2021年10月16日土曜日

代々木上原のヒューム管水路の位置の「見立違い」判明

■このブログの…

三田用水研究: 三田用水の仮称「白金の折り返し」の変遷 (mitaditch.blogspot.com)

の末尾で少し触れたのだが、

三田用水の

・最終的な実際の水路の位置

・最終的な三田用水普通水利組合所有の水路敷の土地

とは、必ずしも一致していない。

■今のところ…

それが確認できているのは

・現在の防衛省の艦艇装備研究所の敷地内

ここは、明治12・3年、海軍火薬製造所の開設にあたって、それまでの開渠のS字型の水路を、埋樋(暗渠)と懸樋(水路橋)を使って直線的に改修している。

国立公文書館・蔵「火薬調製所建築に付水道変換の義主船局達」M12
前同の内「懸渡箱樋概圖」

  しかし、三田用水の組合所有の水路敷の土地の位置には変更がないままだったようである。

・旧山手通りの西郷橋南詰からデンマーク大使館南のヒルサイドテラスD棟前あたり


東京都公文書館・蔵 S08


ここは、大日本麦酒による用水路上流部の暗渠化に先だって、昭和初期の旧山手通りの拡幅にあたり、水路が、当初はU字溝によって、後にはヒューム管のよって通りの西縁の歩道下に敷設されているが、なぜか、水路敷地の位置に変更が生じていない。

一方、ヒルサイドテラスD棟南の猿楽分水あたりから目切坂上までにかけては、大正末に、当時は、朝倉家の所有地内、今のヒルサイドテラス敷地内にあった水路の敷地(これ自体は、青線、青〔道/路〕などとも呼ばれる、地番のない一種の公有地*)と、後の旧山手通りの歩道部分の土地とが交換されていて、こちらは地籍測量図にも反映されている。

*旧法定外公共物(旧里道・旧水路) : 財務局 (mof.go.jp) 

までなのだが…

もう一つ、その「候補地」と考えていた場所に

・渋谷区上原の旧駒場橋から二ツ橋までの区間


東京地図社/S37・刊











があった。

■この区間…

大山交差点あたりから三角橋を経て駒場橋

明治10年代の駒場橋(手前)と駒場農学校正門(奥右)













のあたりまでは、用水は、いわゆる駒場道の西南に沿って流下し、そこで、駒場道の北側にわたって

国立公文書館・蔵「甲州往還幡ヶ谷村より旧駒場原まで道取広」駒場橋(旧称「中ノ橋」)付近抜粋












二ツ橋あたりで、再び駒場道をわたってその南に流路を変えていた。


国立公文書館・蔵「学校門前道敷取広ノ件」M12
赤塗が駒場道の原型(いわゆる赤道・赤線)で、茶塗が拡幅予定部分
右下隅が駒場橋、左端中央が二ツ橋













三田用水は、昭和始めから10年代中頃までにかけて、用水を使用していた大日本麦酒株式会社(現・サッポロビール株式会社)が、工事費を全額負担して、それまでほとんどが開渠だった水路を、直径1m強のヒューム管*に変換しており、この場合、地中にコンクリート管を埋め込むのだから、当然、上流の駒場橋よりも下流の二ツ橋の方が標高が低いため、従前の水路の場所にこだわる必要はないわけで、より直線的な上図にある拡幅後の駒場道沿いのルートを選ぶ方が合理的と考えられた。

*ヒューム管について・ヒューム管とは - 全国ヒューム管協会 (hume-pipe.org)

 によれば、ヒューム管が我国で本格的に工業化されたのは、大正14年とのことであり、この三田用水路の暗渠化工事には、まさに当時最新鋭の資材が使われたことになる。

そのため、従前は、

Half Mile Project 

のように、駒場橋と二ツ橋間は、駒場道の南にヒューム管による水路があったのではないかと想像していたのである。

■しかし…

2019年3月、駒場あたりにお住いの光行さんから、ご近所の散歩の折に見つけられた、渋谷区上原2-29の旧いお家が解体された敷地の中から発掘されたばかりのヒューム管の写真をお送りいただいた。

2019年3月11日光行さん撮影


2019年3月13日光行さん撮影


【追記+告知】
こういった、それぞれの問題意識というか研究テーマとか興味に基づいて、サーベイしている方々(面識(小坂克信先生や梶山公子氏など)やこれまでのコミュニケーション(SoHonda氏など)の有無にかかわらず、勝手に「三田用水研究仲間」と呼ばせていただく)から、貴重というほかない情報をご提供いただけるのは、大変ありがたい。
情報というのは、単体ではほとんど場合「意味がない」「意味がなさそうな」ものが大半なので、ある程度の数が集まって意味がわかるのがほとんどで、アメリカのCIAとか旧ソ連のKGBなどの仕事が典型なのですが「無意味に見える情報」を集積することによって、場合によっては「とんでもない情報」が判明する、というのは、いわば「日常茶飯事」。
当方は、こういった流れや分析作業をを「情報の結晶化」と呼んでいるのですが、このブログ自体「三田用水研究仲間」の方々に「結晶化」させる「分子」をご提供する目的があります。
逆に、↑のような「お宝」情報は当然お報せいただきたいのすが、そんなそれ自体が意味のある情報に限らず、「意味がなさそうな」情報と思えても、是非コメント欄にお寄せください。
「結晶化」できるかどうかはわかりませんが、必ず、それに資しそうな何らかのフィードバックはさせていただく所存です。

下の対照用の写真からみてもサイズが一致しているようだし、

【対照用写真】

渋谷区富ヶ谷2-22 2008年9月6日撮影


同上。ここは、元々の水路敷の位置

 

【参考画像】
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 
の口絵に、渋谷区神泉町26-10(住居表示:神泉町21番1~3号あたり)に埋設されていたヒューム管の写真があった。
キャプションによれば、直径1mとある。




このような場所にこのようなものを埋設する理由もほかに考えられないので、昭和始めの暗渠化工事のときに埋設されたものと考えるほかなく、先の想像が「見立違い」だったことを確認することになった。


三田用水普通水利組合「三田用水普通水利組合所有地 地籍測量図」同組合/S59 第17図右葉抜粋を引用
⑤か⑥あたりが、ヒューム管「出土」の場所で、
この地域は、道路の南縁に沿って水路敷があったので、それと整合している
というより、水路北側の土手が後に道路になったと考える方が正しいのかもしれない


【追記】
全文検索が可能になった、国会図書館のデジタルライブラリで、三田用水を検索してみたら

の「日本ヒューム管株式会社」のページに、「東京府三田用水管使用 内径四八インチ」と題した写真が掲載されていた。

上記ページから抜粋+画像修正


記事によると、同社の鶴見工場の完成が大正14年とされており、三田用水組合というより工事費の全額を負担した大日本麦酒株式会社は、当時の国内最新鋭の資材を選択したといえる。



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