2021年5月1日土曜日

駒場狩場附近の三田用水路

■高崎経済大学の…

学術機関リポジトリに

同大学の西沢淳男教授の

「関東代官竹垣直道日記」が連載されていて、その第3篇

(同大「地域政策研究」15巻4号pp.132-166)

https://tcue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=152&item_no=1&page_id=13&block_id=21

を読んでいたら、そのp.148(pdfファイルのp.19に、旧暦・嘉永3(1850)年1月21日、将軍徳川家慶の駒場狩場への御成の折の、今の文化村通りを登り切って山手通りと交差する辺りを描いた略図があった。


ここは、下の駒場御狩場之圖の右上の四角で囲ったあたりである。

【注記】駒場御狩場と三田用水の、明治期以降の関係については
参照

■冒頭の…

略図上方の「御成道」〔現在の文化村通りが狩場図のとおり長谷川図書屋敷にそって右に曲がった先で左に折れている〕が、三田用水を渡ったところに御狩場の「木戸」があり、その奥に、濫りな立ち入りを禁ずる「制札」*が立てられている。

【参考】 1805(文化2)年5月3日、家斉の御成の際のルートについて

「五月三日

一、駒場原 雉 御成リニ候 

             

一、御道筋 例ノ通リ渋谷宮益町・道玄町角ヨリ長谷川屋敷脇通リ原入口御休所、是ヨリ御場ヘ御用相済ミ…御用屋敷御膳所相成リ申シ候」

とある。

目黒区教育委員会「綱差役川井家文書」同/S57・刊p.27

*  この制札については、嘉陵紀行 第4篇 「文政三年庚辰五月八日遊 駒ヶ原より四方の方位大略圖」

に、以下のように記されている。

駒ヶ原御用地。御用屋敷前より横折て、北の方に少し行ば下り坂あり、坂を下りはつれば田あり、又向へ上がる坂あり、はつれば木戸の外に、ふりよさ松の大木一本あり、制机〔札〕を建、御用地之内無用のものみだりに入べからずとしるさる、北のはづれにも、此制札有、御立場は御用地の内。西の方へよせて土居を築き、木は植られず、四方の限り皆松を植らる。其外には山畑有處も見渡さる、高さ五六丁ある高みなれど、見晴しはなし、原の内に人の行かふ路二三條あり、こは御用地のめぐりに住、民家の人のはづかに出入するのみなれば、草ふみわけたるのみ也

つまり、駒場狩場内は、一切の通行が規制されていたわけではなく、近隣の農民が農作業のために、通行することは可能だったことになる。

現に、江戸名所圖會巻之三、八冊の「駒場野」の図には、嘉陵の言及する狩場南の制札が描かれているが、そこには、制札の脇を通って狩場から出るために、空川に架かる橋を渡っている鍬を背負った農民が描かれている。 

が制札


なお、著者の村尾嘉陵は、徳川御三卿の一家清水家の用人なので、主君に随行して狩場に入る機会も多かったと思われ、上記は、その折の観察記録だろう。 

 

■実は…

この橋の辺りについては、江戸期のそれを含めて意外に史料が充実している面があり*、これから、順次その整理がつき次第、ここの追記してゆく予定である。

*たとえば、明治36年に、前掲の略図の橋から数10メートル下流沿いにあった、東京帝國大學農科大學の通用門から改修された正門の写真
   の大正5年の項末尾

手前左右に三田用水路を渡る橋の欄干が写っている(M35)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843187/10
正門の正式移転前あるが、巨木を用いた門柱は旧正門から移設されている
東大農学部の歴史 - 農学部の黎明 (u-tokyo.ac.jp) 明治11年1月24日の項参照


【追記】江戸期

■この辺り…

三田用水路の、現在の東大裏交差点から京王井の頭線の神泉トンネル西出口にかけての区間は、地面の勾配が緩やかなようで、水路を深く掘ることができなかったことに加え、その勾配の変化のせいか、豪雨時などには度々溢水していた模様である。

■つまり…

東京都品川区「品川区史 続資料編(一)」同/S57・刊
4 宗門改帳・御用留
二六 文化八年 武州大崎村御用留帳
の記録中に

「三田用水昨今満水いたし、駒場原御入口上ノ方溢れ出、御場所相成候間、早速見廻り、明日中築留メ可夜中候、尤其村水車人ゟ度ゝ見廻り、此上漏れ不申様元樋洩れ水差略可被成侯、此状上目黒村旅宿定石衛門方へ可被相返候
巳上 、
  閏八月廿一日          平野鐵之助
             上大崎村・下大崎村
                   名主中」p.187

とあり、
閏3月21日付け文書の次に編綴されているものの、文化年間の唯一の未年は文化3(1806)年であるところ、同年には閏8月はない。前年の文化2(1805)年には閏8月があるので、何らかの理由で文化3年の文書の中に前年の文書が編綴されていたものと思われる。)

また、

「一 三田用水昨夜ゟ出水いたし御入口へ押流シ、其外水上ミニ而切所出来致候哉御馬道流込、此節御普請中之処、此出水ニ而差支罷在候間、此御用状披見次第只今可被罷出候、尤我等共駒場原御入口罷在候間可被相届、其節此書付可被相返候、以上、
   八月六日    平 野 鐵之助
        上大崎村
         水車人 鐵 蔵
              右村役人
 人足両三人召連可披罷出候、」pp.213-214

この文書は、未8月2日付け文書の次に編綴されているようなので、先に記したとおり、文化年間の唯一の未年である、同3(1806)年のものと考えて問題ないだろう。

とあり、この時期。毎年夏(太陽暦では、どちらも9月末ころなので、おそらく台風で)溢水していたことになる。

■ここに…
  • 御入口とあるのが、略図の木戸のあたり、
  • 御場所とあるのが御狩場、
また、
  • 御馬道とあるのは、同図上方の御成道
を指すと思われる。

【追記】明治期

東京都公文書館・蔵
請求番号 610.A6.04/編綴番号 087
「往復録・乙号 〈土木課〉明治13年1月ヨリ6月マテ」中
「海軍主船局より目黒村三田用水路変換図面の義照会」第6号図面
M13.04.30付け



に、御狩場入口より約200m上流部にあった神山(分水)口付近の水路について、三田用水路の流量を、従前の約260坪(坪=1寸平方)に、現在防衛研究所のある場所に海軍が設置する火薬製造所で使用する約100坪を増量するための水路の改修図面がある。

■この…

図によれば、この場所では、箱樋を作り、その上端を従来の地表面から5寸高い位置に設置し、その両側に盛土をして補強していたことがわかる。

 もし、可能だったならば、水路を掘り下げることによって、このような箱樋を設置する必要はないし、その方が、施工についても後のメンテナンスについても、コスト面でも有利なはずなのであるが、おそらく水路を掘り下げると、そこから先の勾配の確保が難しかったために、このような手法を採用するしかなかったのだろう*

*後の昭和初期に、大日本麦酒が工事費の全額を負担して行われた、三田用水路の暗渠化の際には、さらに、面倒な手法で、このあたりの勾配を確保していえ、今後追記予定である。

■これに対し…

典型的と思われる三田用水路の断面図といえそうなものとして

東京都公文書館・蔵
請求番号 310.D7.13/編綴番号 2
「三用水路架橋【位置図 設計図】〔荏原郡目黒町大字上目黒字駒場859〕《東京帝国大学》」S03.09.21付け


を挙げることができる。

■ここは…

目黒区のほぼ西端の三角橋から東方向に200mの下流部に位置する、現東大リサーチキャンパス正門前に現存する橋

の設計図であるが、先の神山口付近の地表面から水路底までの距離を図面上で比例計算すると、約1.0m程度と見られるのに対し、こちらは、実際の欄干の高さが



が約57.8㎝なので、こちらの位置では、地表面から水路底までの距離は、図面上で比例計算すると3.0m程度はあると思われる。

【追記】210507

東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/S52・刊
「鏑木家文書」「三二 安政四年五月三田用水路橋修理入用書」p.240 に
三田用水の上流部に架かる橋6か所の改修時のデータに「深サ」つまり、橋(略・周囲の地表面)から、変動のある水面までほ測っても意味がないので、水路底面までの距離が記載されていた。

 これらのうち、神山口~御場入口に近い、下流の3橋については、現在でも位置も少なくとも誤差範囲で特定できるので、順次、下流側から順にこれらを挙げると

代々木村地内
字ニッ榎         〔二つ橋〕
一、石橋 深サ 七尺   〔約2.1m〕
 

同所〔御場内〕ニ而中ノ杉 〔駒場橋〕
一、石橋 深サ 一丈一尺 〔約3.3m〕

   御場内二而字三角      〔三角橋〕
   一、板橋 深サ一丈二尺   〔約3.6m〕
        Half Mile Project:調査サブノート「三角橋」とは 

 

とされ、下流に向かうに従って、水路底面が地表面からみて浅くなっていることがわかる。

水路底面の勾配は、急に緩く変化する場所があると、増水時に、そこで溢水する危険があるので、できるだけ一定に保とうとしているはずであるから、深サの変化は、いわば水路の理想的な勾配に対し、周囲の地表面の勾配の方が強かったことを示していることになり、先の神山口の深サをみると、この傾向がこの先御場入口近くまで続いていたことになる。


■このように…

三田用水路の神山口から御狩場入口を中心とする地域については、地形の関係で水路底を深く掘り込むことができなかったので、少しの増水でも、先の文化期の記録のように溢水してしまったのだと考えられる。

【追記】昭和期

当方のWebページの、ここ


を、とりあえず、ご覧いただきたい。

 この辺りの、水路とその勾配に大きな変化をもたらしたのは、昭和はじめの、大日本麦酒が工事費の全額を負担して行われた、三田用水路の暗渠化工事である。

 今後、その観点から、上記のWebページの「まとめ」を、ここに、後日追記することを予定している。

【資料映像】2008年ころまで残っていた、暗渠化工事後のコンクリート製置樋
      現在も、後記「神山口」付近は残され、保存される模様

東端部

西端部

元・神山口

2008/09/06 置樋の解体工事
外形は方形だが、内部の水路の断面は(神山口付近を除き)円形だった

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