2017年9月26日火曜日

「二ツ橋」起源

■地元にある…

三田用水に架かっていた「三角橋」については、相当前になるが、かなり徹底的に調べたこと
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita90.htm
があって、最終的にたどり着いた結論は、

「この橋のある場所の地名が
上目黒村字三角
だったかららしい」

というもの。

 また、この「三角」というのも、北の豊島郡代々木村、南西の荏原郡下北澤村に挟まれた三角形の場所という「そのまんま」の地名*なので、手間暇をかけた割には「面白くもなんともない」結末になってしまっていた。

*高崎経済大学の西沢淳男教授の

「関東代官竹垣直道日記 第3篇」(同大「地域政策研究」15巻4号pp.132-166)

中、p.148(pdfファイルのp.19)の、旧暦・嘉永3(1850)年1月21日、将軍徳川家慶の駒場狩場への御成の折の条の冒頭に、
五っ時比出立、駒場野相越、三角野末内之辺ゟ中丸(平出)御立場大松下出ル
との記述があることから、この「三角」が、一般的に知られていた地名だったらしいことがわかる。

 【追記】

駒ヶ原繪圖〔抜粋〕 山下和正氏・蔵
略左上の丸いハイライトが「三角」
略中央の四角いハイライトが推定「中丸御立場」

 

■三田用水の…

「名のある橋」については、この三角橋を除けば、名前の由来の想像が付くものが多いのだが、もう一つ、由来がわからない橋として、東大駒場の野球場の北、東急トランシェのバス停としても名前が残る
「二ツ橋」

東急トランシェ「二ツ橋」停留所
このバス路線については
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm
参照
があった。


■この橋も

三角橋


「昭和15年版 東京帝大一覧」(国会図書館・蔵〔NDLID:1466162〕)より

同様に、明治12年当時の図面をみても


国立公文書館・蔵 〔請求番号:公02470100〕
東京府下上目黒村駒場農学校門前道敷取広ノ件(抜粋)に青色矢印加筆
 何の変哲もない橋で、橋が2つ続いていたわけでも、橋が2つ並んでいたわけでもない。

三田用水の下北澤村取水圦方向から見た旧二ツ橋付近
右端の材木置き場下から青線のように奥の民家と樹木の間に流れていた
正面の道路が「旧駒場道」。茶色線が隠田(雙子)道(右手が三角橋、左手が隠田方向)

略旧二ツ橋上付近から、西方の中ノ橋、三角橋方向をみる



都市計画東京地方委員会・編「都市計画東京地方委員会常務委員会議事速記録〔第8号〕」同委員会/S11-13・刊 附図 <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207598/75>
「東京都市計畫代々幡町道路第十五号路線變更道路平面圖」に、以下の補入
黄色線が隠田道/雙子道。隠田道…が三田用水路(青線)渡る橋(赤矢印)が「二ツ橋」
*「隠田道/雙子道」については、別ブログの
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2017/10/post-6876.html
 参照 


■ところが…
先日、
東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/昭和45年9月・刊
のコピーを、何気なく眺めていたところ、

同書所収の鏑木家文書のうちpp.240-241の
「安政 四年 五月 三田用水路橋修理入用書」
つまり、三田用水に架設されている橋の補修に要する費用を幕府に報告する文書に、以下の記述があるのを見つけた。

同所*〔ヨリ〕**
 御場内***ニ而字三角 巾五尺
 一、板橋     深サ壱丈弐尺
 此金弐拾弐両三分 長三間半


 同所〔ヨリ〕 五
 同所ニ而中ノ杉  巾八尺
 一、石橋     深サ壱丈壱尺
 此金四捨参両弐分 長壱丈


 代々木村地内
 字ニツ榎
     巾五尺五寸
 一、石橋     深サ七尺五寸
 此金弐拾両三両  長七尺五寸」


* 同所=元樋〔取水圦〕を指す
**〔ヨリ〕は原文ゟ
*** 将軍家の雉や鶉の狩場である駒塲狩場
  http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaWater.htm
  を指す。
  那須皓「代々木村の今昔」(柳田國男・編「郷土會記録」大岡山書店/T14刊 所収)によれば
  そのために「わざと草深くしてあった。從って折々追剥ぎの噂など聞いた。」(p.121)という。

■結局…
この「二ツ橋」も、三角橋同様に「二ツ榎」と呼ばれる場所に架設されている橋なので、おそらく当初は「二ツ橋」。それがいつのころか縮まって「二ツ橋」と呼ぶようになったのだろう。

【追記】

■ちょっと気になって…
東京府志料(M07) 水利志 の三田用水の条をディスクから引っ張り出してみた。( は引用者による改行を示す)

三田用水 
水源ハ第七区六小区下北沢村ニテ玉川上水ヲ分派シ、第八大区三小区代々木村ヨリ七大区五小区上目黒村・八大区三小区中豊沢村・七大区一小区下渋谷村・同五小区中目黒村・同一小区三田村・白金村・同五小区上大埼村、同一小区白金台町・今里村・同五小区下大埼村・ 同二小区北品川宿ニ至リテ目黒川へ入ル、
○延袤二里半余巾一間ヨリ二間半ニ過キス、深凡三尺
○昔八三田上水ト唱ヘテ三田芝ノ辺へ引キ注シ水道ナリ、然ニ享保七年十月此上水ヲ停メ元圦ヲ閉塞セシニヨリ、其余流ヲ仰キシ村々用水ナキ事ヲ憂テ官ニ訴へ、上水ノ旧渠ヲ用ヒテ故ノ如ク玉川上水ノ流ヲ分チ、荏原郡馬込領谷山村・上中下目黒村・品川領北品川宿・上下大埼村・世田ケ谷領代田村・麻布領白金村・今里村・三田村及ヒ豊嶋郡麻布領中下渋谷村凡テ十三村ノ用水トス。
〔橋梁〕
土橋二 下北沢村ニアリ、共ニ長二間巾五尺 板橋 上二同シ、馬場橋長二間半巾五尺 
石橋 代々木村ニアリ、二ツ橋長一間巾五尺 
板橋 上目黒村ニアリ、三角橋長二間半巾五尺 石橋三 上ニ同シ、一ハ中ノ橋 長壱間壱尺巾壱間、一ハ長四尺巾二間、一ハ長四尺巾三間 
石橋二 下渋谷村ニアリ、一ハ目切板橋長四尺巾三間、一ハ長四尺巾二間 
石橋 三田村ニアリ、長四尺巾一間 板橋 上二同シ、長壱間半巾四尺、土橋 上ニ同シ、長壱間半巾四尺 
土橋二 上大埼村ニアリ、一ハ長一間巾四尺、一八長壱間半巾四尺 石橋 上ニ同シ、永峯橋長五尺巾四尺 
石橋 今里村ニアリ、長二間巾壱間半 土橋二 上ニ同シ、共ニ長五尺巾四尺 
埋樋 白金台町ニアリ、長三十間巾三尺 
埋樋 白金猿町ニアリ、長九十四間巾二尺五寸 桝四 上ニ同シ、共ニ三尺四方 
土橋二 北品川宿ニアリ、小関耕地橋共ニ長三尺巾四尺


「あるいは…」と思ったとおり、明治初期の農学校正門前にあった駒場橋は、本来は「中ノ橋」
先の安政期の文書に照らすと、二ツ橋同様に、「中ノ橋」が縮まって「中ノ橋」になったようである。

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