■「目黒のサンマ」の…
モデルと言われている、茶屋坂上、かつ、実相寺山口から少し下った、通称「爺が茶屋」。
旧暦享保17年2月21日(新暦1732年3月半ば)に、吉宗一行がここで食べた団子といも田楽の記録があった。
中目黒村の村役人である名主による記録であり、かなり信ぴょう性が高いので、紹介する。
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/S52・刊
「壬〔享保十七年?〕二月十一日
公方様〔吉宗〕御成御場大崎村御初居(、)木橋耕地、谷山桐ケ谷耕地通、下目黒町植木や清八御通抜、同村瀧泉寺境内御通抜、御猶予相屋阿免引 上覧相済、同村野道通り 御膳所祐天寺ゟ中目黒村耕地通、同村名主金吾方御通抜竹の子掘取上覧相済、同村耕地御鷹野御用相済、山道ゟしばはらへ被為 成 御猶予之間、団子、田楽 御前ニおゐて焼方被仰付候、
其節
団子弐百五拾本 彦四郎
同人つま
焼方 と ら
其 外
いもてん楽弐百五拾本 縁 者
右差引
但御場御見分之節も 同村名主 金 吾
少々焼方あり
子〔享保十七年?〕三月五日中越村名主庄三郎方御寄合之節請取
一、白銀 弐牧
子〔享保十七年?〕三月十九日青山善光寺門前御寄合所ニ而御渡被成候
一、金弐百疋 団子 てんかく代
一、金百疋 別段御手当
一、金壱分弐朱 (同箱弐 但四枚代
(くし竹代
右之通り
中目黒村
享保拾八歳 彦四郎
丑ノ正月十九日
公方様当所御成御鷹野節
道成坂 壱軒茶屋ニ而銀壱枚
御拝領仕徽事包紙
御鳥見
粟津喜左衛門様
高月忠右衛門様
近藤彦兵衛様」
あくまで、中目黒村名主金吾の「メモ」なので、各項目の区切りがわかりにくいのだが、ほぼ確実にいえることとしては、
この、吉宗の享保17年2月〔旧暦〕の目黒筋への御成では、
大崎から居木橋村、谷山村、桐ケ谷村を通り*1(当然、この間、折に触れて鷹で冬鳥を狩ったのだろう)、目黒不動(竜泉寺)
に参詣した後、休息(御猶予)を兼ねて目黒飴*2作りを見物。
そこから北に向かって、祐天寺
で昼食、上記名主金吾方でタケノコ堀り*3を見物の後、(推定)田道耕地で本格的に鷹狩を行い、「しばはら」(推定だが、雉御立場のあった目黒川左岸の田道耕地東の台地*4)に向かうため茶屋坂を上り、そこの、爺が茶屋で休息し、目の前で、団子、田楽を焼くように仰せつけて、それを見物した。
その際に、主人彦四郎の妻とらが焼いた「団子」と「縁者」が焼いた「いも田楽」が、(供連れ分も含めて)各250本、吉宗一行に供された。
目黒筋御場繪圖〔部分〕に関係地点補入 |
と、いうことになるのだろう。
【補記】歴代の中には、城内での「御毒見」済の冷え切った食事に嫌気をさして、上記のような焼きたての団子や田楽。おそらくは、駒場の御用屋敷での、アツアツの、狩った鶴や鶉あるいはイノシシなどの焼きたての肉を食べたいために、やたらに狩に行きたがる将軍もいたらしい。
*1 各村の位置関係
東京都公文書館・蔵「朱引図」〔抜粋〕 |
【追記】詳細は御府内場末往還其外沿革圖書 [4]壱拾六中参照
〔同・部分〕おそらくこの作業が「目黒飴挽」 |
*3 歴史を訪ねて 目黒のタケノコ 目黒区 (city.meguro.tokyo.jp)
なお、タケノコ飯は、クリ飯とともに目黒不動周囲の料亭で供する名物だったという
参照:田山花袋「東京近郊一日の行楽」博文館/T12・刊
「目黒不動附近」p.548 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972006/281
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