2020年6月25日木曜日

【余録?】馬越恭平の茶室「目黒茶寮」

■藤原銀次郎の…

茶室「暁雲庵」の(やや誤爆ながらも)発見
https://mitaditch.blogspot.com/2018/01/blog-post.html
(なお、https://mitaditch.blogspot.com/2017/06/blog-post.html 末尾参照)
に気をよくして、むしろ、三田用水がらみとしては本筋の…

三田用水の水を引水し、当初の明治期はビールの醸造用水に、昭和後半にはビール輸送用の箱の洗浄に使っていたといわれる、(大)日本麦酒(現・サッポロビール)の代表者で、藤原とは同じ三井出身者であり、かつ、茶(道具)敵だったとも言われる馬越恭平が、会社の敷地内に設けた茶室「目黒茶寮」について、かねてから調べてみたいとは思っていた。

■大日本麦酒の…

工場内となると、たとえば、その蹲踞や池などに三田用水ひいては多摩川の水を使っていた可能性が否定できないからであるが、藤原の「晩暁庵」と同様に、極めて情報が乏しかったのである。

■しかし…

たまたま、数年前、挟んであったレシートによれば2017年5月6日に、わずか300円で下北沢の古書店で入手していた

大塚榮三「馬越恭平翁傳」(大日本麥酒株式会社内)馬越恭平翁傳記編纂會/S10・刊〔以下「馬越傳」〕

を眺めていたら、その377ページ以下に目黒茶寮に関する記述があるのをみつけた(但し、以下の部分は、大塚ではなく「茶事篇」を担当したらしい高橋箒庵*が執筆)。

       目黒茶寮
 馬越翁は前記の如く、明治三十七年遼陽戰直前に、溝口家傅来の名物螢茶入を、最も幸運に捕獲せられたが、日露戰争が終了しても、更に其消息を洩らさぬので、世間も何時か忘れ果てゝ、之を噂する者さへなくなづた。一方馬越翁は、豫てより胸に一物ありしものゝ如く、明治四十年に至り、目黒大日本麥酒會社構内に、茶寮建設の場所を見立て、嘗て築地に居住せし頃、川上宗順宗匠が縄張りした、宗旦又隠寫しの茶室を、先づ此處に移し置き、翌年江戸千家宗匠大久保北隠を顧問として、露地前栽の造營に著手し、足掛五年を費して、明治四十五年に至りて竣工した其構造は麥酒會社の正門を入って直に右折し、雑木の間の延べ段を辿りて、頓て茶室に達すれば、例の舊茶室に、待合、水屋等を増設したもので、至って手狭き茶寮なれど、麥酒會社の大貯水池に接續する空地が、頗る廣闊なのを利用して、最も力を築庭に傾け樫の大木を中心として、其前に向島の舊佐竹邸より持ち來りたる、大橋杭の洗手鉢を据ゑ附け、樹蔭を傅はる筧の水は、洗手鉢に落ちて溢れて、忽ち一條の流れと爲る。其流れの中なる飛石二つ三つを跨ぎて、鉢前に達する趣向面白く、叉此流れの岸より、臥牛の如き大石を、茶室の軒下まで置き渡したるも平凡ならす。植ゑ込みを庵室に接近して、木の間隠れに、遠方の森林を散見せしむる趣向も、亦中々に風情あり、斯くて中立の際、庭前の流れに沿ひ飛石傅ひに植ゑ込みの間を潜り出づれば、東面一帯貯水池に接して、對岸に工場を望み、池邊の四阿に、籐椅子を並べて、之を中立の腰掛と爲したる、一種異様の工作は、都下に無類なる茶寮にて、何となく野趣を帯びた目黒田圃の仙境に、彼の光明赫耀たる螢茶入を飛び出させて、大に茶人の眼を驚かさんとする馬越翁の深謀遠慮は、後にぞ思ひ合はされたのである。

*高橋箒庵こと高橋義雄については

小山玲子「明治大正期における茶の湯と茶人 : 高橋箒庵と茶室の蒐集(論考)」比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要Vol.16 pp.89-117

に詳しい。

■残念ながら…

馬越の茶室については、巻頭の口絵に、確か本宅(麻布区北日ケ窪48)にあった「月窓庵」の写真はあるものの、この「目黒茶寮」のそれはないのだが、上記の高橋の記述から、位置や外観をある程度は推定することができる。

・位置は

麥酒會社の正門を入って直に右折し、雑木の間の延べ段を辿りて、頓て茶室に達す(る)

とされているので、下の写真の左上のハイライトした地域かと想像される。


濵田徳太郎・編「大日本麥酒株式會社三十年史」同社/S11・刊〔以下「30年史」〕
 口絵「目黒工場」より












【補記】
M42測1/10000地形図「三田」の画像が入手できたので、この地形図に基づいて目黒茶寮の位置を再度検討してみた。

前記の、高橋箒庵「目黒茶寮」によれば

  • 明治四十年に至り、目黒大日本麥酒會社構内に、…嘗て築地に居住せし頃、川上宗順宗匠が縄張りした、宗旦又隠寫しの茶室を、先づ此處に移し置き、
  • 翌年…露地前栽の造營に著手し…明治四十五年に至りて竣工した

とあるので、茶室本体は、この地形図に反映されていると考えられたからである。


前掲・高橋によれば
麥酒會社の正門を入って直に右折し、雑木の間の延べ段を辿りて、頓て茶室に達す
とされ、

【参照】


サッポロビール株式会社社史編纂室・編「サッポロビール120年史」同社/H08・刊〔以下「120年史」〕p.145
「図2-3」の、明治22年の日本麦酒創業当時のものと思われる「工場建物配置概略図


を見ると、工場の正門は、敷地の北東隅、上記地図の赤矢印のあたりにあったことになるので、そこから「直ちに右折し」た先の赤丸の建物が、目黒茶寮と考えられる。

なお、当初は「中立の際、庭前の流れに沿ひ飛石傅ひに植ゑ込みの間を潜り出づれば、東面一帯貯水池に接して、對岸に工場を望み、」とあるので、方角を重視して地図の貯水池〔三田用水の水を引き込んだ「第2貯水池」〕西の黄色四角で囲った建物かとも考えたが、この建物は、位置、方角から見て、工場構内に建築された、「ビアホール」というか、今風にいえば「ビアレストラン」である「開盛邸」(M43-T10ころ)〔120年史pp.163〕とみるべきなのだろう。

120年史「第2篇」口絵写真の「開盛邸」

(写真の開盛邸は、当初M36に、工場敷地西端の日本鐡道品川線〔現。JR山の手線〕近くに建築されたものを、工場改装の際に設けた貯水池の完成時、貯水池西北のこの場所に規模を拡大して再築したものという。
 折しも、M34に、日本鐵道品川線にヱビスビール出荷のための貨物駅として設置された恵比寿駅は、M39に旅客営業を開始しており〔地形図黄色矢印〕、利用者の来訪の利便性が向上してより多くの集客が見込めただろうし、広大な貯水池越しに見える近代的な工場は会社にとって格好のPR手段と考えられたのだろう。)

 また、工場にとって、材料の搬入、製品の出荷についての、陸運の主要ルートは、渋谷川に、同社が、自費で、明治29年に木橋で、同32年にはレンガ積みで架けられた恵比寿橋(地図上端右、橙色矢印)


 

だったのだから〔120年史pp.163〕、恵比寿橋に直結する敷地東北の位置が、正門と考えてよいと思われる。


【追記】

 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の写真データベースに

明治末期の日本麦酒の正門の写真があった

この門と、他の裏門などを取り違える可能性はまずなさそうである。


余談ながら、開盛邸南西の神社記号は、いわば社社である、恵比壽神社。


・意匠は


宗旦又隠〔ユウイン〕寫し

とあることから、

そのオリジナルの又隠
http://www.urasenke.or.jp/textc/chashitu/yuin.html
https://www.token.co.jp/apartment/chashitu/yu_in/ (図面、しかも「起絵図」まである!)
を踏襲したものだったと考えられる。

このオリジナルの又隠寫しの写真から判断する限りではあるが、藤原銀次郎の「暁雲庵」、あるいは馬越自身の「月窓庵」と較べ、より草庵風の茶室だったのではないかと思われる。

【追記】

目黒茶寮のそれではないが、
高橋箒庵「東都茶会記 第一輯 上巻」口絵https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183129/9
に「千宗旦好叉隠茶席 安田松翁邸二アリ」と題した写真があった



















■なお…

この目黒茶寮、以下のように、明治45年以降、馬越のいわばご自慢の「名物螢茶入*


に、螢の解説がある。
「底廻りに光沢のある朱色の水釉が掛るところからこの名がある。」由

*馬越没後の消息が気になっていたのだが、現在は、畠山記念館が所蔵している由ことがわかった。

 松田延夫「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」里文出版/H14・刊 p.155

 
【追記】
面白いことに、これ
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014874/207
も「螢」の茶入れとされている。こちらは、鴻池男爵家蔵。

を披露する茶会が、毎年6月に年中行事のように催されたという。
  Ex. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183748/41 T12
             https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183129/94 M45?

*名物といわれる、茶入の壺の多くは「肩」の部分が張った形のものが多いようだが、この「螢」は、いわば「なで肩」の、さりげなく優しい形をしていながら、いわば「力」というかオーラがある。馬越が「どうしても手に入れたかった」気持ちがわかるような気もする。

          螢茶入披露會
馬越翁が五十年間に開催した數十回の茶會中に於て、場所と云ひ、茶室と云ひ、趣向と云ぴ、道具組と云ひ、抜群の大出來と謂ふべきは、明治四十五年六月、目黒茶寮にて行はれた螢茶入披露會であらう。試に思へ、時候も初夏の六月初旬、所は名におふ目黒田圃、新緑蔭深き茶寮の中に、名物螢茶入が飛び出したと云ふのは何と無類の趣向ではあるまいしか。而して其道具組合は、床に河村家傅來、一風紫印金表具の檀芝瑞筆墨竹寧一山讃の一軸を懸けられたが、其讃は
  緑映輕煙外 根深古石傍
  一葉斜興曲 多福費諭量
とあり 、宗全の風呂には、蘆屋眞形竹地紋の釜を掛け、其他一座の飾附は左の如し、
花入 青磁遊環、花沙羅
水指 南蠻縄簾
茶杓 遠州作銘亂曲
茶碗 河村蕎麥銘残月 *

薄茶茶碗 一入黒銘曙
以上道具組合を見れば、何れも、茶題に適せざる者なし。
〈以下の筆者による「茶会記」中略〉
斯て此茶合の好評嘖々たりしに依り、馬越翁も感ずる所あり、爾後毎年六月頃、目黒茶寮に一會を催し、諸他の道具は悉く取替へ、螢茶入れのみを連用したれば、茶人は大に之を樂しみ、恰も年中行事と看做して、年々初夏の頃に至れば、目黒田圃に未だ螢が飛び出さぬかかと云ふ者さへあつた。


* https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014994/252
  https://turuta.jp/story/archives/18493

【参考】

馬越のその他の茶室。護国寺内の
                                     


-未完-

0 件のコメント:

コメントを投稿