■「上水記」の…
画像データが公開されている
https://mitaditch.blogspot.com/p/blog-page_21.html
東京都水道歴史館の、デジタル・アーカイブ
https://www.ro-da.jp/suidorekishida
■その中に
玉川・神田両上水平面図
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/content/detail/K0268
の解説によれば「明治12年~明治22年(1879~1889)か」とあるが、図中の「海軍省分水」
分水は遅くも明治13年に分水口が完成している*ので、それ以降の姿である。
*東京都公文書館・蔵
往復録・乙号 〈土木課〉明治13年1月ヨリ6月マテ
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail/23150?smode=1&tsNo=1&lbc=-1&p=-1
中
海軍兵器局へ上水分水圦樋竣工の通知案
https://www.archives.metro.tokyo.lg.jp/detail/410322?smode=1&tsNo=1&lbc=-1&p=-1
参照
があった。
■この図は…
右3分の2ほど(但し、南が上)が、いわゆる書き起こしで
主として江戸後期に行われたらしい、玉川上水からの分水の余剰分を元に戻す帰流路*が詳細に描かれ
*玉川上水における帰流については
小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団=玉川上水と分水の会/ 2012・刊
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2011/12/G193.pdf
pp.12(なお、同ページ註6参照),45,84
同 「玉川上水の分水の沿革と概要」とうきゅう環境財団/2014・刊
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf
pp.32,34-37,54
などに詳しい。
左3分の1ほどは
明治12年1月出版
東京府蔵版
相良常雄製圖
北畠茂兵衛發兌
なる既成の地図(p.39の奥付参照)に、開渠を実線、暗渠を点線で示している
(この元図は、これ
東京全図|所蔵地図データベース (nichibun.ac.jp)
らしい。)
が、これらに、各所に水の流速、単位時間当たりの水量が詳細に赤字で注記されている(p.2
の全体図がわかりやすい)。
これらの、記載内容からみて、この図は、玉川・神田両上水の管理用に明治初期に東京府が作成したものと、想像される。
■しかも…
タイトルと違って、この図には、千川上水や三田用水も描かれているので、当ブログにとっても大変有用なのである。
もっとも、三田用水の主水路の位置が、明治以降に大幅に変更されたのは、今の玉川通りから駒沢通りの槍ヶ崎交差点あたりまでなので、先の既成図の図郭外なのが残念なところ。
しかし、現目黒通り(旧・永峯往還)の旧白金御用地向かいの妙圓寺前の江戸時代から暗渠になっていた水路については、昭和59年の地籍測量図によれば、まさに目黒通りの中央が水路敷にあたるようなのだが、この図では、目黒通りの前身の永峯往還よりやら南を通っている。
これが、単なる道路の拡張だけによるものなのか、あるいは、水路の位置に変更があったものなのかは、この屈曲部と下流側の水路との接続点に変化があるように見えることもあって、解明を要する。
【参考】
江戸名所図会「白銀妙見堂」
地図のとおりだとすると、往還から町屋一列おいた南に水路があることになる境内入口がすでに一段下がっているので懸樋か伏樋(逆サイフォン)が必要になるだろう
【追記】
三田用水研究: 三田用水の仮称「白金の折り返し」の変遷 (mitaditch.blogspot.com)
に、いわばこの続篇を掲載した。
■もう一つの…
収穫は、白金分水(錢甕窪左岸分水)路についてである。
これは、東京府の追記部分ではなく、ベースの地図中の記載事項であるが、pp.24,27,31に、この分水路についてだけは明瞭に描かれてる。
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