2016年11月6日日曜日

銭瓶窪右岸分水

■目黒の…

日の丸自動車教習所のあたりにあった、左右の三田用水銭瓶窪分水。

 そのうち、最終的に、慶応幼稚舎のすぐ北にある渋谷川にかかる狸橋のやや東に落ちる左岸分水は、別名白金分水とも言うが、とくに山手線から東は、そこからの谷筋が明確なために、ミクロ的には本水路の位置を間違えやすい場所もいくつかはあるが、マクロ的にはトレースが比較的しやすい分水といえる。

 ■これに対し…

目黒川に落ちていた右岸の分水は、元松平主殿〔とのものかみ〕の抱屋敷、別名「絶景観」


広重・絵本江戸土産「目黒千代が池」





を通って、目黒川沿いの田んぼを潤していたはずなのだが、当地が比較的早い時期から宅地開発のための造成が進み、ほかの場所なら有用な大正期の1万分地形図「三田」では歯が立たない*

*【追記】17/04/01M42測T06修測1/10000地形図「三田」では、これと思しき池の周辺はすでに雛壇式に宅地造成されていて、原地形を読み取ることができない。
最近入手できたM42 測と推定される1/20000地形図「東京南部」によって原地形が判明したので、後記の郵便地図や幕府普請方の沿革図などと照合することによって、銭瓶窪右岸分水とこの池の位置関係をあらかた解明することができた。順を追った説明がややこしいので、詳細は別稿


銭瓶窪右岸分水と千代が池
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/04/blog-post.html

で。

■そんな折…

国立公文書館のデータベース
https://www.digital.archives.go.jp/

を覗いていたら


 なる文書が目にとまった。
 
 作成年は、明治12年で、今の防衛研究所のところにあった、海軍の火薬製造所が本格的に稼働し始めた時期である。
 
 そのころ、目黒に陸軍も火薬製造所を持っていたことは何かで読んだことがあるうえ、渋谷川からも目黒川からも離れている三田村で「水車場」となると、どこにあるにせよ、三田用水の水を使っていた可能性が高いので、さっそく、文書データにアクセスしてみた。
 

■幸いにして…

この文書には、当該の土地の図面までしかもカラー画像で添付されていた。
 
 
 
 ただ、同文書によれば、返付する「元水車場」の土地は、所在地が「三田村拾四番地」
となっている。しかし、このころ、三田村14番の土地は、すでに海軍火薬製造所の敷地の一部になっていたはずのうえ、文書中の水路・道路、つまり地形が当時の14番地あたりのそれとも整合していない。

■そこで…


明治44年のいわゆる郵便地図
東京逓信管理局「東京府荏原郡目黒村」 明治44年(1911)/逓信協会・刊 〔部分〕
 
 
で、近隣のそれらしい場所を探すと、地形〔ぢがた〕が図面と酷似している土地として、同村「五拾四番地」があり、どうも地番を誤記した可能性が高いと考えられた。
 
 そうとすれば図の上方の水路は三田用水であり、そこから分水された左上から右下への水路は、銭瓶窪口右岸分水のそれということになる。

■なお…

明治13年の迅速測図では、この場所に水車記号の付された建物が表示され、火薬製造所と表記されている。

農地利用変遷マップ「関東平野迅速測図」より抜粋して画像調整http://www.finds.jp/altmap/rapid_kanto.html.ja?op=0,100,0&lon=139.71432037390133&lat=35.63853558110269&zoom=17&layers=B0FFF

  なお、上の図には、三田村54番地の水車の、三田用水をはさんだちょうど対岸、つまり銭瓶窪口左岸(白金)分水にも水車記号の付された建物がある。
 その位置からみると、これは、三田村60番地にあったとされる、吉田弥市郎設置の水車(三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59・刊 p.197参照)と思われる。

*大名屋敷とはいえ、いわば「外から丸見え」の状態に描かれているが、実はそれには理由がある。
 歌川広重が、これを描いたのは1850年前後。それにはるかに先立つ享保2(1717)年2月の
幕府の
 「抱屋鋪構之囲取払可」との触によって、幕府から拝領した上中下の屋敷(いってみれば官舎)と違
 い、私有の屋敷である抱屋敷については、既存のそれを含めて塀などの囲いを設けることが禁止さ
 れていたのである。
 とはいえ、実際には、地境を示すのと用心のために、ヒイラギなどで「垣」を設けたのではない
かとも
 思われる。
 もっとも、木を植えることには差支えがなかったはずで、むしろ、当時の抱屋敷の機能の一つとして、
 火事で江戸府内の拝領屋敷が焼失したときに備えて、再建用の木材を確保するために林を立てて
 置いた例も多いようだが(松本剣史郎「長州藩江戸若林抱屋敷について」〔世田谷区立郷土資料館
 「資料館だより No.48」2008/03〕p.7)、それでも、地形によっては中が丸見えになる屋敷があっても、
 特段に不思議はないのである。

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