2020年7月25日土曜日

實相寺山口の「實相寺」を探す

■三田用水の…

寛政9(1797)年11月「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」によれば、11番目の分水。

品川町史・中巻による翻字「定相寺山口」と、目黒区史などによる「實相寺山口」のどちらが正しいのかについては、

当ブログの
三田用水の分水名由来考【随時更新予定】
https://mitaditch.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
で、一応の結論にたどりついた。

■そうなると…

次の問題は、その「實相寺」はどこにあったのか、ということになるのだが、すでに、上記リンク先で指摘したように、「江戸東京重ね地図」で検索すると、江戸の朱引線内にほぼ限っても、實相寺は6ケ寺もあって、それらの所在地も
 青山久保町
 浅草新寺町
 浅草八軒寺町
 築地
 北本所表町
 三田台町
と広汎にわたっていることもあり、その先が、いわば行き詰まっていた。

■その中で…

思い至ったことは、
新編武蔵風土記稿、荏原郡之19巻之58の当地三田村の条  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763983/26
によれば、同村内には、この實相寺のほかにも多くの寺院が抱地を所持しているので、それらの寺院の所在地から、この實相寺が上記のどれにあたるのかを推定できないか、ということであった。

そこで、「江戸東京重ね地図」各寺を検索すると以下のことがわかった。



これらのうち、蓮葉寺以下の4ケ寺は所在地不明だったが、風土記稿中の割注からみて三田村内に所在していたらしい。
それ以外は、大松寺だけは「たいしょうじ」と訓むらしい漢字表記では同名の寺が浅草北寺町にあるほかは、すべて近隣といえる白金、二本榎、あるいは現在の港区三田の各町にあることになる。

■そうなると…

問題の實相寺についても、6ケ寺のうち、三田台町
・旧三田臺町44番地
・現三田4丁目12番15号
にある、浄土宗京都東山知恩院末の實相寺
という現存している寺院と考えるのが素直であるということにはなる。

■しかし…

東京都公文書館蔵の明治中期の寺院に関する資料である
寺院明細帳(7)荏原郡
のコピーを、確認のために眺めていたところ

明治39年までは
・旧芝区白金志田町1番地
に、天台宗延暦寺末の實相寺
があったらしいこと、しかも同寺は、明治39年に
・旧目黒村大字中目黒970番地
・現目黒区中目黒5丁目7番13号
という不思議なことに、問題の實相寺山口と目黒川をはさんでほぼ真向かいに移転し、現存していることがわかったのである。

■念のため…

内務省地理局「東京五千分壱実測図」(M20) の第4幀をみても、たしかに
三田台町の浄土宗實相寺と白金志田町の天台宗實相寺が、大げさにいえば「糸電話の距離」で並立していた。
黄塗が「天台宗實相寺」、青塗が「浄土宗實相寺」

























もっとも…
 
先のとおり、この天台宗實相寺は、 「江戸東京重ね地図」では検索されない寺院であるので、上記内務省図の天台宗實相寺の場所を確認すると、ここには、同じ天台宗とはいえ、
東叡山末中道寺
があったことがわかった

■この…

「江戸東京重ね地図」の解説によれば、安政3(1856)年が地図の基準時点のようなので、それに従うと、風土記稿が編纂された文化・文政期(1804-1829)に、白金志田町に天台宗實相寺があった可能性は低いことになり、分水口名は、三田台町の浄土宗実相寺に由来する可能性が極めて高いといえる。

■とはいえ…

「江戸東京重ね地図」は、何分2次資料に過ぎないので、やはり、この天台宗實相寺はどこから来たのか(先の東京府の資料によれば、同寺は寛永6(1629)年開基ということになっている)、逆に中道寺はどこに行ってしまったのか、という問題もあるわけなので、折があれば調べてみたいところである。

【追記】
やはり、懸念は的中していた。

国会図書館・蔵「御府内場末往還其外沿革圖書. [1]拾六上」

によれば、この地には
宝暦2(1752)年の時点では、中道寺があり
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587235/201
その後
弘化3(1847)年の時点では、實相寺があった
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587235/202
とされており、ちょうど風土記稿が編まれた文化・文政期を含む時期に、實相寺がここに来たことになるので、現時点では、風土記稿の實相寺が、天台宗のそれか、浄土宗のそれかは確定のしようがないことになる。

【追々記】
天保4(1833)年/金丸彦五郎影直図工/須原屋茂兵衛・刊「分間江戸大絵図」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542727
によれば、この場所は中道寺とされているので

風土記稿が編纂されたときには、未だここには天台宗實相寺がなかったことがほぼ確定した。

【追々々記】
天台宗實相寺の由来が判明した。

寺院のご案内 実相寺 | お寺・お墓のアイエム - 株式会社アイエム
https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=528
によれば

實相寺の前身は、寛永6年(1629)日是聖人という日蓮宗の僧侶により開かれ、鷲峰山法林院中道寺と称した寺で三田志田町にありました。
日蓮宗としては五代続いたのですが5世日善は当時禁制宗門の不受不施派再興の企てに参加したため元禄11年(1698)三宅島へ流罪となってしまいました。

元禄13年(1700)天台宗に改まり、普穹法印を開基として代を重ね天保5年(1834)に寺号を現在の實相寺と改称しました。
明治維新にあたり、武士階級の没落四散により寺門維持は困難をきわめ、堂宇も荒廃し、また道路改正にもあたった為、 明治44年(1911)19世了観により現在地へ移転することとなり、現在に至っています。


 ■結局…

天台宗實相寺は、天保5(1834)年までは旧同宗中道寺、開基の寛永6(1629)年から元禄13(1700)年までは日蓮宗中道寺であって、したがって、それまで天台宗實相寺が他の場所にあったというわけではなく、今でいう宗教法人としては同一性を保ったまま、創建の寛永6(1629)年から明治39(または44)年までは白金志田町に、それ以後は現在地に存立していることになる。

一方、浄土宗實相寺は、東京都公文書館・蔵「寺院明細帳(7)荏原郡」中の「浄土宗明細簿」(M10)によれば、創建は慶長16(1611)年。
もっとも、当初は八丁堀にあり、寛永12(1635)年に当地に移転してきたといわれる。
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g14129732-d12339342-Reviews-Jisso_ji_Temple-Mita_Minato_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html

したがって、風土記稿にいう實相寺、つまり、三田村内に抱地を持ち、實相寺山口の語源となったのは、浄土宗實相寺の方であることはほぼ確実である。

なお、
国会図書館・蔵「〔文政〕寺社書上. [11] 三田寺社書上 壱」中の
同寺の章は

東京都公文書館・蔵「寺社備考」

1600坪余の拝領地のほか、承応元壬辰年に買添した70坪2合2斗の年貢地を所持しているとされ、地積が誤差範囲ともいえることから、これが三田村内の抱地を指すのかもしれない。

■いうまでも…

ないことながら、次のテーマは「では『實相寺山』はどこにあったのか」ということになる。

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