2017年9月24日日曜日

下大崎村/北品川宿の溜井(池)新田(上大崎村の溜井(池)新田・続編)

■先の…
上大崎村の溜井(池)新田
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post_25.html
で引用した、高島教授の論文にも、上大崎村のそれと同じ 溜井→新田 の転用については、他地域での類例はいくつか紹介されているのだが、あるいは、三田上水→三田用水の流域にも、類例があるのではないかと、気が付いた。
 三田水の開鑿にあたっては、後の組合村である14宿村からの幕府への陳情があったといわれており、それには、上大崎村と同様の水利の悩みをかかえていた宿村が他にもあったと想像できるからである。

■そのためには…
まずは、遅くとも三田水時代に溜井があった場所を確認する必要がある。
 とはいえ、享保期以前については、後の沿革図のような高精度の地図は望みようがないうえ、下北沢村の取水圦から下目黒あたりまでの範囲についての地図らしい地図は皆無といってよい。
 従って、下目黒から北品川までの区間に限られることになるが、先の江戸方角安見図をみると、下大崎村や北品川宿に、上大崎村のそれと同じような溜井が描かれていることがわかった。

                                   
国会図書館・蔵「江戸方角安見図 乾」延宝8〔1680〕年(NDLID:2575023)
上から第2図・第1図

 
ただし、この安見図は切絵図の原型(の1つ)といわれている地図でもあり、みてのとおり、それら相互の位置関係が掌握しにくいので、もう少し広域なものを、ということで、同じく国会図書館のデータベース中から「江戸図 正徳四年」なる地図を見つけ出した。


 


■この地図は…
描かれた時期が、正徳4(1714)年と、安見図よりはやや後れるものの、三田水の開鑿後かつ閉止前の期間中なので理想的で、抜粋した地図中に、既説の上大崎村のそれを含めて4か所の「池」と表示された場所が、上水の右(南)岸、つまり上水と目黒川の間に見つかった。

 それらの溜井と、後の三田水の分水路を重ねてみると、概略下図のようになる。 

 このように、4か所の溜井は、すべて、後の分水路上にあって、このことから、三田水の分水路は、これらの溜井に従前から水を供給していた小河川に、三田水からの分水を接続することによって設けられたことなる。
 と、いうよりも、これらのうちいくつかは、「上水記」によれば合計8か所あったとされる三田水時代の余水吐*、つまり、取水圦の故障や豪雨などによって上水路の水位が上がり過ぎたときに、これを排水するための水路として、もともと機能していたのではないかと思われる。
 
*上水記「三田用水の事」
北澤村にて三尺四方の水口より上水道取立、北澤むら・代々木村・中渋谷村・中渋谷村・三田村・上目黒村・中目黒村・白金村・大崎村上水道掘割、築土手八ケ所築、土手上無蓋戸樋八ケ所、惣貯枡白堀の上くゞり樋野方吐八ケ所、大崎猿町より埋戸樋枡、貳本榎・伊皿子通り聖坂・三田町・松本町・新馬場同朋町・西應寺町角枡迄。大通り上水道、野方白堀・築土手・溜枡・惣戸樋枡一式。(品川町史・中p.485の訓み下し文による)
 
■既存の…
河川の谷頭部に、用水路からの水路を接続することによって、分水路あるいは余水吐として機能させることができれば、水路のために掘削する土の量や新たに徴用しなければならない用地の面積を減らすことができるうえ、水路の測量・設計の手間暇も大幅に節減できる。
 
 上図の分水路については未検討ながら、下北沢村の取水圦から数えて2つ目の溝が谷分水について、かつて地面の勾配を調べたことがあるので、その結果を以下に示すことにする。
 


緑色の一点鎖線のところにあった自然河川に三田上(用)水からの水路を接続したことになる。
 
【参考】昭和3年に、溝が谷分水が廃止された当時の周辺地域の公図
 
左上の隅が三角橋
 
【追記】
 
寛永江戸全図〔伝1643〕
の右下(南方)を「眺めて」いたら、前記の、
・妙円寺脇分水下流の雉子宮神社向かいの溜井
・余水路下流の北品川宿の溜井
の場所に、やはり溜井と思しきものが描かれていることがわかった。
(明暦江戸図 〔伝1657〕
もほぼ同じ。)
 
早速、詳細な画像を探してみると
 

さらに、右から約4分の1の位置に、後の奥平家の屋敷の南端にあったと思われる池も見える

 地図というより絵図なので、断定はできないのだが、とりわけ、東側の余水路下流の北品川宿の溜井は、先に見た安見図のそれに比べて、はるかに規模が大きいように見える。
 
 この三田水の余水路のいわば起点である白金猿町は、三田水時代、ここから先、北は金杉橋南の西応寺周辺、南は東海道の北品川宿南端までは、暗渠〔伏樋〕で給水していたため*、ほぼ絶対に余水吐〔野方吐〕が必要な場所なので、この余水路には、三田水時代にも、ある程度定常的に水が落とされていたことになる。
 
*〔通称〕正徳上水図(部分)
 
 そのため、三田水の開鑿後は、この寛永図時代ほどの規模の溜井は必要なくなったのではないかとも思われる(もちろん、あくまで水源が「余水」吐なので、いわば「保険」として、ある程度の規模の溜井は残す必要があったのだろう)。
 
〔参照〕
 

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