【参考】当方のWebページ
品川町史・中巻 pp.488-501
(google books
https://books.google.co.jp/bkshp?hl=ja&tab=wp
で、「品川町史 下巻」を検索
「https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&printsec=frontcover&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiym-HksOXqAhWDH3AKHdrKD_0Q6AEwAHoECAMQAg#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false」
)
寛政9(1797)年11月「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」記載の分水口
をタイトルに示し、
紫太文字で
品川町史・下巻 pp.891‐894
明治11(16?)年10月「三田用水取調表 別紙 三田用水水路分水取調書」記載の分水口
を示す
R■山下口
R■一番 字山下口
- 我が家のすぐ近くにもかかわらず、語源探しに難航した分水名の一つ
- 旧世田谷区立北沢小学校(現同区立池之上小学校仮校舎〔同校の耐震改修のため〕)のすぐ西に明瞭な水路跡が残る
- 周囲に「山下」という地名は史料上ないし、地形的にも「山の下」ではありえない
- 結局、この分水の水は、ほぼ全てが、代田村飛地下代田の字山下に沃いでいた*ためと考えざるを得ない
- 加えて、この下代田の山下も、その地域を「山の下」と見るにはやや無理がある
- 一説に、この地を開墾したのは「代田七人衆」と称される、後北條時代に当地を支配していた(世田谷|蒔田)吉良氏の家臣のうち、後北條氏滅亡後**同村に帰農した7家のうち「柳下」家が開墾した地域で、その柳下が小名名山下に転じたともいう
*この分水も、旧下北澤村内の、北澤川(用水)の支流である里俗「森嚴寺川」に合流した後、同川によって旧下北澤村内を南方向に素通りしており、こも分水からの水の大半は、同川と北澤川との合流点の直下の代田村飛地下代田のうち字山下の水田に沃いでいたらしい
**結構、「滅亡」という間違った記述も散見されるが、このとき後北條氏も一族全員が滅亡したわけではないし、世田谷吉良氏は存続している
赤穂事件で有名な吉良上野守の「三河吉良氏(元西条吉良氏)は、東軍方についていたこともあって、徳川幕府でも旗本、しかも、清和源氏直系の足利氏直系のため「名門大好き」の家康の好みもあったと思われるが「高家」として遇されている
奥州吉良氏ともいわれる世田谷吉良氏は、もともとは三河の東条吉良家なので、同様に清和源氏‐足利直系で、いったん上総に引いて恭順の後、蒔田氏として旗本となり、赤穂事件後は、吉良を名乗り「高家」に遇された
R■溝ケ谷口
R■二番 字溝ケ谷口
- 標記の品川町史では、「澁ケ谷」と翻字しているが、これは明らかに「溝ケ谷」の誤り
- 現在の三角橋交差点やや西で三田用水から分水*された水は、旧下北澤村の、大下、溝ケ谷、さらに、旧代田村飛地の下代田の溝ケ谷を経て北澤川(北澤用水〔旧称・上北澤用水〕)に合流しているが
世田谷区教育委員会「世田谷旧村古地名集」1983
の下北沢村(p.68)、代田村(pp.117‐119)の項をみても、各村に「溝ケ谷」との地名はあるものの「澁ケ谷」という地名は存在しない - 明治12年に三田用水組合に代田村総代人秋元定次郎が提出した「分水水積割合の儀に付願」(東京都公文書館・蔵 [MF]府明Ⅱ明12-054,[D]D223)の、この分水を示す「二番分水」の所在地の表記をみても、「溝ケ谷」とは読めても「澁ケ谷」とは到底読めない
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui00.htm
*分水口の所在地は正確には、上目黒村字三角
そこから、水は、旧下北澤村の大下と溝ケ谷をいわば素通りして、旧代田村の飛地下代田の溝ケ谷・松代に沃いでいた
【参照】
三田用水:北沢五丁目の玉川上水からの取水圦から三角橋を経て溝が谷分水の上流部まで(と、北沢用水合流部までの概略)
L■神山口
L■三番 字神山口
R■駒場口
R■四番 字駒場口
―
R■五番 字大坂口
R■中川口
R■六番 字中川口
L■鉢山口
L■七番 字鉢山口
L■猿楽口
L■八番 字猿楽口
R■谷口
R■九番 字谷山口
L■道城池口
L■十番 字道城池口
R■別所上口
―
R■十一番 字田道口
R■實相寺山口
- 標記の品川町史では、「定相寺山口」と翻字しているが、目黒区史などの大半は「実相寺山口」とする。
- 寺院の名称として「定相寺」というのは、非常に珍しいのに対し、例えば「江戸東京重ね地図」で検索すると、江戸の朱引線内にほぼ限られるにしても、定相寺は1ケ寺もないのに対し、實相寺の方は6ケ寺が出てくる
- なによりも、新編武蔵風土記稿、荏原郡之19巻之58の当地三田村の条 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763983/26
によれば、同村内に「實相寺抱地二畝五分」が存在したとされていることからみても、これは實相寺と翻字するのが正しいのだろう - この實相寺が、江戸府内のあった6ケ寺のいずれかなのかについては、ここ
https://mitaditch.blogspot.com/2020/07/part-1.html
に検討結果を記した
L■十二番 字錢噛久保口
- 上記の新編武蔵風土記稿、荏原郡之19巻之58の三田村の条に以下のような記述があった
(千代ケ崎の千代が衣懸の松の側に)「錢龜ノ井ト云アリ 昔孝子アリ 其母酒ヲ好ム 家貧シ 飲酌ヲ設ルコト能ハス 孝感ノ致ス所ニヤ 井水變シテ酒トナリシトツトウ 錢龜トハスナワチ錢瓶の假借ナラン」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763983/25 - この分水名が、上記の錢龜(瓶)ノ井に由来すると考えて、まず、間違いなさそうである
- また
十方庵敬順「遊歴雑記」
初編 巻之上 第四十八 上板橋清水村の酒泉渓 板橋区清水町
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952977/64
末尾近くに
「目黒行人坂上松平主殿下やしき、千代が崎の谷間にむかし酒の湧きしといふ井あり、井戸側には鐵粉を練りて造しものと覺ゆ、後巻に譲りてくわしく辨〔ママ〕ずべし。」
とある。 - この「後巻」にあたるのは、同書
3編 巻之下 第三十一 「目黒千代が崎林泉の逍遥」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912998/192
で、以下のとおり
「一、東武下目黒松平主殿頭〔肥前嶋原領七万石〕の下やしきは、行人坂手まへ長みねといふ處にあり、門を入てより凡ゆく事二町又門あり、門内家中の者に數十軒居れり、構えの廣さ四五町、山高く谷深く奥深き事更に山林に入が如し、爰に庭奉行とかや、宮塚善次兵衛が世伜善藏は、越中やしき笠原露三といひし頃よりの知己なれば、庭見せてよと兼約し、頃は三月廿六日遠山瀾閣館幡里の兩人を誘引て、雲かとあやしむ舞雲雀の高き鳥居坂なる、澤水翁の翫ばるる櫻草を一見して、件の下やしきへ罷りぬ、小日向より行程凡三里はあるぺし、折莭親子ともに在宿し、彼是と取はやしつゝ、頓て善藏は手爐をを携先にたちて案内し呉ぬ、斯て宮塚が宅より北をさしてゆく行凡二町餘にして、爪先さがりに谷へくだる、此處平坦にして方凡貳拾四五間中央にいろ/\の景石を敷ならべ、澗水漲り流れて恰も澤のごとし、此澗水に浸りて眞中に井あり、化粧側は澗水を離るゝ事纔に二三寸亘三尺四五寸、井戸側の厚さ凡五寸鐵にて作れり、水又側より溢れ流る、善蔵指ざし教えて曰、むかし此邊一圓の乎原にてありしとよ、壹人の馬奴り馬を引て家に歸度々、酒に酢て飽たるが如し、家の主叱て曰く、何方にて斯は沈酔する買て飲や振舞るゝやと發諌して責、馬奴の曰、彼處の谷間に酒の湧所あれば、歸路に及んで日々斯のごとしと、主の曰是虚談ならん賞ならば我を同道し案内せよと、これに依て馬奴あるしを同伴し 此井に來るに實に如なり、殊更美酒なりければ 彼あるじ不圖貪欲のこゝろ生じ、汲取て人に賈ばやと大いなる器を持來りて汲取りしかば、井中の酒忽爾として水となれり 奇異といふべ、しかしてより以來る酒井と名づけ名水とい弘傅ふ、哺み試賜へといふにぞ、予をはじめ瀾閣幡里の兩人も井筒の側に立寄、水を七口に含こゝろみるに甘みありて 冷かなる事氷の如し、化粧側鐵なれども、外のみ赤く錆で水中鮮に底まで能見ゆ實に名水と賞すべし、」
との、目黒千代が崎の「絶景観」と呼ばれた松平主殿頭の抱屋敷を、同所の庭奉行を勤める旧知の宮塚親子を頼って訪れた際の紀行記である。
R■十三番 字白金口
- 「L■錢瓶窪口」参照
L■十四番 天窪口
【追記】2001/09/27
・明治10年当時、白金口の下流に存在したことになっている分水口
明治20年に内務省が作成した「東京五千分壱実測図」中4幀の1を見ると、三田用水路が、今の目黒駅前で左折する場所のやや北方に「天久保」という字名が記載され(下図 赤傍線)、ここを、東西に横断する水路のようなものが描かれている(同 青線)。
・明治10年当時、白金口の下流に存在したことになっている分水口
明治20年に内務省が作成した「東京五千分壱実測図」中4幀の1を見ると、三田用水路が、今の目黒駅前で左折する場所のやや北方に「天久保」という字名が記載され(下図 赤傍線)、ここを、東西に横断する水路のようなものが描かれている(同 青線)。
この水路の場所は、渋谷川と目黒川の間の稜線部であり、自然の水源によるものとは考えられないうえ、西端が三田用水路に接続されているように描かれていることからみても、この水路が天窪口からの水路と考えてまず間違いなさそうである。
R■十五番 森ケ埼口
【追記】2001/09/27
・天窪口同様に、明治10年当時、天窪口よりも下流で、鳥烏久保口よりも上流に存在したこととされている分水である。
森ケ埼とは、江戸時代に播磨三日月藩森家の上屋敷のあった現目黒駅南東の半島状の台地以外には考えられない(上図 青下線)。
しかも、この森ケ埼台地の東縁には、鳥烏久保口からの分水があったのであるから、この森ケ埼周辺を灌漑するための分水を設けるとすれば西縁しか考えられないし、この谷地の下端部には、上大崎の溜井新田ひいては灌漑用の溜池があったのだから、規模は小さいとしても、この西縁の谷地には自然河川があって、狭小とはいえ水田を灌漑していたと思われるので、江戸末期ないし明治初期に新たに分水口が設けられたとしても不自然なことではない。
しかし、残念ながら、天窪分水を見つけるのに役立った、内務省図は、その作成時点ではすでに、日本鉄道品川線(現・山の手線)が開通した後であるため、この谷地の大半は切通状に開鑿されてしまっていて、水路の存在は確認できない。
この点では、迅速測図についても、手持ちの「内藤新宿」図は、明治30年修正図なので同様なので、関東平野迅速測図 / 農業土地利用変遷マップ (affrc.go.jp) の「切り取りアプリ」で、当地のフランス式彩色図を取得してみたところ…
森ケ埼の西縁に、いかにも自然河川らしい地形が存在していたことがわかった。
おそらく、森ケ埼口からの分水は、この谷頭部に接続されていたのだろう。
【追記】20230704
字、森ヶ崎 ニ七八ー三三二番地(目黒驛の南三田用水路以南の高台にて西より南に鐡道山の手線あり東は池の谷及び鳥(→烏)久保の窪地となれり)評価 最高七〇圓、最低四七圓 内譯(一)二八〇ー二八九 二八七ー二九五番地(西北部の鐡道線路線路寄の處)五〇ー五五圓(二)二九六ー三〇九番地(南部花房家所有)平均四七圓内外(三)三一〇ー三三一番地(北部徳川家所有)六〇ー七〇圓(四)其他は鐵道敷地なり。
とあった。
結局、ここ字森ケ埼の台地上は、目黒駅近くは市街地、その他はあらかた名家の屋敷地なので、森が埼分水が流れていた西寄り低地は当時鉄道敷地になっていたことになる。
R■鳥烏久保口
R■十六番 字鳥烏久保口
【参照】
上大崎村の溜井(池)新田
R■妙圓寺脇口
R■拾七番 字妙圓寺口
【参照】
三田用水の「仮称:白金の折り返し」の変遷https://mitaditch.blogspot.com/2021/10/blog-post.html
L■久留嶋上口
R■久留嶋上口
L■拾八番 字今里口
―
L■拾九番 字品川口
0 件のコメント:
コメントを投稿