2017年9月26日火曜日

北品川宿に残った溜井

■当ブログの

下大崎村/北品川宿の溜井(池)新田(上大崎村の溜井(池)新田・続編)
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/09/blog-post_24.html
上大崎村の溜井(池)新田
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html

をご覧になった「あるく渋谷川入門」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/riverandsongs/
の梶山公子氏から、文政11(1828)年の「品川図」
         (品川町役場・編「品川町史附図 『品川図 文政11年』」同/1932・刊)
( http://www002.upp.so-net.ne.jp/mitayousui2016
中、2016年10月15日付「三田用水の流末を『文政十一年(1828)品川図』で歩く」 の冒頭の図
に、溜井が2か所描かれていることをご教示いただいた。

 その溜井の位置は、↑の図の
1 中央やや下の「三田用水」との注記の「水」のあたり
2 中央やや右のほぼ最下端から北西に向かう道路の右(東)脇の小さな四角形
である。

〔参照〕
https://drive.google.com/open?id=1IgnBuX_r2CeAxAiTmaNPx-LmJ18&usp=sharing

■文政11年…
といえば、三田用水が開鑿された享保9(1724)年からすでに1世紀が経過した時期。

 もともとが「不安定な雨水〔天水〕に依存する溜井に水利をたよりたくない」からこそ、農民は用水を希み、領主(といってもこのあたりほとんど天領だが発想は同じはず)も、領地の生産力を上げて年貢の収入を増やすために、自ら用水を開鑿したり、その工事費用を下付したりしたわけで、用水ができれば、上大崎村の例のように、従来の溜井は水田に転換するのがむしろ自然で、現に、標記のページで指摘した都合4か所の溜井は、この文政期には、農地に転換済みである。

■とはいえ…
いくら用水ができても
A 用水路まで遠いなどの事情から、そこからの水利が得られない
B 用水が近くても高低差などから引水できない
といった場合には、依然溜井*に頼るしかない。

*大正期の地図には、これらのパターンで残ったのかもしれない溜井が、中目黒村あたりに見える(ただし、それ以降だと、養魚池だったり果ては釣堀だったりと「油断がならない」)。

また、逆に
C 崖線から非常によい湧水が出るが、冷たすぎるので一旦池に溜めて温めてから使う必要がある
とかいった、いわば積極的な事情があって溜井が残される可能性もあって、ご教示いただいた2か所も、場所柄、この最後のパターンの可能性もあるようにも思えた。

■そこで…
「東京市高低図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-38.pdf
からこの地域を抜粋した図に、問題の溜井2か所の大体の位置をプロットしてみた。


青●が、既報の、余水路に変わった溜井の位置


 この図から判断すると、
溜井1には、上記のB(そのため、赤矢印の方向からの水利に依存するしかない)
溜井2には、上記のC
のパターンが当てはまりそうである。

■この…
溜井。かつてこの近辺にあったものに較べると、規模が非常に小さく、本格的な灌漑用として機能できたのかは、やや疑わしい。

 さりとて、用水沿いによくあった「野菜洗い場」
           【資料映像】

長野県伊那市

にしては大きすぎるのも確かではあるが。

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