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實相寺山口の「實相寺」を探す
https://mitaditch.blogspot.com/2020/07/part-1.html
で、三田用水の實相寺山口の語源となっている、實相寺が、どうやら、今も港区三田4丁目12番15号にある、浄土宗京都東山知恩院末の實相寺らしい、というところまでは解明できた。
■当然…
次の、テーマは、「實相寺山はどこか」というところにあるのだが、これが非常に難しい。
というのは、この地域は、幕末期の幕府煙硝蔵の開設に始まる変化があまりに大きいからである。
とくに幕政期はともかく、明治12年ころから以降、この地に海軍の火薬製造所が設けられて以降明治末近くまで、地形自体に変化を及ぼす造成が行われたことが、主として国立公文書館蔵の同製造所の記録では明確なものの、「地形」を示す信頼できる地形図が明治末期までなかった(例外は、明治20年前後の内務省図だが、等高線は描かれていない)のがネックといえる。
どうやら、当地に「山」といえるような顕著な凸型の地があった様子はなく、おそらく、目黒川の方から見上げて、少し北方にあった「槍が先」のように、半島状に突出した場所を「…山」と呼んでいたのではないかと、想像はするものの、信頼できる等高線を示す地図がないと、それ以上の解明は難しい。
■一方…
實相寺山をとりあえず置いておいて、三田用水の「實相寺山口」とそこからの分水については、文書ながら幕末期の記録があり、明治初期の改修図面があり、以後も、地形図によれば水路の一部が海軍火薬製造所からの排水路に一部が使われた痕跡もあることから、まずは、こちらを優先して検討してみることにした。
■結論を…
先にいえば、この「實相寺山分水」は、幕末期に廃止して以後、正規の三田用水の分水としては復活することはなかったのであるが、当地の「水路」として、明治28年ころまでは、様々な形で残存・利用していたようで、とりあえず、現2020/08/25時点までに判明しているエポックを以下にリストアップしておき、順次、各項目について折に触れて補足してゆこうと思う。
■その原初型
手許の史料の中で、この「實相寺山口」が初めて登場するのは、
品川町史 中巻 のP.487 *
https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&pg=PP525#v=snippet&q=%E5%AE%9A%E7%9B%B8%E5%AF%BA%E5%B1%B1&f=false
*但し、Web上のタイトルは「・下巻,3巻」
また、分水名の標記は「定相寺山口」
以下の「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出来形帳」という、寛政9年11月に作成された、幕府がその費用(の一部)を負担して行われた、三田用水の大規模な改修工事の、会計報告書である。
同書のp.491によると、この分水口は
字別所上 口の下流
字錢瓶 口の上流
にあって
「箱樋帳貳間壱尺 内法横三尺/高二尺」
で
「分水樋 長壱間」*で、「内法四寸壱分貳厘四方」
であり、この種の水利施設では、1寸四方の水積を1坪と呼ぶので、この分水の水積は
16.9744坪であることになる。
*ここまでは、他の分水口も同寸
■幕府合薬製造所〔「砲薬製造所」「焔硝蔵」とも呼ばれる〕のための閉鎖
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1 下大崎村名主から代官所宛ての、「目黒村地内の祖父ヶ茶屋の野道より下のほうは小高い場所で用水を引くことができない 」*ので、火薬製造所敷地際の「石橋より二〇間程隔てて、三寸五分四方の分水口を新しく設置すれば、用水を引くことに支障はなくなる」と中目黒村の村役人から聴取した旨の報告(p.(12))
2 中目黒村・下目黒村両村から、(上記の分水口の新設に代えて)「実相寺山口の分水口の大きさを四寸一分二厘四方から三寸五分四方に縮小し、そこから従来の堀筋に水を引き込む」ようにしてほしいといった要望(p.(14))
東京都公文書館資料
■海軍火薬製造所の排水路としての利用(M20ころ)
内務省地理局「東京実測図 4幀ノ2」
■田道乙口末流としての利用?(M25)
小坂「日本の近代化を支えた多摩川の水」p.97
■火薬製造所による田地の買い上げ(M28)
小坂前掲p.97
■田道乙口(と銭噛窪口)からの分水を大日本麦酒が買収・引用
小坂前掲p.114
と、変遷が著しいので、図版を含めて、整理ができ次第追記予定。
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江戸東京博物館・蔵 茶屋坂上北北東、三田用水路北の丘陵から海軍火薬製造所を望んだ光景と思われる。 |