2016年11月2日水曜日

玉川上水/三田上水開鑿当時の測量技術について

【追記】2017/10/23

いわば続編として

「律令時代」の測量技術について
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/10/blog-post_23.html

をアップロードしました。

■「皆さん、何をわざわざ小難しくお考えになっていたのでしょう」

 三田上/用水に関連して、玉川上水について調べてみると、距離約43キロ、高低差約90メートルの水路を作った測量技術について、様々に論じられ、中には、いわば単なる都市伝説としか思えない提灯や線香を使った測量について実験した方までおられるようである。
 そもそも「できるか」というのと「する意味がある」かは全くの別問題であることはいうまでもなく、「そんなヒチ面倒くさいことを、特に差し迫った必要がなければ『するわけない』」ので*1、いろいろ冷静に調べたり考えたりしてみると、結局のところ
・多摩川のどこから江戸御府内のどこまで
・どのようなルートで水路を通すのか
という、いわばマクロ的な基本設計(当時は「見立て」といったようである)が「めちゃくちゃ」に難しいのはわかったものの*2、そういった基本設計ができた後の、数キロ単位での個別の水路の流路と深さをどうするのかといった、いわゆる実施設計(同じく「水盛り」といったらしい)とそれに基づく実際の施工については、当時すでにあった技術に照らして、大して難しい話ではないことがわかってきた。

*1 なぜか、どの論考も「できる、できない」の議論に終始していて、そもそもそこに「思考の手順」の間違いがある
  つまり、本来辿らなければならない手順は
  (1)当時の既存技術は「こうだった」
  (2)しかし、玉川上水の場合「かくかく」の事情でそれが使えなかった
  (3)だから「提灯・線香測量」をするほかなかった
  (4)実験の結果「提灯・線香測量」は可能である
  という論理なのですが、論証されているのは最後の(4)だけ(これが正しいことはおそらく確かだと思います)。
   要するに、(4)が「できる」ということが証明できているだけで、(1)~(3)の論証が全く欠落している。
   つまり、結論をいえば「玉川上水の測量〔水盛り〕に「提灯・線香測量」を使ったこと、とくに、
  なぜそうせざるを得なかったのかについては、全く論証されていないわけである

*2 また、この肝心の「見立て」についても、「水喰土」とか「悲しい坂」とかいった「ちまちま」した失敗談に触れている方は結構いるのだが、そもそも、どうやって、玉川上水全体の流路を「見立て」たのかについて、管見の及ぶ限りでは明快に論じられているのは見たことがない。もしあるのなら、筆者もノーアイデアなので、ぜひ知りたいので、是非、コメント欄でご教示いただきたい。

  なお「悲しい坂」がらみの、府中の「ムダ堀」については
  http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/03/part-1-b884.html
  を、参照。

【追記】2021/12/01
ここに来て、原則として「稜線」上を水路が通る、この玉川上水路(同様の条件下にある、品川用水路や、細川上水路、三田上水路を含めて三田用水路)の場合、「灯火」が「見立て」にかなり有効に利用できた可能性に思い至った。
ただし、その場合に利用した灯火は、提灯ではなく魚油を使った「灯明」だろう。
いずれ、別アーティクルで、仮説をご披露したい。

■当時の上/用水路についての「既存技術」〔上記論証手順の(1)〕

 玉川上水が開鑿されたのは承応2(1653)年11月といわれているが、当然のことながら、この国で人工の水路が開鑿されたのは、それが初めてのわけではない。*3
 そもそも、農業用の小規模な人工水路は、中世期からすでに山のようにあったと思われるし、さらに遡れば行基(668~749年)も開鑿していた。さらに、日本最初の上水(街場に呑水を給水した水路)といわれるものに、北条氏康(1515 - 1571年)の時代、1545年ころに開鑿されたと推定されている、小田原(大久保)用水
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Itabashi01.htm
がある。
 しかし、この用水については詳細なデータがまだみつからないので、玉川上水の直近で、しかも後記のように難度が高かった思われる金沢の辰巳用水について検討してみる。

*3 堀越正雄「日本の上水」新人物往来社/S45・刊 巻末の「上水史年表」中pp.298-301参照

■辰巳用水は…

金沢城や兼六園に給水していたことで有名な、しかも現役の用水だが

全長約10.5Km(当初開鑿分)
寛永9年(1632)開鑿

 その水路の勾配をみると
・平均 1/780 1.3パーミル *4
・最小 1/851  1.2パーミル 雉取入下連絡口下流
つまり、距離1キロあたり1.2~1.3メートル下るという緩勾配の水路である*5


石川県立歴史博物館・蔵「文化6年辰巳用水絵圖」
<http://ishikawa-rekihaku.jp/collction/detail.php?cd=GI00472>掲載の図版2枚を合成のうえ画像調整
右端近くの取水口からすぐにトンネル状の水路に入ることがわかる
黒い点線状のものは、目的は定かでないが、胎内堀の側面に開けられている穴


 一方、
 玉川上水は…

国立公文書館・蔵「羽村臨視日記」〔羽邑臨視日記https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000001846.html
pp.24+25


















全長約43Km
承応2(1653)年11月開鑿

と、辰巳用水から30年以上後に開鑿されたのだが
その水路の平均勾配を概算すると
・92m/43000m 2.1パーミル
と、30年前開鑿の辰巳用水の倍近い勾配のある水路であることがわかる。

 また、当ブログのメインテーマである三田用水は、
寛文4(1664)年(前身の三田上水開鑿。後の、三田用水路の経路とほぼ同一)

 平均勾配は、上流約半分にあたる
笹塚取水圦-旧・海軍火薬製造所間で
・10m/5100m 2.0パーミル *6

と、玉川上水とほぼ同様である。

*4 パーミル(‰)=1/1000
*5 青木治夫「加賀の辰巳用水」土木学会・日本土木史研究発表会論文集 Vol. 3 (1983) P32-37
  https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1981/3/0/3_0_32/_article/-char/ja/
  中pp.32-34b
*6 東京都渋谷区立白根記念郷土文化館・編「渋谷の水車業史」同区教育委員会/S61・刊
  p.8「水路別傾斜状況表」

■つまり…

玉川上水に比べ、30年先立って加賀前田家によって開鑿された辰巳用水の方が、平均勾配が約半分であることに加え、水路上流部の雉取入下連絡口から下流約4キロメートルは隧道(「胎内堀」あるいは「ほっこ抜き」ともいう)なのだから、水路の実施設計と施工の難易度の面では、玉川上水の比ではないのである。

■そもそも…

ある場所と他の場所を比べて、どちらがより標高が高いかを、測定したり、確認したりするためには、まず、水平な面あるいは水平な線を設定しなければ始まらないし、逆にこの「水平」が設定できれば「あとは何とかなる」はずである。

 また、翻って考えてみると、この水平だけでなく垂直が設定できなければ、東大寺の大仏殿はおろか法隆寺の金堂もまともに建つはずがないので、まず「古典中の古典」の技術から調べてみることにした。

●垂直を求める
 これは、今なら小学生でも知っている方法だが、「下げ振り」といって、糸の先に錘〔オモリ〕を付けてぶら下げれば、糸は垂直に真っすぐに垂れ下がるので、いとも簡単に垂直は求めることができる。*7


「松崎天神縁起 巻の六」伝・応長元〔1311〕年
「続日本の絵巻22」中央公論舎/1992・刊 p.60より


●水平を求める
 水平のことを、かつては「陸〔ろく〕」と言っていたが、これも古来から、文字通り水を使って求める現代の水準器にあたる技法があった。


春日権現験記繪 巻1
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590960/19
から抜粋
この国会図書館・蔵のものは写本だが、オリジナルの描かれたのは、先の「松崎…」と同時代ノ延慶2(1309)年である



*7 細見啓三「水盛りと遣方の歴史」(大阪建設業協会・編「建築もののはじめ考」新建築社/昭和48・刊 pp.260-265)p.264。
  なお、http://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201308_09.pdf
  の「図3」参照

■とはいえ…

「春日…」のように、いちいち水を使って水平を求めるというのは、範囲の狭い建築現場ならともかく、用水路に応用するのは、距離も長いため何度も繰り返し行う必要があるうえ、水平線が出せれば済むわけではなく、それを基準線にして一定の勾配を設定しなければならないことを考えると、可能であるとはいっても、煩雑であって実用性に乏しい。

 しかし、上記のように、垂直なら「下げ振り」で、どこでも、いつでも簡単に求められるのであるし、

 垂直の線が求められるなら
・それと直角を為す線が水平線である
・直角は、
  ピタゴラスの定理の、辺長3:4:5の三角形を作るか、そうでなくても、
  紙を精確に4つ折りすれば、
 作ることができる
のだから、「下げ振りで求められる垂直線+比較的簡単に作れる直角の定規」さえあれば、水平を求めることができることになる。

 しかして、直角の定規については、先の春日権現験記繪 巻1でも、長短の定規を直角に組みあわせた曲尺〔かねじゃく〕が描かれていて、すでに実用化されていたことがわかる。*8



前同
左右の男2人とも、墨壺と曲尺を持っている。
また、右側の男は、「松崎…」のそれと同様に、墨壺を下げて垂直を出している。

*8 前掲・細見pp.264-265

■つまりは…

糸と錘で設定した垂直線
曲尺などの直角定規
の組み合わせで、水平を測る器具は作れることになるはずである。

 実際、
村瀬義益「算法勿憚改〔さんぽうふったんかい〕」(1673)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XSI6-002004&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%AE%97%E6%B3%95%E5%8B%BF%E6%86%9A%E6%94%B9%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=57
の57コマには、この手法をシンプルかつエレガントに実現した器具が図解されている。


 この本の出版は、玉川上水の開鑿からは20年ほど後ではあるが、当時の日本数学〔和算〕の知見やその応用技術を集成した書物なので、この種の器具がこの時期に(もちろん土木や建築専門家の間で、ではあるが)すでに普及していたことを示していると考えられる。

 この57コマの図解のような器具を上下逆に使い、


 右端の錘を吊り下げている糸の取り付け位置を上端近くに付け変えれば、


上端の横木を水平に設定できるので、そこを見通すことによって遠隔地との高低差も測定できることになる。

【追記】
 上記「算法勿憚改」に6世紀先立つ北宋末(11世紀)に、李明仲によって編纂された、大中国の歴史上最重要の建築造営の綜合史料といわれる『営造法式』に、すでに「真尺」と呼ばれる下図のような水平儀が示されていたことがわかった。

 同書の知識が、我国に伝来するのに十分な時間があった玉川上水開鑿時には、このような水平儀が、すでに「常識」の範疇にあったことは、算法勿憚改からも明らかである。

■確かに…
玉川・三田上水とも、平均勾配は、2パーミルほどで、鉄道の場合でも勾配といえないほどの勾配であるが、それでも、距離1000メートルに対し2メートルもの高低差がある。

 つまり、100メートル(かつての約1町)の距離では20センチメートル(同じく7寸弱)、半分の1パーミルの勾配でも10センチメートル(同じく3寸強)の高低差が測定できればよいのだから、視力のよい者ならば、まして当時は空気が今より清浄だったので、十分可能だったと思われるのである。

■一説にある…

提灯などの灯火を利用した測量については、

村井昌弘「量地指南」(享保18 [1733])後篇巻之3
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943077

の3-4コマ目に「夜中見町」と題して、紹介されてはいる。



「量地指南」「夜中見町」説明図

 とはいえ、解説文をみると「古傳に云〔こでんにいふ〕」「…云々〔うんぬん〕」などとあることからみても、そもそも、紹介の域を出ていないし、さらに図中の注記をみると「忍ノ術ナル故小差ヲ不論也」〔しのびのじゅつなるゆえ、しょうさをろんぜざるなり〕とあって、いわば、距離などの測定を隠密裏に行うほかない事情のあるときに、ある程度の誤差の生ずることを覚悟の上で採る手段なのだろう。

 そのような場合、目標となる灯火(図の上方)を測量者が持ってウロウロしたのでは「忍」も何もあったものではないので、敵地のかがり火なり寺社の常夜灯などを目標物にして、逆に測定場所の方を、上の図でいえば「見込」の位置と「見返」の位置との2か所からそれぞれで測ったときの両者の角度の差から目標までの距離を算定する方法と思われる。

 それならば、夜間でも、適当な灯火を目標にいて、手元の測量器具を、線香や火縄のほのかな光で照らせばデータが得られ、あとは、そのデータを使った机上の計算あるいは作図で済むので、誰にも気取られずに測量することも、たしかに可能となる。

■加えて…

提灯については、もっと「有り得る」理由が考えられる。
 測量といっても、レベル、トランシット(セオドライト)のように「望遠鏡」が測量機器に取り付けられたのは、わが国では、江戸の後期、伊能忠敬の時代(1745-1818)*9近くになってからと思われ*10、それまでは裸眼目視を基本とする技術なので、測定者の視力に加え、大気の状態に、測量の可否・精度が大きく依存することになる。

 したがって、この種の測量は、
・夜霧がはれ、かつ、
・地面が温まってかげろうが立つ前
に行うのが理想条件といえる。

 そのような条件下で測量するためには、遅くとも、かわたれ時、つまり薄明の時期に、宿営地から測量場所に向かって出発する必要があり、その行程には提灯が必要だったのではないかと考えられるのである。

*9 江戸後期の測量器具については  http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/tran.html 参照
*10 江戸後期のレンズを使った測量器具については
  Web「我が徒然」中「江戸時代の測量儀  (18) 」
  
http://plaza.rakuten.co.jp/ntonkatu/diary/201104180000/
  中の「中方儀」参照
  なお、すでに伊能当時には、堺の貝塚に岩橋善兵衛という有名なレンズ製作者がいた
  (薮内清「昔の測量器械」(前掲「建築 もののはじめ考」 pp.381-385) p.384)という

【参考図】

北斎・地方測量之圖〔ぢがたそくりょうのず〕
近世末期(嘉永01[1848]年)なので、右下の小方儀には、レンズを使ったスコープが取りつけられている。
全員が「二本差し」であり、測量が「武士の仕事」であったことを示している。
国会図書館・蔵(https://dl.ndl.go.jp/pid/1307113/1/1
解説は <http://www.photo-make.jp/hm_2/sokuryou.html>
だが、いわば「測量学校の卒アル」らしい





【追記】

玉川上水開鑿の総奉行、つまり幕府の最高責任者は老中松平信綱。かの「智慧伊豆」である。
江戸の町、ひいては徳川幕府の存亡にもかかわりかねないプロジェクトなのであるから、見立て(基本設計)については勿論、水盛(実施設計)についても、民間業者に「丸投げ」ということは、あり得ないと考えるべきだろう(まして、家臣に安松金右衛門という、いわば「土木の達人」がいたのだから)。



                                                    

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