2020年8月25日火曜日

三田用水實相寺山口の変遷

■先の…
アーティクル
實相寺山口の「實相寺」を探す
https://mitaditch.blogspot.com/2020/07/part-1.html
で、三田用水の實相寺山口の語源となっている、實相寺が、どうやら、今も港区三田4丁目12番15号にある、浄土宗京都東山知恩院末の實相寺らしい、というところまでは解明できた。

■当然…
次の、テーマは、「實相寺山はどこか」というところにあるのだが、これが非常に難しい。
というのは、この地域は、幕末期の幕府煙硝蔵の開設に始まる変化があまりに大きいからである。
とくに幕政期はともかく、明治12年ころから以降、この地に海軍の火薬製造所が設けられて以降明治末近くまで、地形自体に変化を及ぼす造成が行われたことが、主として国立公文書館蔵の同製造所の記録では明確なものの、「地形」を示す信頼できる地形図が明治末期までなかった(例外は、明治20年前後の内務省図だが、等高線は描かれていない)のがネックといえる。
どうやら、当地に「山」といえるような顕著な凸型の地があった様子はなく、おそらく、目黒川の方から見上げて、少し北方にあった「槍が先」のように、半島状に突出した場所を「…山」と呼んでいたのではないかと、想像はするものの、信頼できる等高線を示す地図がないと、それ以上の解明は難しい。

■一方…

實相寺山をとりあえず置いておいて、三田用水の「實相寺山口」とそこからの分水については、文書ながら幕末期の記録があり、明治初期の改修図面があり、以後も、地形図によれば水路の一部が海軍火薬製造所からの排水路に一部が使われた痕跡もあることから、まずは、こちらを優先して検討してみることにした。

■結論を…

先にいえば、この「實相寺山分水」は、幕末期に廃止して以後、正規の三田用水の分水としては復活することはなかったのであるが、当地の「水路」として、明治28年ころまでは、様々な形で残存・利用していたようで、とりあえず、現2020/08/25時点までに判明しているエポックを以下にリストアップしておき、順次、各項目について折に触れて補足してゆこうと思う。

■その原初型

手許の史料の中で、この「實相寺山口」が初めて登場するのは、
品川町史 中巻 のP.487 *
https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&pg=PP525#v=snippet&q=%E5%AE%9A%E7%9B%B8%E5%AF%BA%E5%B1%B1&f=false

*但し、Web上のタイトルは「・下巻,3巻」
 また、分水名の標記は「定相寺山口」

以下の「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出来形帳」という、寛政9年11月に作成された、幕府がその費用(の一部)を負担して行われた、三田用水の大規模な改修工事の、会計報告書である。

同書のp.491によると、この分水口は
字別所上 口の下流
字錢瓶 口の上流
にあって
箱樋帳貳間壱尺 内法横三尺/高二尺

分水樋 長壱間*で、「内法四寸壱分貳厘四方
であり、この種の水利施設では、1寸四方の水積を1坪と呼ぶので、この分水の水積は
16.9744坪であることになる。

*ここまでは、他の分水口も同寸

■幕府合薬製造所〔「砲薬製造所」「焔硝蔵」とも呼ばれる〕のための閉鎖

根崎光男「安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会」
『人間環境論集』(法政大学人間環境学会)第19巻第1号/2018年12月
http://doi.org/10.15002/00021908

p.(10)209-
によれば

 安政3(1856)年、幕府は「中目黒村地内の御立場山*あたりには砲薬製造用の水車を建設し、そして同所より…一軒茶屋**上の青山通りへの道あたりまでの四万坪を御用地とし、その場所に千駄ヶ谷焔硝蔵を移転させる」
ことを計画し(pp.(5)-(7))、

*御立場については
 中目黒の「雉御立場」
 参照
**茶屋坂上の、いわゆる「爺ケ茶屋」を指す
 上記リンクと
 三田用水の「田道甲口」(上手口)
 参照

 その折、
「三田用水路のうち三田村と中目黒村地内の字新富士より祖父ヶ茶屋までの間は用水路の水嵩も相応にあり、周囲の人家とも隔絶しており、砲薬製造用水車を建設するのに最適な場所であること、その地内の斜面(崖の片側だけが急斜面になっていることから 「片雪崩」
と表記される)に水車を建設し、また字実相寺山口と別所口の二ヶ所の分水口を一ヶ所にして水車を回す水とし、さらに三田用水路の流末はこれまでの通り田圃の用水として引き入れるのに都合がよいよう流水する」
こととなった(p.(8))。

 つまり、従前の別所上口と實相寺山口が1つの分水口に統合されることになり、断定はできないのだが
・御府内場末往還其外沿革圖書
      「弘化三〔1846〕〕年九月調 白金…碑文谷村 一圓之繪圖」
       https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587256?tocOpened=1
      
画像調整済み




















・明治13年の迅速測図

とを対比すると、合薬製造所設置前の弘化3〔1846〕年頃の別所上口と、明治13年の田道口(後述)と呼ばれた分水口の位置が一致しているように見えるので、
・従前の別所上口に、實相寺山口が統合され
・實相寺山口が廃止された
可能性が高い。

 もっとも、この實相寺山口については
1 下大崎村名主から代官所宛ての、「目黒村地内の祖父ヶ茶屋の野道より下のほうは小高い場所で用水を引くことができない 」*ので、火薬製造所敷地際の「石橋より二〇間程隔てて、三寸五分四方の分水口を新しく設置すれば、用水を引くことに支障はなくなる」と中目黒村の村役人から聴取した旨の報告(p.(12))
あるいは
2 中目黒村・下目黒村両村から、(上記の分水口の新設に代えて)「実相寺山口の分水口の大きさを四寸一分二厘四方から三寸五分四方に縮小し、そこから従来の堀筋に水を引き込む」ようにしてほしいといった要望(p.(14))
があったようである***

 これらの要望が実現しなかったらしいことは、明治11年の「三田用水水路分水口寸坪取調書」(品川町「品川町史下巻」同町/S07・刊 pp.891-894)に該当する分水口の記載がない**ことからわかる。

 ただし、このとき、実相寺山口の分水口は閉止されたものの、分水路は埋め戻されることなく、いわゆる空堀として残置されたらしいことは、次項の海軍火薬製造所設置時に余水吐として、いわば再利用されていることからわかる。

*この点については、後に「田道口の分割」のところで、詳述する
** 「十一番 字田道口」(前出)の直下は「十二番 字錢噛窪口」となっている
*** 明治期に、ほぼ同じ地域に設置された海軍火薬製造所の場合は、玉川上水から三田用水への分水量を増加させているのに対し、この幕府砲薬製造所の設置に際しては、三田用水の水積には変化がないようであるから、水車用水の確保のためと思われる

■海軍火薬製造所の設置時の余水吐としての再利用(M13ころ)
 東京都公文書館資料

■海軍火薬製造所の排水路としての利用(M20ころ)
 内務省地理局「東京実測図 4幀ノ2」

■田道乙口末流としての利用?(M25)
 小坂「日本の近代化を支えた多摩川の水」p.97

■火薬製造所による田地の買い上げ(M28)
 小坂前掲p.97

■田道乙口(と銭噛窪口)からの分水を大日本麦酒が買収・引用
  小坂前掲p.114

と、変遷が著しいので、図版を含めて、整理ができ次第追記予定。

【参考】


江戸東京博物館・蔵
茶屋坂上北北東、三田用水路北の丘陵から海軍火薬製造所を望んだ光景と思われる。


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