データベースにある「目黒筋御場絵圖」。
http://www.digital.archives.go.jp/das/image-l/M2008032520510889502
■荏原の…
近世を知るには欠かせない地図であり、三田用水を調べている関係から、その経路沿いについては、これまで数えきれないほど参照してきた。
■他の文献などと…
照合してゆくと、三田用水の経路とその周辺については、あらかた判明したものの、ただ一つ、正体の知れないランドマークがあった。
上下反転 |
それは、幕末近くには幕府の砲薬製造所が設けられ、維新後は、海軍火薬製造所、陸軍火薬製造所、海軍技術研究所、連合国軍エビスキャンプ、防衛庁研究所を経て、現在は防衛省の防衛技術研究所となっている地域の、北端の三田用水右岸にある「雉御立場山」なる場所である(上図赤矢印)。
■「立場」といえば…
まして頭に「御」が付くとなると、駒場狩場つまりは今の東大の駒場キャンパスや先端/生産技術研究所のある旧上目黒村の北端にあった将軍家の御狩場の例によれば、将軍や御三家、おそらくさらに、それらに準ずる出雲松平家などの超高官が、狩場を見渡すために場内に設けた人工の高台を指していることになる。
後記「鷹狩と綱差」掲載の、嘉永2年の鹿狩りの折に造成された立場 |
■と、いうことは…
この場所が、砲薬製造所になる前は、駒場狩場と同様の将軍家のキジの狩場だった可能性が高いことになるのだが、なかなかウラがとれずにいた。
■そんな折…
ネットオークションで
目黒区教育委員会「綱差役川井家文書」同/S57/03/15・刊
を入手した。
川井家つまり「権兵衛が種蒔きゃからすがほじくる 三度に一度は追わずばなるまい」との唄のモデルと言われる、駒場狩場近くに役宅のあった綱差権兵衛の家の文書にかかわる本は、実はもう1冊
川井権兵衛・著/川井康男・編 「鷹狩と綱差」川井権兵衛?/1998年・刊
があって、そちらかと思って落札したのだが、結果的には嬉しい誤算となった。
上記「鷹狩と綱差」掲載の「駒場野古地図」 |
■入手した本の…
内容を、まだ渉猟したわけではないのだが、ざっと目を通しただけでも以下のような記述が見つかった。
元文四未年四月 の条
「一、大御所様*中目黒筋 御立場江雉子 御成爲被遊候 尤御物数九ツ
御こぶし外ニ二ツ・新堀ニ而黒鴨壱ツ・揚鷹都合十二、其節被下もの御掛り御鳥見方栗津・高月・近藤・助勤高月政六・綱差権兵衛御鳥見方白金参枚宛、権兵衛金一両・同二分藤右衛門江被下置候、以上」p.125
と、あり
(元文4年=1739年 将軍=吉宗)
*吉宗時代に大御所つまり前将軍がいることはありえず、ここにいう「大御所」は吉宗を指しているようにも見えるが、吉宗が隠居して長男家重に将軍職を譲り大御所となったのは、延享2(1745)年なので時期が合わない。
リアルタイムのいわば業務日誌の記録で、現役の将軍を「大御所様」と書くことはありえず、一方、元文4年は未歳であるので、時期の誤記とも考えにくい。
本書への掲載時の翻刻に誤りがないのなら、吉宗隠居後に、「覚書」を清書あるいは再編集したときに、原文では「上様」あるいは「公方様」とあるのを書き換えたのかもしれない。
また
「覚
寛延四未年四月十五日」 の条
「中目黒御立場江大屋遠江守様御見分ニ御出被成候、尤早川七十郎様御出被成候而御見分相済」p133
(寛延4年=1751年 将軍=家重**)
**持病の影響で文武を疎んじたと言われる家重だが、
實暦2年2月21日
同6年3月11日
同13年正月22日
同14年正月29日
に目黒に狩りに訪れ、落語の「目黒の秋刀魚」のモデルになったといわれている茶屋坂上の爺が茶屋(別名:一軒茶屋。上図青矢印あたり)に立ち寄っているとされている(村上三朗・編「目黒町史」東京朝報社/T13/09/01・刊 pp.53・54)。
もっとも、最後の2回は家重の死後であり、目黒町史のリストが「天保12年10月4日」の家斉の御成で終わっているところからみて、これは、このころ当の爺が茶屋経営者が作成した「一軒茶屋由緒」に依拠したことにまず間違いはないと思われる。
しかし、この「…由緒」は、経営難に陥った茶屋の経営者が、裏山の松の木を幕府に買いあげてもらおうと〔末尾【「補註1】参照〕、将軍家とのゆかりを強調した文書のようなので(幕府宛ての請願書の類なので「大嘘」を書けば「物理的に」首が飛びかねないとはいえ)、信憑性は川井家文書よりはるかに劣る。ウラ取りなしにそのまま真に受けることのできる史料ではない。
「…由緒」の附図と思われる「茶屋場分間絵図」 |
■資料に…
細かい問題はあるとはいえ、「中目黒」あるいは「中目黒筋」の「御立場」なるものが、御場絵圖に示された、田道の「雉 御立場」であることは、ほぼ間違いないと思われる*。
*吉宗の、享保17年2月〔旧暦〕の目黒筋への御成の折には、目黒川左岸の田道耕地で鷹狩を行い、爺が茶屋で休息の後、ここでも狩を行ったらしい。
【追記】
唐突に見つかった、巻狩の図
【「ウラ取」完了】2018/10/08
目黒区の歴史資料館で、平成30年9月29日(土)~12月9日(日)の会期で開催されている
開館10周年特別展「目黒の産業ことはじめ」
https://www.city.meguro.tokyo.jp/smph/event/moyooshi/kikakuten.html
を見に行ったところ、そのほぼ冒頭の展示物である
#08 三田用水路御普請請所旧記合薬製方水車御取建一件書留 」(鏑木家文書)
安政3〔1856〕年~文久元〔1861〕年(同館蔵)
に、以下の記述があるのがわかった
佐藤求太・編「江戸繪日本史」国会図書館・蔵 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369964/12 編者は、頼朝が建久4(1193)年5月に開催した「富士の巻狩」と見ているようであるが 立場の様式やその中段に御三家の席らしいものがあって前掲の徳川期のそれと様式が一致している。 |
【「ウラ取」完了】2018/10/08
目黒区の歴史資料館で、平成30年9月29日(土)~12月9日(日)の会期で開催されている
開館10周年特別展「目黒の産業ことはじめ」
https://www.city.meguro.tokyo.jp/smph/event/moyooshi/kikakuten.html
を見に行ったところ、そのほぼ冒頭の展示物である
#08 三田用水路御普請請所旧記合薬製方水車御取建一件書留 」(鏑木家文書)
安政3〔1856〕年~文久元〔1861〕年(同館蔵)
に、以下の記述があるのがわかった
「右中目黒村祖父茶屋之義者目黒筋 御成之節御由緒も有之往古より度々被爲在 御立入御座同所續ゟ北ノ方なたれ今般水車御取建場所脇 御立場山之義ハ雉子追取御狩御成之節御立場ニ相成候同所下耕地田場一園ニ冬鳥御場所ニ御座候、…」
やはり、三田用水の流れるこの台地上は将軍家の雉の、また、その西の、台地の下の目黒川沿いの水田地帯は同じく冬鳥の、狩猟場だったのである。
【追記】
この火薬製造所の建設経過、とくに地元住民やその領主たちと、幕府との交渉経過について、
根崎光男法政大学教授が
「安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会」と題する論文
http://hdl.handle.net/10114/00021908
を、2018年12月に発表している。
【補註1】
同論文のp.196(23)によれば
【追記】
この火薬製造所の建設経過、とくに地元住民やその領主たちと、幕府との交渉経過について、
根崎光男法政大学教授が
「安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会」と題する論文
http://hdl.handle.net/10114/00021908
を、2018年12月に発表している。
【補註1】
同論文のp.196(23)によれば
従来は将軍の鷹狩り場である御拳場に設定されていた関係で、伐採が禁じられていた 立ち木の伐採を代官所から命じられた際、「砲薬製造所続きの御立場の松は村内の百姓甚平が持主となって守り、今回この松の伐採を命じられた際には担当の鳥見役へその旨を届け出たところ、上位機関に伺いのうえ松を買い上げてもらった」
とのことであり、幕府が将軍所縁の木を買い上げるというのは、もともと例のないことではなさそうである。
【追記】
冒頭の「目黒筋御場絵図」の「御立場山」の左に何かが描かれていて、紙の汚れではないことは確かではあるものの、何が描かれているのかはわからなかった。
「あるいは」と思って、画像を正立させてみると、どうやら、これは、その将軍所縁の松を描いたものらしい。
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