御狩場、
- 御馬道とあるのは、同図上方の御成道
M13.04.30付け
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/S52・刊「鏑木家文書」「三二 安政四年五月三田用水路橋修理入用書」p.240 に三田用水の上流部に架かる橋6か所の改修時のデータに「深サ」つまり、橋(略・周囲の地表面)から、変動のある水面までほ測っても意味がないので、水路底面までの距離が記載されていた。これらのうち、神山口~御場入口に近い、下流の3橋については、現在でも位置も少なくとも誤差範囲で特定できるので、順次、下流側から順にこれらを挙げると代々木村地内字ニッ榎 〔二つ橋〕一、石橋 深サ 七尺 〔約2.1m〕
同所〔御場内〕ニ而中ノ杉 〔駒場橋〕一、石橋 深サ 一丈一尺 〔約3.3m〕
御場内二而字三角 〔三角橋〕
一、板橋 深サ一丈二尺 〔約3.6m〕
Half Mile Project:調査サブノート「三角橋」とは
とされ、下流に向かうに従って、水路底面が地表面からみて浅くなっていることがわかる。
水路底面の勾配は、急に緩く変化する場所があると、増水時に、そこで溢水する危険があるので、できるだけ一定に保とうとしているはずであるから、深サの変化は、いわば水路の理想的な勾配に対し、周囲の地表面の勾配の方が強かったことを示していることになり、先の神山口の深サをみると、この傾向がこの先御場入口近くまで続いていたことになる。
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