2021年11月23日火曜日

三田用水取水口の弁天堂由来

■かつて…

笹塚駅近く、世田谷区北沢5丁目の、三田用水の玉川上水からの取水圦のところに、弁天堂があった。

三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S53・刊(以下「江戸三田」)
p.78〔下〕

■この弁天堂の…

由来については、当ブログの…

三田用水研究: 天保4(1832)年の三田用水分水口と、その後の変遷 

の、

●昭和16(1941)年

のところに

これは、水路自体にかかわることではないが、皇紀2600年のこの年、三田用水普通水利組合が設立50年を迎えて、取水圦敷地の南端近くに鉄筋コンクリート製の弁天堂を建立した*7

もっとも、同地に弁天を祀ったのは、昭和圦の工事の際に地中の巣から大量に現れたヘビの供養のためとのことなのだから*8、工事が行われた昭和初期から10数年も放っておくとは思えず、おそらく工事の直後に小さな堂を建ててあったのではないかと想像しているのだが、そうだとすると、先の水量監視用のプールにかかっていた太鼓橋はやや大げさすぎ、そちらも、昭和16年の堂と同じコンクリート製なので、これと同時に架けられたものなかろうか。

*7 「江戸三田」pp.71-72

*8 「江戸三田」p.72

と書いたのだが、どうやらこれは、ある程度は当たっていたように思われる。

■ 先日…

ネットオークションに出品されていた

地図 昭和22年 三千分の⼀ 代々⽊/ 1/3000 東京都 渋⾕区 昭和8年測図
なる地図(いわゆる「帝都地形図」と同系統の地図と思われる)の画像について、

書誌部分によれば、「昭和八年五月測図、昭和二十二年補修」とあるのだが、三田用水の取水圦の部分の画像は、以下のようなものであった


■つまり…

この図によれば、
・左上の取水圦から、少し南東方向に広場が描かれ
・その平地の南東から、三田用水路が開渠として描かれ
ており、さらに
・取水圦から開渠とを結ぶ延長線の少し北側に小さな四角形で建物が描かれ
・その建物の脇に鳥居マークが描かれ
ている。

■ところで…

東京都公文書館・蔵の「三田用水及火薬庫分水取入口改造圖ノ一」T15を見ると




取水口から12尺(約3.6m)から下流は開渠になっているようであり、したがって水路の位置に弁天堂を建てるこことは難しい。

■それに対し…

冒頭の写真の弁天堂は、昭和54年の測量図によれば、暗渠化された水路の直上にあることになる。

「三田用水普通水利組合所有地地籍測量図」(S59)第①図抜粋

■つまり…

この地形図は、書誌にある、地図の「補修」時点である昭和22年の状態を反映したものとは考えにくい。

 なぜなら、
  • この取水圦から、渋谷区恵比寿の大日本麦酒の工場までの水路は、遅くも昭和10年代の前半には、全てコンクリート製のヒューム管によって暗渠化されている
  • 鳥居マークが付されている建物は弁天堂と考えられるが、冒頭の写真のとおり、昭和16年以降は(「江戸三田」p.74-75)、弁天堂は水路上に設けられている
からである。

■したがって…

この地形図は、昭和8年当時の、三田用水の取水圦の状況を示していることになる。

 ところで、「江戸三田」を改めて読み込んでみたところ、以下のような記述が見つかった。

弁天堂碑由来と五十周年記念碑

弁天堂の前には、建立の縁起を刻んだ石碑が、組合によって建てられている。但し、現在は大きく欠損しており、碑銘を直接判読することはできないが'組合に保存されている資料によると、左のようなものである。

(表 面)
昭和四年十一月十五日
笹塚弁財天嗣堂建立之碑
三田用水普通水利組合
(裏 面)
此地古来弁財天嗣宇経歳月朽廃矣為今上陛下御即位大礼記念本組合決議嗣堂建立本年四月起工茲告竣成為材用鉄筋混凝土錐規模不大堅牢無比足以伝干永久乎
                         春翠野頼政博書
三田用水普通水利組合管理〔以下略〕
  (「江戸三田」pp.72-73)

「江戸三田」p.72

■結局…
  • 昭和4年に、工事中に出現したヘビの供養のために、水路敷の北に接して、コンクリート製の弁天堂が建立され*
  • 昭和16年になって、皇紀2600年(=1940年=組合結成50年=昭和15年)を記念し、新たな弁天堂を再築した**
のだろう。

*昭和7年の組合の予算書中、歳出経常部に「水衛所並二弁天堂其他修繕費」が計上されている。(「江戸三田」p.171)

**

  • 先の「帝都地形図」によれば、昭和16年当時の弁天堂は、開水路上となるため。昭和4年には建立不可能。 
  • また、「江戸三田」p.78 〔下〕の写真にキャプションに「弁天堂…組合設立50周年記念に建立」と書かれている。

■この…

「弁天」については…

組合が昭和五十九年九月清算結了後、品川区西五反田天台宗徳蔵寺に安置することになり」(「江戸三田」p.72)とされ

 また、一説(原典忘却)には、記念碑についても同寺に移されたとも言われている。

 しかし、藤井正雄*「玉川上水と三田用水」(法曹vol.602〔H12.12〕pp.2-8)によれば、

…笹塚取水口付近には、弁天像を祭った弁天堂と、その建立の縁起を刻んだ石碑『笹塚弁財天祠堂建立之碑』が組合によっれ建てられたという記録が残っている。この弁天堂は、三田用水の取水口が関東大震災で破壊されあと、改修工事を行った際に、地中の蛇の巣を掘り起こしたので、蛇の供養のために建立したものだということであるが、組合の清算結了後にこれらは取り除かれており、今は往時の写真を残すのみである。ただ、本尊の弁天像は、組合の事務所のあったところに近い五反田の天台宗徳蔵寺に移されて安置されている。しかし、石碑の行方は徳蔵寺の住職もご存じないとのことであった。」(pp.7-8)
とのことである。

*筆者は、執筆当時最高裁判事。三田用水について、かつて「法人清算事件として関りを持った」というので、一時期、東京地裁判事の当時、組合の清算手続きを監督する立場にあったのだろう。

■なお…

「郷土目黒」(目黒区郷土研究会*)Vol.41〔H09〕 pp.6-7「《小特集 目黒の川と用水》三田用水(昭和45年9月)―笹塚から目黒へ―」中に「取水口近くの笹塚弁財天堂」と題されたサッポロビール提供の写真がある。
*2013年,残念ながら閉会の由。https://ameblo.jp/rie-kamoshida/entry-11608601847.html  

もっとも、筆者の見る限り、この種の「郷土史研究団体」の通例として、最後は、その会報に「同じ人が」「同じような中身」を毎回書き続けるというパターンが、「郷土目黒」を見る限りでは続いていたので「ああ、やっぱり」という以上の感想は持ちようがなかったのは確かなのである。

今のインターネット時代、かなりの情報が、国会図書館、国立のそれをはじめ各地の公文書館、ciniiを始め学術的なデータベースを通じて、少なくとも「モノを調べる」初期段階では、他人と「群れて」その「ご教示」いただく必要など毛頭ない時代になっているのだし、その結果の発信についても、会報みたいな印刷物にする必要は毛頭なく、各人が、ブログなどを通じて臨機に世に問うことができるのだから、そのような時世に対応できなければ、消滅しても当然といってよいのである。

加藤嶺夫「東京 消えた街角」河出書房新社/1999・刊 のp.126に「三田用水」と題して、昭和43年10月20日撮影の、取水圦下流の太鼓橋の写真がある。


【余談】

「江戸三田」掲載の石碑の写真には不可解なことが多い。

・弁天祠建立記念碑(p.72)

 画像を見ると、白っぽい石にかなり多くの文字が彫り付けられているように見える。

 上部に、2×2の組文字で「??記念」と読める、いわばタイトルにあたる組文字があるので、これが「表面」と思われるが、全く、文字数が合わない。
 かりにこれが「裏面」としても、引用した碑文の後に多くの関係者の名前があるが、それにしても、文字数が多い。

 あるいは、「江戸三田」掲載のいわば予定原稿から、実際には意匠を変更し、タイトルの組文字 を追加し、予定されたていた表裏の碑文を全部表面に刻んだのかもしれない。

・五十周年記念碑(p.78)

 このページには、下部に、先に掲げた太鼓橋の奥に弁天堂が写っている写真と、上部に組合結成五十周年記念行事の参加者の集合写真が掲載されている。

 しかし、この2枚に写り込んでいる、五十周年記念碑は、石碑の形も表面の文字も、集合写真では「組合結成」の4文字が2×2の組文字であるのに対し、もう一方は素直に縦書きされている模様だし、さらには設置方向も異なっている(加えて、後列右から4,5人目の人物の奥に頂部の尖った石碑が見えている。)。











 集合写真の方の石碑とくに基台部分の輪郭が不自然なので、おそらくは、大型乾板からの印画紙への密着焼きのレベルでの合成かとは思われるが、石碑の表面の

 皇紀二千六百年
 組合結成 五十周年記念碑
 三田用水普通水利組合

との文字は明白に読み取れる。

 CGの無いこの時代、合成用のこの碑の画像をどうやって作ったのだろうか。

【付記】

渡部一二「武蔵野の水路」東海大学出版会/2004・刊 の
p.174の写真④(昭和54年3月撮影)
によれば、

この記念碑は、昭和20年5月末の、いわゆる「山の手空襲」によって、碑の左右それぞれ3分の1と頂部が失われたらしい姿で、碑の方角は「江戸三田」のどちらの写真とも整合していないが、先の郷土目黒の昭和41年の写真によれば、碑は堂から数メートル西南西方向に南面して立っているようで、この渡部p.174の写真④と合致している

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