■三田用水…
とりわけ、現在の防衛省艦艇装備研究所のある、目黒区の田道地区について、もっとも詳細に分析されている文献は
小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団=玉川上水と分水の会/2012・刊
(以下「小坂論文」という)の、73ページ以下を措いてほかにない。
■なによりも…
その参照文献の面で
必須の基本文献である
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59・刊
や
国立公文書館(+アジア歴史資料センター)
東京都公文書館
は当然として、さらに、現在は一般には非公開の
通称「三田用水重要文書」(品川歴史館・蔵)
にまで及んでいるので、「情報の精度」の面では、他の文献とは圧倒的な差があるのである。
■とくに…
冒頭に記した、目黒区の田道地区については、すでに旧幕時代末期から幕府の「合薬〔火薬〕製造所」が、維新後も海軍の火薬製造所が、置かれた関係で、その動力である水車のための三田用水の水が必要だったため、三田用水の分水口や水路に様々な変化があったことはわかっているのだが、時期が時期だけに
- とくに幕政期については史料が断片的なため「計画に終わった」のか「実現したのか」については、他のいわゆる「状況証拠」を集めないと判断できない
- (当然、衛星写真は勿論、空中写真もない時代であるうえ)ことに明治末期までは、細かく時系列を追える地図が存在しない
■そのような制約の中で…
「田道甲口」(上手口)
と呼ばれる、分水口の位置などについて有力な「状況証拠」を見つけることができた。
この「田道甲口」は、その起源をたどると(細かい説明や資料は、後日順次追記する)
- 幕末期、幕府の合薬製造所で水車を用いるために、その用地内にあった「別所上口」に、その直近下流で(旧)茶屋坂の上端部にあった「実相寺山口」の水量を合流させ、その後、この「別所上口」は「田道口」と呼ばれるようになった
(幕府普請方作成の沿革図書の地図
「弘化三〔1846〕〕年九月調 白金…碑文谷村 一圓之繪圖」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587256?tocOpened=1 から抜粋の上補入 |
に見える)
- この田道口は、維新後も、海軍省の火薬製造所の水車〔但し、幕政期のそれと違って、西欧式の水力タービン〕のために用いられたうえ、火薬製造所用の水も三田用水に追加して流されるようになった
- 以後、この田道口は徐々に南に位置を移しながら同所で使われ続けていたが、その一方で、地元の農民(や、その水利組合)との、いわゆる「水争い」が頻発するようになった結果…
「 〔海軍省と水利組合は〕1892(明治25)年1月実地調査をして協議し、次のように決めた。
:
②合併樋枡の水量130坪余りのうち、田道口36坪は構外に出す。構内にある田道口と火薬製造所口の合併口のうち、田道口だけを上流と下流の構外に分離する。
:
これらの工事は1892(明治25)年3月に実施した。
この時、構外に出した田道口は、上流側(田道甲口)4寸2分5厘四方と下流側(田道乙口)3寸9分四方の二つに分け…、目黒火薬の南東と北西から外側を囲むように流した。この二筋の流れは、同製造所の西南端のほぼ中央で合流、ここには製造所構内からの水も流れ込み、従来の水路を流下した。」
とされている。
■このうち…
下流部の「田道乙口」は、後の時代の地図でも容易にトレース可能なのだが、
M42測T06修測 1/10000地形図「三田」抜粋 青矢印が他の資料から判断しても「田道乙口」(下手口) なお、上端の左端が「別所坂」 |
「田道甲口」については、何分別所坂の上、かつ火薬製造所の構外の崖線上という限られたスペースに分水口を設けたことになるうえ、これを崖線下に落とすルートの措定も難しく、とくに後者について特定の必要を感じる場所である。
■当初から…
今現在でも非常に存在感がある候補地はあって、
現・東京都目黒区中目黒2丁目1
別所坂上南の「別所坂児童公園」から、同坂下にまっすぐに下る階段のルートだった。
地図上で、M42測T06修測1万分の1地形図「三田」上の、かつての水車のための水路の部分に、国税庁が公開している「路線価図」(相続税の計算には不可欠の地図であるが、文字通り道路については現況を詳しく反映している)を重ねてみると、この階段がほぼ一致している。
■ここまでは…
10年前からすでに確認済みだったことで、こちらの「頭の中」ではほぼ確実、といってよいのだが、こういった場所に「正面切って」書くとなると、できれば、何とか文献上の「ウラ」を取りたいところだった。
昨日、たまたま必要があって、「水車台帳」こと
鈴木芳行 「明治・大正期における多摩川流域の水車分布-水車台帳の作成と水車諸産業の存在形態」(現)東急財団/1992・刊
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4
を見ていたところ、そのp.417
水車番号 #947
名 称 樋口政章 水車
所 在 中目黒325-1
引 用 玉川上水三田用水田道甲号分水路
の項の末尾の
東京府属 高野鉄太郎、明治23年4月23日付、東京府知事宛「復命書」(p.417)に
「水路ハ三田用水路田道甲号分水路ニテ寸坪十八坪余ヲ長一間ノ木樋*ヲ埋メ三田用水路ヨリ引入レ溜枡ヲ設ケ、夫ヨリ約二間ノ間二土管ヲ伏込ミ、高十尺余ノ小瀑布アリ、之レヲ廃止シ、其ノ水流ノ降下二依リ原動力ヲ起シ茲二設置スルノ経営ニシテ、其下流二願人及ヒ浅海源次郎、島崎忠左衛門等既設水車アリ。以上ハ何レモ崖地二沿ヒ夫ヨリ平地トナレリ、流末ハ目黒村田地ノ灌漑二供スルモノナリ。」
との記述があるのが見つかった。
鉢山口の想像図(田道甲口は図の左方が上流なので、この図とは「線対称)となる 長1間の木樋で水を引き出している点では、この図の約100年前と違いがない。 |
■ここまで来ると…
前記の階段が、田道甲号分水路の場所にあたることを疑う余地はない。
■しかし…
解釈に窮するのが、以下の図絵である。
〔重文〕「一雲齋歌川國長・槍崎富士山眺望之図」東京大学史料編纂所・蔵 崖線上の台地の小山は目黒新富士で、当時この地はエトロフ島探検で有名な近藤重藏の別邸だった |
この作者である歌川國長は、1790年生まれ、1829年没なので、この絵は間違いなく先の沿革図書よりも前に描かれたことになるのだが、なぜか、後の田道甲口同様に崖線から流れ落ちる滝が描かれているのである(しかも、下絵では、滝が2条描かれている*)。
*関口敦仁「絵画史料から復元した大崎苑と目黒川河口域から見る江戸の都市景観について」愛知県立芸術大学紀要Vol.46/2017 pp.119-120
■もっとも…
國長はいうまでもなく絵師であり、この絵には、いわゆる絵画的誇張がある可能性は否めないのだが、田道甲口ができたのは、当然はるかに後のはずである。
この地のいわば実況に近いと思われる絵としては、以下のものがある。
國長はいうまでもなく絵師であり、この絵には、いわゆる絵画的誇張がある可能性は否めないのだが、田道甲口ができたのは、当然はるかに後のはずである。
この地のいわば実況に近いと思われる絵としては、以下のものがある。
近藤富蔵「武州荏原郡三田村鎗ヶ埼 新富士山眺望之圖」 |
近藤富蔵は、重蔵の子であり、この目黒新富士の敷地をめぐる隣地で茶屋兼蕎麦屋を営む半之助なる人物と重蔵との土地争い(一言で表現するには、こうとしか言いようがない)の末、文政9年(1826年)半之助夫妻など5人を斬殺した(「嶽台の變」)。
この絵は、おそらく、富蔵が、その科で八丈島に流刑になった後に、当時を回顧して描いたものと思われるが、富蔵の著作「八丈実記」は、明治政府の役人も高く評価して流刑からの赦免を上甲したといわれ、また、柳田國男も高評価したといわれている著作なので、富蔵は地誌学、地理学そして民俗学の分野で高い素養を持っていたことがわかる。
それを考慮すれば、これは絵画というよりむしろ学術書などの図版に近いもので、先の國長のそれよりも「客観性が高い」文政9年当時の、「実景」と思われる。
なお、同様に「客観性が高い」と考えられる図版として、村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕13巻掲載の下図(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/8)がある
■この…
「…眺望圖」によれば、國長図に描かかれている杉と思われる崖線部の山林はなく、禿山状態なのだが、先の八丈実記によれば「嶽台の變」の少し前の「文政九年春陽ノハジメヨリ」、重蔵の指示で「松木ノミ残シテ余木ヲカリハラ」ったといわるので、その後の情景を描いたものと思われる。
しかし、その際も、崖線の頂上で、新富士山の麓に位置する「御立場松」は残されたらしいのだが、その直下に「大滝」と記されているので、國長の絵にあった滝は(規模はともかく)実在したらしい。
そして、「國長図」とともに「眺望圖」崖線上の、新富士(目黒西富士)の麓に松が植えられているが、この点は目切坂上にあった元富士(目黒東富士)も同様で、こに松は、新富士の頂上からの「実物の」富士山の方向を示すマーカーだったと考えられる。
その前提で、その下の大滝の方向を割り出すと
https://drive.google.com/open?id=1nu9r3vFNLwIBcSLLF-mT5vFTxDs&usp=sharing
その滝口は、後の田通甲口の南。児童公園からの階段のラインから反時計回りに35度ほど振ったライン上にあったようである。
この絵の表現する「嶽台の變」当時(1829年)と、先の沿革図の1846年とのタイムラグはわずか17年。
加えて、品川町史・中巻(同町/S07・刊)pp.488-493にある、寛政9〔1797〕年の
「御料御霊屋料私領寺領拾四ケ村組合三田用水白樋埋樋枡形分水口御普請出来形帳」
によれば、別所上口は道城池口よりも下流に位置することになっていて、これとのタイムラグも32年である。
これらの間に、別所上口に何が起こったのだろうか。
なお、同様に「客観性が高い」と考えられる図版として、村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕13巻掲載の下図(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577954/8)がある
文政3年3月4日〔1820年4月4日〕当時の東富士/目黒元富士(右)と西富士/目黒新富士(左) この後、國長図のように崖線に植林されたらしい なお、代官山の猿楽塚あたりからの描写と思われるが、このアングルから滝は見えない |
■この…
「…眺望圖」によれば、國長図に描かかれている杉と思われる崖線部の山林はなく、禿山状態なのだが、先の八丈実記によれば「嶽台の變」の少し前の「文政九年春陽ノハジメヨリ」、重蔵の指示で「松木ノミ残シテ余木ヲカリハラ」ったといわるので、その後の情景を描いたものと思われる。
しかし、その際も、崖線の頂上で、新富士山の麓に位置する「御立場松」は残されたらしいのだが、その直下に「大滝」と記されているので、國長の絵にあった滝は(規模はともかく)実在したらしい。
そして、「國長図」とともに「眺望圖」崖線上の、新富士(目黒西富士)の麓に松が植えられているが、この点は目切坂上にあった元富士(目黒東富士)も同様で、こに松は、新富士の頂上からの「実物の」富士山の方向を示すマーカーだったと考えられる。
その前提で、その下の大滝の方向を割り出すと
https://drive.google.com/open?id=1nu9r3vFNLwIBcSLLF-mT5vFTxDs&usp=sharing
その滝口は、後の田通甲口の南。児童公園からの階段のラインから反時計回りに35度ほど振ったライン上にあったようである。
この絵の表現する「嶽台の變」当時(1829年)と、先の沿革図の1846年とのタイムラグはわずか17年。
加えて、品川町史・中巻(同町/S07・刊)pp.488-493にある、寛政9〔1797〕年の
「御料御霊屋料私領寺領拾四ケ村組合三田用水白樋埋樋枡形分水口御普請出来形帳」
によれば、別所上口は道城池口よりも下流に位置することになっていて、これとのタイムラグも32年である。
これらの間に、別所上口に何が起こったのだろうか。
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