2021年7月3日土曜日

錦絵「角谷製綿工場之眞景」

■定期的に…

送られて来る古書市の目録に、標記の版画による錦絵が掲載されていた。

 絵柄自体は、渋谷区の刊行物や都の公文書館のデジタル・アーカイブで見知ってはいたものの、やはり、三田用水、それも鉢山口の分水口や、鉢山分水の最上流部にあった角谷製綿工場の水車が描かれているとなると「捨て置けない」ので、速攻で発注しておいた。

 幸い、他に発注者がいなかったのか、抽選に当たったのかは不明だが、先ほど届いた。

(とはいえ、当方が発注するのはニッチなものが多いせいか、いままで、この古書市で入手できなかったことはない)

【以下、解題は順次追記】

■まずは…

全景


■左下隅の

角谷製綿工場の水車
上懸け水車は、水を高い位置から落とすうえ、
水車にとって抵抗となる下部の水が無いか少ないため、水力を効率的に利用できる

鈴木芳行「近代東京の水車」1992/現=東急財団・刊*〔以下「水車台帳」〕 pp.425-426

 三田用水路東の急傾斜地を活かして、水輪越しにその頂部から水を懸ける「上懸水車」であることがわかる。
 絵のように、ここは角谷和市が経営する角谷製綿工場として綿打ちに使用されていたが、その当時は永田熊吉が所有していた。なお、角谷は、大正2年に廃業するまで、鉢山分水の下流部の中澁谷138番地に精穀用の水車を所有していた(前掲・水車台帳p.279#629)。

 
■右下…

鉢山分水の取水圦とも思われる部分
開渠で分水というのは、三田用水関係の江戸期の史料との不整合がある
*
明治期になって、正規の分水のほかに、製綿所の雑用水など特定の用途のために設けられた可能性がある
原料の綿花や打直し用の綿を洗ったり、とくに、第2工場には蒸気機関があるので、水は必須である。

*品川町役場「品川町史・中巻」同町役場/S07・刊p.489記載の、寛政9年の更新時の「仕様書」によれば、三田用水からの分水圦は、鉢山口を含め、全て、下図のような仕様となっている。


また、駒場東大北の山手通り沿いの、渋谷区松濤2丁目22にある、昭和初期に函渠に改修されたときに設けられたと思われる、三田用水の神山口も、上記の鉢山口同様の上部が塞がった箱樋をコンクリート化しただけで、同等の構造となっている*

【追記】

東京都渋谷区区白根記念郷土文化館・編「渋谷の水車業史」(同区教育委員会/S61・刊)
p.70 「特色のあった水車」中「製綿/角谷水車」

に引用されている「『渋谷郷土特報』第49号(昭和47年3月1日発行)所載の「日々是好日」(会長・角谷輔清*氏稿)」(p.14)には

 明治25年1月25日、この日がわたしの誕生日。区内の渋谷小学校を明治32(1899)年に卒業した。おやじの角谷和市は愛知県三河国の出身。朝倉虎治郎**さんと同郷、年令は朝倉さんより11か12年上であった。

 私の子供の頃には、すでに角谷家の事業である製綿工場が繁昌していた。家のすぐ前を流れる三田用水を利用して水車をかけて綿を製造するのであった。わたしはこの用水で泳いだことを覚えている。毎日のように馬車で綿花を運んできて、これを原料に工場で木綿わたをつくる。

 ぐるぐる回る水車の大きさは、直径2間(3.6m)、三田用水を樋で流し、水車はいつもよく回っていた。それだけで三馬力位の動力は得られた筈なのに、蒸気も使った。工場で働く人は男女で大体10數人、多くは地方出の人ばかりで、毎日よく働いてくれた。

 …この人たちが、毎年7月のお盆休みと正月休みには、それぞれ自分の田舎へ帰る。そのときみやげに持って帰る江戸名所の「にしき絵」―江戸から東京になっても立派な「にしき絵」が沢山つくられてあった―そのうちの「角谷製綿工場真景」というのを、後年、大正時代に渋谷のローカル紙「東京朝報」をやっていた有田肇君が、おやじの処へもってきたのがある。東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷と大きく書いてあるから、明治30年頃にできた絵であろう。

* 元・渋谷区議/区会議長/区長(S28-36)

** 元・渋谷村/町/区議/区会議長/東京市議/府会議長

とある。 

 今見ると、どうしても水車に目が行くが、当時、郷里にこの絵を持ち帰った製綿工場の従業員にとっては、高い煙突のある蒸気機関を備える近代的な工場で働いていることの方が「ご自慢」だったのだろう。 

【追々記】

前掲「水車台帳」p.279 によれば、角谷製綿工場の経営者である角谷和市(T05当時の住所地:渋谷町下澁谷744番地)は、明治末期(推定)から大正05年の廃止まで

渋谷町中澁谷138番地に精穀用水車(俗称:鶯谷水車)を所有していた(#629。なお、#665、#542参照)


青線が三田用水鉢山分水
「#…」は「水車台帳」の通番

【追記】

M42測 1/10000地形図 世田谷〔抜粋〕





もっとも、前記のT02年に角谷和市は、水車の利用は廃止したものの、製綿業自体を廃業したわけではなさそうで、

東京交通社「大日本職業別明細図・渋谷区」S08/06・刊によれば、甲州街道沿いの幡ヶ谷・笹塚間に「角谷製綿所」があったことがわかる。









*この「笹塚の角谷製綿所」については、コメント欄参照


8 件のコメント:

  1. ”角谷 製綿工場”で検索し、本ブログ大変拝見いたしました。角谷輔清は祖父、和市は曾祖父にあたります。幡ヶ谷・笹塚間に「角谷製綿所」は初耳で大変興味がございます。

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  2. MaMiMu さま

    東京都渋谷区立白根記念郷土文化館・編「渋谷の水車業史」同区教育委員会/S61
    「特色のあった水車」の章「製綿 角谷の水車」の項(P.70)に
    『渋谷郷土特報』第49号(昭和47年3月1日発行)
    【渋谷区立中央図書館〔開架〕請求番号/S10//資料コード0118493345】
    所載の
    「日々之好日」(会長・角谷輔清氏稿)
    半ページにわたって転載されておりまず。

     なお、笹塚の角谷製綿所。国会図書館で全文検索可能になったので、検索しましたら
    東京市商工課・編「東京市工場要覧 大正14年11月現在」柳原印刷所/T13-15・刊
    のP.11
    https://dl.ndl.go.jp/pid/958768/1/16
    では
    「綿 角谷製綿所 角谷廣吉 同(豊多摩)郡代々幡町一〇〇九
     設立 大正九年四月 職工数 男四 女一 計五」
    とされており、
    ・錦絵とは、職工数について落差が大きすぎること
    ・大正5年の1/10000地形図ではすでに製綿工場は消滅していること
    から、笹塚のは、全く別の「角谷製綿所」の可能性が高いようです。

    貴重なコメントありがとうございました。

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    1. 農商務省商工局工務課・編「工場通覧 2冊 明治42年12月末日現在」日本工業協会/M42,44・刊 p.228
      https://dl.ndl.go.jp/pid/802718/1/155

      によれば、
      角谷和市さんの工場は、角谷古綿製綿工場 豊多摩郡中渋谷 M28.1創業
      角谷廣吉さんの工場は、佐竹分工場 荏原郡世田谷村代田 M32.8創業
      共に水車を動力とする古綿打直し業となっています。

      同書によれば、角谷製綿工場に蒸気動力を示す「汽」の符号がないので、錦絵にある蒸気動力の導入はM43以降ということになるのですが、M42測量図(本文に追加しておきます)には、錦絵の規模の製綿工場が描かれていますので、M42に第2工場を建築しM43から稼働した(従って、煙突の煙からみて、錦絵が描かれたのもM43以降)ということになるようです。

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  3. KimuTaka様

    詳細のご説明大変感謝いたします。
    記載いただいている図書は早速渋谷区図書館で予約しました。

    国会図書館の資料、ありがとうございます。角谷廣吉は同姓ですが、親族でないと判断します。同資料、和市の水車2.4馬力と祖父輔清の文章の“三馬力位”はほぼ同数ですね。

    狩野章信 錦絵「角谷製綿工場之眞景」は工員が故郷に帰る際におみやげに買って帰ったものなのですね。以前からずっとこの錦絵が欲しいと思い渡邊木版美術画舗に問い合わせましたが、在庫は無いとの返事でした。
    https://www.hangasw.com/

    こちら55,000円で販売している様ですが、高いので躊躇しております。
    https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=375766651
    ブログ内に掲載の錦絵はどちらかでご購入されたものでしょうか。

    肝心な水車(#629)の場所ですが、人に説明する場合は、
    ・マダム・トキ付近
    https://www.madame-toki.com/
    ・西郷橋付近
    https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/9207a146058c441ccd82d7a2f7484558213b0485
     と説明しようと思っています。

    現在、角谷家の歴史を調べており、本ブログ、内容が深く詳細で素晴らしいと感じています。引用は記載いたしますので、資料やソース元として活用させていただいてよろしいでしょうか?厚かましいお願いですが、どうぞよろしくお願い致します。

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    1. mamimuさまのお役に立てたようで何よりです

      確かに、55,000円はかなり値がはりますね。当方の入手先は、
      https://kosho-chuousenshibu.jimdofree.com/%E8%A5%BF%E9%83%A8%E5%8F%A4%E6%9B%B8%E4%BC%9A%E9%A4%A8%E3%81%AE%E5%8F%A4%E6%9B%B8%E5%B1%95/
      中にある、2月ほどごとに定期的に開催される「西部古書展」の出品目録(ファクスで送付申込可)で2年ほど前に見つけたものですが、確か、価格は5000円を超えてはいなかったと思います。すでにネット上にかなりの精細度の画像があったので、少々迷う金額だったのは覚えていますが、上懸水車の画像は写真も含めて希少なので手に入れました。

      引用については、あらかた、著作権切れの錦絵の画像でもあり、ご自由にご活用下さい。なお、出典として当ページをご注記いただければ嬉しいです。

      余談ですが、廣吉さんの方の水車。現・世田谷区の代田村にはかつて4基の水車があったのですが、
      https://daidarabotch.blogspot.com/2019/05/blog-post.html
      そのうち月村水車と呼ばれたものらしいことがわかりました(もっとも、M13 の迅速測図にあった水車記号が、M42の地形図では消えてますので、やはり、そのころ、蒸気動か電動になったようです)。

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    2. 参考URLありがとうございます。
      目当ての錦絵をゲットするには、相当根気が必要ですね。

      別ブログの水車ですが、
      水車の稼働は、
      ・そもそも水車の設置には、高額な費用がかかる
      ・水のコントロールなど相応のノウハウと技術が必要
      ・(水の供給が命である)周囲の耕地所有者に水量のコントロール能力があることを理解してもらえないと設置の許可が得られない
      ・周囲の信頼と資力が不可欠
      と理解しました。

      今後KimuTaka様のサイトの内容を引用の際は、出典元として“三田用水研究[https://mitaditch.blogspot.com/]を記載させていただきます。
      引き続きよろしくお願いいたします。

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    3. MaMiMuさま
      お説のとおり、見ようによっては北斎、廣重以上に希少なので、気長にお探しになることをお奨めします。
      それまでの「つなぎ」の意味で、著作権が消滅していることが明らかなので、手許の高精細(12M)画像を、
      google drive にアップロードしておきました。
      https://drive.google.com/file/d/1d37tnVsyYDGJ35igokkGzr194mpeNJLY/view
      個人的な興味では人物像で、最初閻魔大王の冠(ただし、色は白い)みたいな頭の人物は何かと思ったのですが、どうも女性の職工(従業員)さんで、日本髪の中に綿埃が入らないように、手ぬぐいより大き目の布を「姉さんかぶり」+「角かくし」みたいな感じで覆っているらしいと、思い至りました。

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    4. 水車用の水のコントロールについては…

      あるいは、別ブログ中の

      朝倉水車の水車堀の図面
      https://sarugakuduka.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

      がご参考なるかもしれません。

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