2020年4月17日金曜日

仮称・渋谷村用水

■「北沢川文化遺産保存の会」の…

企画として、2008年12月13日に始まった「三田用水ツアー」
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/2008-12-14.html
が、最後の最後に「豪雨情報」で延期、さらには「新型コロナウイルス」のためのさらなる延期の危機を、幸い「三密」を避けられるコース設定だったのが幸いして、

去る、2020年3月21日で、約12年余にわたる合計10回の巡検を終えることができた。

(この間の足跡を、細かく説明しだすとキリがないので、この12年の間に「仕上がってきた」水路地図
https://drive.google.com/open?id=1CSiGLU8FVa5Ao-pHegnoaSErU4eo6K6e
をご参照)

■その、いわば「中〆」にあたるツアーは…

渋谷区代官山の旧・朝倉家住宅と、旧山手通りの西郷橋から渋谷川までのツアー
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52111935.html

で、毎回のことながら、上記のような三田用水とその分水路の地図に加えて、参加者の方々にお配りする、大体A4版10ページ程度の資料集を編集するときに、これまでなかったような疑問が生じてきた。

 というのは、これまで辿ってきた、分水については、比較的その末流部が限られていて特定しやすかったのに対し、今回の、鉢山分水、つまり旧山手通りの西郷橋付近で三田用水から分水されて

現在の西郷橋付近にあった「角谷製綿所」
画面右側の工場は蒸気機関で稼働していたのに対し、細い道路を挟んだ左側の工場は、
鉢山分水口の直下にあった水車で稼働していた。
(左下隅に、水車と、その上部に用水の水を送るための懸樋が見える)
























最終的に渋谷川に合流するのだが、その合流点らしき場所が、下の地図でも、


内務省地理局「5千分の1 東京実測図」M20
第4幀の2 から抜粋
いくつもある。

■この点については…

渋谷区の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員の田原光泰氏の

「春の小川はなぜ消えたか」之潮/2011・刊

のpp.30‐31でも触れられていて(とくに、図12参照)

〔渋谷川に西方向から流入する渋谷川の支流-北から順に猿楽分水、鉢山分水、道城池分水ー〕
「の水をそのまま渋谷川に落とすのではなく、水路を本流に沿って下流までのばしてゆき、その途中で水を分水させながら水田に水を供給していた」

とされている。

■とはいえ…

このような末流部は、他の三田用水の分水にはみられないのである。*
*末尾追記のとおり、下流部の目黒川左岸にもあった

 たまたま、この明治20年の内務省図が、比較的細かい水路まで描写しているせいかもしれないので、少し下流の銭瓶窪左岸分水(白金分水)の末流部を見てみても


内務省地理局「5千分の1 東京実測図」M20
第4幀 から抜粋







狸橋から見た、元銭甕窪左岸分水の渋谷川への合流口
港区白金5-1-8地先 2015/04/18撮影

灌漑用水なので、中流部では、当然いくつかの流路に分水されているものの、最終的には、慶應幼稚舎〔「小学校」である。念のため〕北の狸橋のやや東の1箇所で渋谷川に落ちている。

 各分水路は、他の河川との合流点まで、用水組合の管理下に置かれていることが多く、逆に言えば、他の河川との合流点までの分水路については用水組合に管理責任があることになる*

 中流部でいくら分水しても、その水路については、組合内の問題として処理できるのに対し、他の河川との合流点については、その補修とか改修については、合流先の河川の管理者との協議や折衝が不可欠となる。

 そのような煩雑さをできるだけさけるためには、他河川との合流点は、できるだけ一か所にしたいところである。

*【参考】


世田谷区北沢/代沢地区を流れる、北沢用水(北沢川)支流の里俗・森巖寺川の例。
自然河川であるが、現地でかつて「三田用水」と呼ばれていたことがわかる。
ここは、同用水の山下口からの流路であり、水路の管理やメンテナンスを用水組合が行っていたためだろう。

世田谷区民俗調査団「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」
世田谷区教育委員会/S63・刊 p.4より引用













■ところで…

今回配布する資料に使う古地図をみていて、さらに不思議なことに気が付いた。


「目黒筋御場繪圖」文化2(1805)年
国立公文書館・蔵
当然ながら、この時点で三田用水とその分水は存在する

 この図では、道玄坂町の街場の東端に北から流入する宇田川を、坂下で分水して、そのまま、渋谷川右岸に並行して広尾の東、大体現在の恵比寿1丁目と2丁目の境界あたりで、渋谷川に合流する水路が明瞭に描かれている。

 これは、よく見られる河川沿いの用水路と同じパターンといってよいのだが、この用水路はいわば本流である渋谷川の水を分水したものではなく、三田用水の、鉢山分水、猿楽分水、道城池分水が西から合流しているばかりでなく、源流である宇田川には三田用水の神山分水も合流しているので、要するに、上中下渋谷村(豊沢村を含む)がこの用水路を通じて三田用水の4つの分水の水を共有していたことになる。

■仮に…

この用水路を「渋谷村用水」と呼ぶことにするが、この水路のうち、宇田川から広尾町の現恵比寿駅北方までの区間は、明治22年の段階では、まだ残存していたようである。




東京都公文書館・蔵
「三田用水内堀水利組合区域を仮定し創立委員を命ず南豊島郡渋谷村長」M22
619.A2.13/D326-RAM/綴込番号:50
代官山を通る猿楽分水が、一旦今の駒沢通りまで南下した後、再び北上して比丘橋のところで渋谷川に落ちている
原本は彩色されているようなので、いずれは確認してみたい
















上図のうち、水路を表現していると思われる部分を水色でインキングしてみた


■なぜ…

この旧上中下の渋谷村の領域に限って、三田用水の分水路としては異例ともいえるこのような灌漑システムとなったのかについては、何分史料が乏しいこともあって断定はできないが、可能性として一番高そうなのは

  • 言うまでもないが、人工の水路である細川上水や三田上水よりも、自然河川の宇田川が先に存在していた。
  • この渋谷村用水は、細川上水や三田上水の開鑿前から、宇田川からの分水をベースにして、後に三田用水の分水路となる前の自然河川だった、いわば(各仮称)原鉢山川、原猿楽川、原道城池川の水によって、用水路と渋谷川の間の水田を涵養するため、その田間を毛細血管のような用水路・悪水路が発達していった
  • その間に、それら毛細血管状の水路を含む用水路の管理、平時や渇水などの非常時の水の分配方法などについて、関係村落間での「取決め事」が成立していた
  • やがて、三田上水が開鑿され、これら3川のうちいくつかは、その余水吐となり、さらに三田用水が開鑿された際に分水口と上記の3川の源流部が接続されることによって、渋谷村用水の水量が増加した
【参考溝が谷分水源流部の想像図

   
  • しかし、この渋谷村用水に、三田上水あるいは三田用水からの水が加わったからといっても、(神山分水については疑問があるが)、それまで渋谷村用水の水源だった自然河川の水量が増えただけともいえ、そのために、渋谷村用水と渋谷川間の水路を改修して変更しようとすると、それまで多年にわたって関係者間で、お互いの(ときとしてギリギリの)妥協のもとに築き上げてきた「取決め事」を大幅に改正しなければならなくなる。
  • しかし、そのための協議自体、各村、各地域の利害が錯綜しているので長い時間と多くの労力を要するし、かつて多くの時間と労力を注いで折り合いをつけることによって、ともかくも解決してきた「水争い」を新たに発生させてしまう可能性もある。
  • そのため、三田用水からの各分水を通じての給水が比較的均等に行われていることもあって、既存の渋谷村用水と渋谷川との間の水利秩序には手を入れないことになった
というストーリーなのではないだろうか。


 いずれ、検地帳などで、この間の耕地面積の変化や収量の変化(水がより潤沢になれば、下田が中田とか、中田が上田になって石高があがったかもしれない)をトレースできるかもしれない。

【追記】

令和2年4月に国分寺市に移転した東京都公文書館のデジタルアーカイブ
https://dasasp03.i-repository.net/il/meta_pub/G0000002tokyoarchv00
搭載の、豊島郡を中心とする近世の村絵図中の


●四ッ谷辺、青山辺、渋谷辺合圖


では、道玄坂下で渋谷川に合流する大山道沿いの水路がまるで「余水吐」で、大山街道を横断する水路の方がむしろ本流のように描かれている。

加えて

●駒ケ原絵図(山下和正氏蔵の由)
 全図= http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/image/KomagaharaEzu_Full.jpg

 

でも、御場絵図同様に、宇田川の別名「コウホ子落」が分水されて大山道を潜り

●駒場御狩場之図
 全図= http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/image/KaribaZus.gif

 

も同様である。
 
 これらに対し、
 
●幕府の普請方が制作した、御府内場末往還其外沿革図書 [3]拾六 の106ページ目
の「當時」つまり弘化3年の図

によれば、大山道を潜るのは、宇田川の下流ではなく

神山分水に神泉谷からの流れが合流
その後2流に分水
 1流は宇田川に合流するが
 もう1流が大山街道を潜る
ように描かれている

■これらの絵図のうち、作成時期が判明しているものを年代順にみると

1 駒が原絵図      1803-1830年
2 目黒筋御場繪圖    1805(文化2)年以前
そして
3 御府内場末往還其外沿革図書   1846(弘化3)年
4 三田用水内堀水利組合区域を仮定し創立委員を命ず南豊島郡渋谷村長 1885(明治22)年

であり、
1,2に較べて3,4が、大山道を潜る水路が西に振れている(ただし、この辺り、円山町から渋谷109にかけての舌状の台地があるので、そうそう大きく西には振ない)ことからみて、1800年度始めから1800年度中頃にかけて当地に水路が大きく付替えられたと考えられる。

【追々々記】
村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕の挿絵をみると

文政3〔1820〕年
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」巻
15
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956/4

 























画面中央を横断しているのが、世田谷街道〔=厚木街道=大山道〕であるが、画面中央やや右を縦断する渋谷川を渡ってすぐ西の道玄坂下から宇田川流域である北側のみならず、南側にも「田」があったことがわかる。

このことは、この南方の鉢山分水までの間にも灌漑がほどこされていたことを意味しており、その水源は、宇田川以外には考えにくいのである。

【追々々々記】

北斎の「鎌倉江嶋大山新板往来双六」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1307090/1/1 の右下の一つ上の「五二」コマに描かれている。

柳亭種彦//撰 前北斎為一//図『鎌倉江嶋大山新板往来双六』

画面右下が宮益橋。そこから先が道玄坂でその右脇が宇田川と思われる。 

 大山詣での後「上がり」(=振り出し)の日本橋に戻る途中なので、西から東に、道玄坂を手前、冨士見(宮益)坂を奥に描くのが行程として素直な構図と思うのだが、橋の向こうの往還右脇に川が流れている(しかも、小さな橋が架かっている)こと、橋の手前は、ぎりぎりまで人家が密集していることから宮益町で、その先に冨士見橋(現・宮益橋)が渡る渋谷川が描かれいて、先の往還右手の宇田川末流が渋谷川に落ちている姿が描かれているのだろう。



【追々記】

御府内備考 の
巻之七十四 澁谷之二 中
道玄坂町の条に

一下水 堀之儀者中澁谷村續町内東之方ニ有之候横切下水ニ而巾三尺中澁谷村耕地より流來南之方同村耕地え流行申候
一石橋 長四尺巾六尺程
 右者前書下水掛渡有之候
  但澁谷村持ニ御座候


とある。

[翻字版]大日本地誌大系. 第3巻https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214872/177
[原 典]府内備考. 巻70-74https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553683/145

この「御府内備考」は文政12(1829)年編纂の「御府内風土記」(焼失)の資料集。

上記「下水」が、ここで採り上げた大山道を潜る、同道の北にある「中澁谷村耕地」と南にある「中澁谷村耕地」とを結ぶ水路を指していることはまず間違いないように思う(ただし、宇田川の末流部の渋谷川との合流点直近に、大山道を潜って南方向に細い用水路があった可能性はある)、当初の宇田川下流のそれなのか後期の神山分水下流のそれなのかは判断しようがない。

【追々々記】
 どうやら、…沿革図に描かれている、付替え後の大山道を潜っていたと思われる水路の一部を示す地図が見つかった
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館・編「『春の小川』の流れた街・渋谷〔特別展図録〕」同館/H20・刊 p.38 より
 大正初期に行われた、当地の区画整理前の土地利用と水路を示す図面だが、赤矢印の水路を、図の下(南)方向に宇田川に並行して延長させると、大山道に突き当たる。

前掲「『春の小川』の流れた街・渋谷〔特別展図録〕」p.47 より
T13から行われた暗渠化(薄紫色部分)工事の図面
















 画面右上の凡例には「三田用水路 暗渠蓋架設幷盛土」とある(右の青色で示された開渠部分は大向小学校の敷地〔現・東急本店)の由)。

 前図赤矢印の水路は、この暗渠化工事に先立つ区画整理(か遅くともこの工事)で消滅したことになる。

【追記】21/09/21
「沿革圖書」系列の図のうち
麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図 の7コマ目

に、明確に、相州道(大山道)をわたった神山分水からの水路が、渋谷川に並行して澁谷広尾町までつながって描写されているのを見つけた。




幕府の普請方が作成した沿革図書系統の、いわば公式の地図であり、
先のM22年図、御場絵図と併せてみても、すくなくとも幕政期後半と、明治期に、この渋谷村内を縦断する水路が存在したことはまず疑いない。

ただ、この水路には、すくなくとも、鉢山分水、猿楽分水など水が合流しているが、これらは、自然河川でもあり、三田用水が閉止されている冬季にも流入する川水や、豪雨の際の増水は、田圃の中の毛細血管のような細水路に雲散霧消させられないので、当然、この仮称澁谷村用水から渋谷川に通ずる悪水路にあたる準幹線的な水路が幾筋か必要だったはずで、各分水の末流部は、この渋谷村用水の余水吐としても機能していたのだろう。

さらに、三田用水の下流、目黒川に落ちる、烏久保分水と、妙圓寺脇分水(+久留島上右岸分水の一部)の末流部同士が、目黒川に並行する水路で接続されていることが分かった(上記絵図の3コマ目と6コマ目)。

青い傍線で、上記「目黒川」北方の水路を示す









 おそらくは、勾配との関係でみると、過剰な水はそのまま末流部に流したうえ、烏久保分水の水をこの水路に流して、図の「谷山村田畑」と「上大崎村田畑」を灌漑し、余剰な水を妙圓寺脇分水の末流部から目黒川に落としたのだろう。

 先の渋谷村用水も、このような仕組みが、「宇田川からの分水*」「鉢山分水」「猿楽分水」(加えて、この区間内の小さな谷戸からの水)の3流について設けられていて、あたかも、1本の用水路のように機能していたのかもしれない。

*三田用水の神山分水起源の水も含まれる

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