2020年8月25日火曜日

三田用水實相寺山口の変遷

■先の…
アーティクル
實相寺山口の「實相寺」を探す
https://mitaditch.blogspot.com/2020/07/part-1.html
で、三田用水の實相寺山口の語源となっている、實相寺が、どうやら、今も港区三田4丁目12番15号にある、浄土宗京都東山知恩院末の實相寺らしい、というところまでは解明できた。

■当然…
次の、テーマは、「實相寺山はどこか」というところにあるのだが、これが非常に難しい。
というのは、この地域は、幕末期の幕府煙硝蔵の開設に始まる変化があまりに大きいからである。
とくに幕政期はともかく、明治12年ころから以降、この地に海軍の火薬製造所が設けられて以降明治末近くまで、地形自体に変化を及ぼす造成が行われたことが、主として国立公文書館蔵の同製造所の記録では明確なものの、「地形」を示す信頼できる地形図が明治末期までなかった(例外は、明治20年前後の内務省図だが、等高線は描かれていない)のがネックといえる。
どうやら、当地に「山」といえるような顕著な凸型の地があった様子はなく、おそらく、目黒川の方から見上げて、少し北方にあった「槍が先」のように、半島状に突出した場所を「…山」と呼んでいたのではないかと、想像はするものの、信頼できる等高線を示す地図がないと、それ以上の解明は難しい。

■一方…

實相寺山をとりあえず置いておいて、三田用水の「實相寺山口」とそこからの分水については、文書ながら幕末期の記録があり、明治初期の改修図面があり、以後も、地形図によれば水路の一部が海軍火薬製造所からの排水路に一部が使われた痕跡もあることから、まずは、こちらを優先して検討してみることにした。

■結論を…

先にいえば、この「實相寺山分水」は、幕末期に廃止して以後、正規の三田用水の分水としては復活することはなかったのであるが、当地の「水路」として、明治28年ころまでは、様々な形で残存・利用していたようで、とりあえず、現2020/08/25時点までに判明しているエポックを以下にリストアップしておき、順次、各項目について折に触れて補足してゆこうと思う。

■その原初型

手許の史料の中で、この「實相寺山口」が初めて登場するのは、
品川町史 中巻 のP.487 *
https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&pg=PP525#v=snippet&q=%E5%AE%9A%E7%9B%B8%E5%AF%BA%E5%B1%B1&f=false

*但し、Web上のタイトルは「・下巻,3巻」
 また、分水名の標記は「定相寺山口」

以下の「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出来形帳」という、寛政9年11月に作成された、幕府がその費用(の一部)を負担して行われた、三田用水の大規模な改修工事の、会計報告書である。

同書のp.491によると、この分水口は
字別所上 口の下流
字錢瓶 口の上流
にあって
箱樋帳貳間壱尺 内法横三尺/高二尺

分水樋 長壱間*で、「内法四寸壱分貳厘四方
であり、この種の水利施設では、1寸四方の水積を1坪と呼ぶので、この分水の水積は
16.9744坪であることになる。

*ここまでは、他の分水口も同寸

■幕府合薬製造所〔「砲薬製造所」「焔硝蔵」とも呼ばれる〕のための閉鎖

根崎光男「安政期における目黒砲薬製造所の建設と地域社会」
『人間環境論集』(法政大学人間環境学会)第19巻第1号/2018年12月
http://doi.org/10.15002/00021908

p.(10)209-
によれば

 安政3(1856)年、幕府は「中目黒村地内の御立場山*あたりには砲薬製造用の水車を建設し、そして同所より…一軒茶屋**上の青山通りへの道あたりまでの四万坪を御用地とし、その場所に千駄ヶ谷焔硝蔵を移転させる」
ことを計画し(pp.(5)-(7))、

*御立場については
 中目黒の「雉御立場」
 参照
**茶屋坂上の、いわゆる「爺ケ茶屋」を指す
 上記リンクと
 三田用水の「田道甲口」(上手口)
 参照

 その折、
「三田用水路のうち三田村と中目黒村地内の字新富士より祖父ヶ茶屋までの間は用水路の水嵩も相応にあり、周囲の人家とも隔絶しており、砲薬製造用水車を建設するのに最適な場所であること、その地内の斜面(崖の片側だけが急斜面になっていることから 「片雪崩」
と表記される)に水車を建設し、また字実相寺山口と別所口の二ヶ所の分水口を一ヶ所にして水車を回す水とし、さらに三田用水路の流末はこれまでの通り田圃の用水として引き入れるのに都合がよいよう流水する」
こととなった(p.(8))。

 つまり、従前の別所上口と實相寺山口が1つの分水口に統合されることになり、断定はできないのだが
・御府内場末往還其外沿革圖書
      「弘化三〔1846〕〕年九月調 白金…碑文谷村 一圓之繪圖」
       https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587256?tocOpened=1
      
画像調整済み




















・明治13年の迅速測図

とを対比すると、合薬製造所設置前の弘化3〔1846〕年頃の別所上口と、明治13年の田道口(後述)と呼ばれた分水口の位置が一致しているように見えるので、
・従前の別所上口に、實相寺山口が統合され
・實相寺山口が廃止された
可能性が高い。

 もっとも、この實相寺山口については
1 下大崎村名主から代官所宛ての、「目黒村地内の祖父ヶ茶屋の野道より下のほうは小高い場所で用水を引くことができない 」*ので、火薬製造所敷地際の「石橋より二〇間程隔てて、三寸五分四方の分水口を新しく設置すれば、用水を引くことに支障はなくなる」と中目黒村の村役人から聴取した旨の報告(p.(12))
あるいは
2 中目黒村・下目黒村両村から、(上記の分水口の新設に代えて)「実相寺山口の分水口の大きさを四寸一分二厘四方から三寸五分四方に縮小し、そこから従来の堀筋に水を引き込む」ようにしてほしいといった要望(p.(14))
があったようである***

 これらの要望が実現しなかったらしいことは、明治11年の「三田用水水路分水口寸坪取調書」(品川町「品川町史下巻」同町/S07・刊 pp.891-894)に該当する分水口の記載がない**ことからわかる。

 ただし、このとき、実相寺山口の分水口は閉止されたものの、分水路は埋め戻されることなく、いわゆる空堀として残置されたらしいことは、次項の海軍火薬製造所設置時に余水吐として、いわば再利用されていることからわかる。

*この点については、後に「田道口の分割」のところで、詳述する
** 「十一番 字田道口」(前出)の直下は「十二番 字錢噛窪口」となっている
*** 明治期に、ほぼ同じ地域に設置された海軍火薬製造所の場合は、玉川上水から三田用水への分水量を増加させているのに対し、この幕府砲薬製造所の設置に際しては、三田用水の水積には変化がないようであるから、水車用水の確保のためと思われる

■海軍火薬製造所の設置時の余水吐としての再利用(M13ころ)
 東京都公文書館資料

■海軍火薬製造所の排水路としての利用(M20ころ)
 内務省地理局「東京実測図 4幀ノ2」

■田道乙口末流としての利用?(M25)
 小坂「日本の近代化を支えた多摩川の水」p.97

■火薬製造所による田地の買い上げ(M28)
 小坂前掲p.97

■田道乙口(と銭噛窪口)からの分水を大日本麦酒が買収・引用
  小坂前掲p.114

と、変遷が著しいので、図版を含めて、整理ができ次第追記予定。

【参考】


江戸東京博物館・蔵
茶屋坂上北北東、三田用水路北の丘陵から海軍火薬製造所を望んだ光景と思われる。


2020年8月21日金曜日

【域外:品川用水】「恵澤潤洽碑」建立記念写真集

■毎年…

「盆暮」にはネットオークションに「お化け」が出ることが多いのだが、今年も「出た」。

品川区大井の鹿嶋神社に、恵澤潤洽碑という巨大な石碑が立っている。

この石碑、昭和8年1月に、昭和に入ってからは下水路に化したといわれる、品川用水の大井内堀(中延と下蛇窪の境界で分水され*、「大井の掛樋」(どうやら正式には「大井の掛渡井」)で立会川を渡る水路)
*大井町編「大井町史」S07 p.308
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209587/247

目黒筋御場絵図(国立公文書館・蔵)の
大井の掛樋/大井内堀/鹿嶋神社















を管理・運営していた「品川用水大井内堀組合」が、用水による恩恵と、明治10年代に私財を投じて「字篠谷耕地三町余の田地」〔現・大井5丁目、伊藤博文墓所南方あたりのようである〕への水路を開鑿した平林九兵衛
  三田用水研究: 【域外:品川用水】大井分水の分水の素掘暗渠
とを顕彰するために建立したものである(碑文による)。

品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編
「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18 より
後方が「恵澤潤洽碑」

同沿革史p.234によれば
「記念碑は…、昭和七年九月二十四日起工され同年十二月二十七日竣成した。工事報告に據ると
一 水利組合功勞者記念碑建設竝ニ外構其他附帯工事
  間口三十二尺、奥行三十四尺五寸
  記念碑長十七尺六寸 幅七尺二寸 厚一尺二寸 仙臺石
  基礎工事内部鐵筋混凝土 外部根巻自然石 外構鐵筋混凝土竝ニ石材

  右工事金五千九百七拾五圓也」

とされている。

■この写真集は…

その、地鎮祭、基礎工事、石碑の現地への搬入、除幕式などの光景を撮影した15枚の、いわゆる生写真を、厚紙の台紙と、同じく厚紙で作られた枠の間に挟んで、布貼りの表紙で編綴している。


裏表紙見返

その全部をここに載せるというのは、
  • 厚紙の枠があるために(可能ではあるが)スキャナの焦点調整が面倒なのと
  • 「今現地に行ってみても、ほとんど同じ光景」なものや役員さんの集合写真を載せてもさして意味がなさそう
なので、この先のことはともかく、まずは、とくに印象深い3枚だけ、とりあえずご紹介することにする。

■「碑石搬入」

石碑のサイズは
全長19尺7寸(=全高約5.9m)
幅  7尺6寸(=全幅約2.3m)
厚サ 1尺1寸(=厚さ約0.33m)
の由





















碑石建設地現場到着(同日)






















他のページの記述によると、碑文を掘ったのは、青山の石勝という石工とのこと。

青山で掘られたとすると、青山から、1枚目の写真背景である大井町の「川崎貯蓄銀行大井支店」(現・大井第一小学校北向かい。下図青矢印)まで、さらに、池上通りを大森に近い鹿嶋神社(同赤矢印)まで、この荷姿で運ばれたことになる。

説明文の「重量約三千貫」というのが正しいとすると(サイズと比重‐3.5max‐から概算すると、大きな矛盾はない)、石の重さは約12トン。今なら、大型トラックで運べる重さだが、当時は、この重機(ロード・ローラー)の力に頼るしかなかったのだろう。

大日本職業別明細図 品川区 S08


写真中央の若い人物は、次葉の写真にも写っているが、座っている場所からみて、ロード・ローラーの、いまでいうオペレーターだろう。

当時、自動車の運転手もそうだが、大抵の故障なら自力で直せる技術力が必要だったといわれる半分エンジニア。道理で、周囲の人たちとは、顔つきがまるで違う。

センモンカ」だけに服装も凝っているようだ
袖周りとか襟のストラップなど、現代の「マウンテン・パーカー」
として見ても違和感がない、というのがある意味「スゴイ」




















■「除幕式(其ノ三)」


背景が「恵澤潤洽碑」の下部
これだけにも、この碑の巨大さがわかる

 左端が当時の品川区長の由。

 その右の3人の「除幕奉仕童女」は、「神童」役なので、紅白粉(べにおしろい)で化粧していたはず。

 そのためもあってか、中央の「倉本フミ子嬢」は、今のフラッシュ(ストロボ)の代わりに使われていたマグネシウムを燃やす発光器に「正面を切って」いたため、可哀そうに顔がほぼ全面真っ白に写ってしまっている。

区長〔当時は官選〕さんの顔も和みますよね。このパターンだと
当時の用水組合の役員リストの名前から想像すると、この3嬢
役員さんの「ご自慢」の娘さんか孫娘さんの可能性が高いように思われる











ところで、ざっと計算してみると、この倉本嬢、現在95歳の「我が母」とほぼ「おない年」のようである。


2020年7月25日土曜日

實相寺山口の「實相寺」を探す

■三田用水の…

寛政9(1797)年11月「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」によれば、11番目の分水。

品川町史・中巻による翻字「定相寺山口」と、目黒区史などによる「實相寺山口」のどちらが正しいのかについては、

当ブログの
三田用水の分水名由来考【随時更新予定】
https://mitaditch.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
で、一応の結論にたどりついた。

■そうなると…

次の問題は、その「實相寺」はどこにあったのか、ということになるのだが、すでに、上記リンク先で指摘したように、「江戸東京重ね地図」で検索すると、江戸の朱引線内にほぼ限っても、實相寺は6ケ寺もあって、それらの所在地も
 青山久保町
 浅草新寺町
 浅草八軒寺町
 築地
 北本所表町
 三田台町
と広汎にわたっていることもあり、その先が、いわば行き詰まっていた。

■その中で…

思い至ったことは、
新編武蔵風土記稿、荏原郡之19巻之58の当地三田村の条  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763983/26
によれば、同村内には、この實相寺のほかにも多くの寺院が抱地を所持しているので、それらの寺院の所在地から、この實相寺が上記のどれにあたるのかを推定できないか、ということであった。

そこで、「江戸東京重ね地図」各寺を検索すると以下のことがわかった。



これらのうち、蓮葉寺以下の4ケ寺は所在地不明だったが、風土記稿中の割注からみて三田村内に所在していたらしい。
それ以外は、大松寺だけは「たいしょうじ」と訓むらしい漢字表記では同名の寺が浅草北寺町にあるほかは、すべて近隣といえる白金、二本榎、あるいは現在の港区三田の各町にあることになる。

■そうなると…

問題の實相寺についても、6ケ寺のうち、三田台町
・旧三田臺町44番地
・現三田4丁目12番15号
にある、浄土宗京都東山知恩院末の實相寺
という現存している寺院と考えるのが素直であるということにはなる。

■しかし…

東京都公文書館蔵の明治中期の寺院に関する資料である
寺院明細帳(7)荏原郡
のコピーを、確認のために眺めていたところ

明治39年までは
・旧芝区白金志田町1番地
に、天台宗延暦寺末の實相寺
があったらしいこと、しかも同寺は、明治39年に
・旧目黒村大字中目黒970番地
・現目黒区中目黒5丁目7番13号
という不思議なことに、問題の實相寺山口と目黒川をはさんでほぼ真向かいに移転し、現存していることがわかったのである。

■念のため…

内務省地理局「東京五千分壱実測図」(M20) の第4幀をみても、たしかに
三田台町の浄土宗實相寺と白金志田町の天台宗實相寺が、大げさにいえば「糸電話の距離」で並立していた。
黄塗が「天台宗實相寺」、青塗が「浄土宗實相寺」

























もっとも…
 
先のとおり、この天台宗實相寺は、 「江戸東京重ね地図」では検索されない寺院であるので、上記内務省図の天台宗實相寺の場所を確認すると、ここには、同じ天台宗とはいえ、
東叡山末中道寺
があったことがわかった

■この…

「江戸東京重ね地図」の解説によれば、安政3(1856)年が地図の基準時点のようなので、それに従うと、風土記稿が編纂された文化・文政期(1804-1829)に、白金志田町に天台宗實相寺があった可能性は低いことになり、分水口名は、三田台町の浄土宗実相寺に由来する可能性が極めて高いといえる。

■とはいえ…

「江戸東京重ね地図」は、何分2次資料に過ぎないので、やはり、この天台宗實相寺はどこから来たのか(先の東京府の資料によれば、同寺は寛永6(1629)年開基ということになっている)、逆に中道寺はどこに行ってしまったのか、という問題もあるわけなので、折があれば調べてみたいところである。

【追記】
やはり、懸念は的中していた。

国会図書館・蔵「御府内場末往還其外沿革圖書. [1]拾六上」

によれば、この地には
宝暦2(1752)年の時点では、中道寺があり
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587235/201
その後
弘化3(1847)年の時点では、實相寺があった
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587235/202
とされており、ちょうど風土記稿が編まれた文化・文政期を含む時期に、實相寺がここに来たことになるので、現時点では、風土記稿の實相寺が、天台宗のそれか、浄土宗のそれかは確定のしようがないことになる。

【追々記】
天保4(1833)年/金丸彦五郎影直図工/須原屋茂兵衛・刊「分間江戸大絵図」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542727
によれば、この場所は中道寺とされているので

風土記稿が編纂されたときには、未だここには天台宗實相寺がなかったことがほぼ確定した。

【追々々記】
天台宗實相寺の由来が判明した。

寺院のご案内 実相寺 | お寺・お墓のアイエム - 株式会社アイエム
https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=528
によれば

實相寺の前身は、寛永6年(1629)日是聖人という日蓮宗の僧侶により開かれ、鷲峰山法林院中道寺と称した寺で三田志田町にありました。
日蓮宗としては五代続いたのですが5世日善は当時禁制宗門の不受不施派再興の企てに参加したため元禄11年(1698)三宅島へ流罪となってしまいました。

元禄13年(1700)天台宗に改まり、普穹法印を開基として代を重ね天保5年(1834)に寺号を現在の實相寺と改称しました。
明治維新にあたり、武士階級の没落四散により寺門維持は困難をきわめ、堂宇も荒廃し、また道路改正にもあたった為、 明治44年(1911)19世了観により現在地へ移転することとなり、現在に至っています。


 ■結局…

天台宗實相寺は、天保5(1834)年までは旧同宗中道寺、開基の寛永6(1629)年から元禄13(1700)年までは日蓮宗中道寺であって、したがって、それまで天台宗實相寺が他の場所にあったというわけではなく、今でいう宗教法人としては同一性を保ったまま、創建の寛永6(1629)年から明治39(または44)年までは白金志田町に、それ以後は現在地に存立していることになる。

一方、浄土宗實相寺は、東京都公文書館・蔵「寺院明細帳(7)荏原郡」中の「浄土宗明細簿」(M10)によれば、創建は慶長16(1611)年。
もっとも、当初は八丁堀にあり、寛永12(1635)年に当地に移転してきたといわれる。
https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g14129732-d12339342-Reviews-Jisso_ji_Temple-Mita_Minato_Tokyo_Tokyo_Prefecture_Kanto.html

したがって、風土記稿にいう實相寺、つまり、三田村内に抱地を持ち、實相寺山口の語源となったのは、浄土宗實相寺の方であることはほぼ確実である。

なお、
国会図書館・蔵「〔文政〕寺社書上. [11] 三田寺社書上 壱」中の
同寺の章は

東京都公文書館・蔵「寺社備考」

1600坪余の拝領地のほか、承応元壬辰年に買添した70坪2合2斗の年貢地を所持しているとされ、地積が誤差範囲ともいえることから、これが三田村内の抱地を指すのかもしれない。

■いうまでも…

ないことながら、次のテーマは「では『實相寺山』はどこにあったのか」ということになる。

2020年6月25日木曜日

【余録?】馬越恭平の茶室「目黒茶寮」

■藤原銀次郎の…

茶室「暁雲庵」の(やや誤爆ながらも)発見
https://mitaditch.blogspot.com/2018/01/blog-post.html
(なお、https://mitaditch.blogspot.com/2017/06/blog-post.html 末尾参照)
に気をよくして、むしろ、三田用水がらみとしては本筋の…

三田用水の水を引水し、当初の明治期はビールの醸造用水に、昭和後半にはビール輸送用の箱の洗浄に使っていたといわれる、(大)日本麦酒(現・サッポロビール)の代表者で、藤原とは同じ三井出身者であり、かつ、茶(道具)敵だったとも言われる馬越恭平が、会社の敷地内に設けた茶室「目黒茶寮」について、かねてから調べてみたいとは思っていた。

■大日本麦酒の…

工場内となると、たとえば、その蹲踞や池などに三田用水ひいては多摩川の水を使っていた可能性が否定できないからであるが、藤原の「晩暁庵」と同様に、極めて情報が乏しかったのである。

■しかし…

たまたま、数年前、挟んであったレシートによれば2017年5月6日に、わずか300円で下北沢の古書店で入手していた

大塚榮三「馬越恭平翁傳」(大日本麥酒株式会社内)馬越恭平翁傳記編纂會/S10・刊〔以下「馬越傳」〕

を眺めていたら、その377ページ以下に目黒茶寮に関する記述があるのをみつけた(但し、以下の部分は、大塚ではなく「茶事篇」を担当したらしい高橋箒庵*が執筆)。

       目黒茶寮
 馬越翁は前記の如く、明治三十七年遼陽戰直前に、溝口家傅来の名物螢茶入を、最も幸運に捕獲せられたが、日露戰争が終了しても、更に其消息を洩らさぬので、世間も何時か忘れ果てゝ、之を噂する者さへなくなづた。一方馬越翁は、豫てより胸に一物ありしものゝ如く、明治四十年に至り、目黒大日本麥酒會社構内に、茶寮建設の場所を見立て、嘗て築地に居住せし頃、川上宗順宗匠が縄張りした、宗旦又隠寫しの茶室を、先づ此處に移し置き、翌年江戸千家宗匠大久保北隠を顧問として、露地前栽の造營に著手し、足掛五年を費して、明治四十五年に至りて竣工した其構造は麥酒會社の正門を入って直に右折し、雑木の間の延べ段を辿りて、頓て茶室に達すれば、例の舊茶室に、待合、水屋等を増設したもので、至って手狭き茶寮なれど、麥酒會社の大貯水池に接續する空地が、頗る廣闊なのを利用して、最も力を築庭に傾け樫の大木を中心として、其前に向島の舊佐竹邸より持ち來りたる、大橋杭の洗手鉢を据ゑ附け、樹蔭を傅はる筧の水は、洗手鉢に落ちて溢れて、忽ち一條の流れと爲る。其流れの中なる飛石二つ三つを跨ぎて、鉢前に達する趣向面白く、叉此流れの岸より、臥牛の如き大石を、茶室の軒下まで置き渡したるも平凡ならす。植ゑ込みを庵室に接近して、木の間隠れに、遠方の森林を散見せしむる趣向も、亦中々に風情あり、斯くて中立の際、庭前の流れに沿ひ飛石傅ひに植ゑ込みの間を潜り出づれば、東面一帯貯水池に接して、對岸に工場を望み、池邊の四阿に、籐椅子を並べて、之を中立の腰掛と爲したる、一種異様の工作は、都下に無類なる茶寮にて、何となく野趣を帯びた目黒田圃の仙境に、彼の光明赫耀たる螢茶入を飛び出させて、大に茶人の眼を驚かさんとする馬越翁の深謀遠慮は、後にぞ思ひ合はされたのである。

*高橋箒庵こと高橋義雄については

小山玲子「明治大正期における茶の湯と茶人 : 高橋箒庵と茶室の蒐集(論考)」比較文化論叢 : 札幌大学文化学部紀要Vol.16 pp.89-117

に詳しい。

■残念ながら…

馬越の茶室については、巻頭の口絵に、確か本宅(麻布区北日ケ窪48)にあった「月窓庵」の写真はあるものの、この「目黒茶寮」のそれはないのだが、上記の高橋の記述から、位置や外観をある程度は推定することができる。

・位置は

麥酒會社の正門を入って直に右折し、雑木の間の延べ段を辿りて、頓て茶室に達す(る)

とされているので、下の写真の左上のハイライトした地域かと想像される。


濵田徳太郎・編「大日本麥酒株式會社三十年史」同社/S11・刊〔以下「30年史」〕
 口絵「目黒工場」より












【補記】
M42測1/10000地形図「三田」の画像が入手できたので、この地形図に基づいて目黒茶寮の位置を再度検討してみた。

前記の、高橋箒庵「目黒茶寮」によれば

  • 明治四十年に至り、目黒大日本麥酒會社構内に、…嘗て築地に居住せし頃、川上宗順宗匠が縄張りした、宗旦又隠寫しの茶室を、先づ此處に移し置き、
  • 翌年…露地前栽の造營に著手し…明治四十五年に至りて竣工した

とあるので、茶室本体は、この地形図に反映されていると考えられたからである。


前掲・高橋によれば
麥酒會社の正門を入って直に右折し、雑木の間の延べ段を辿りて、頓て茶室に達す
とされ、

【参照】


サッポロビール株式会社社史編纂室・編「サッポロビール120年史」同社/H08・刊〔以下「120年史」〕p.145
「図2-3」の、明治22年の日本麦酒創業当時のものと思われる「工場建物配置概略図


を見ると、工場の正門は、敷地の北東隅、上記地図の赤矢印のあたりにあったことになるので、そこから「直ちに右折し」た先の赤丸の建物が、目黒茶寮と考えられる。

なお、当初は「中立の際、庭前の流れに沿ひ飛石傅ひに植ゑ込みの間を潜り出づれば、東面一帯貯水池に接して、對岸に工場を望み、」とあるので、方角を重視して地図の貯水池〔三田用水の水を引き込んだ「第2貯水池」〕西の黄色四角で囲った建物かとも考えたが、この建物は、位置、方角から見て、工場構内に建築された、「ビアホール」というか、今風にいえば「ビアレストラン」である「開盛邸」(M43-T10ころ)〔120年史pp.163〕とみるべきなのだろう。

120年史「第2篇」口絵写真の「開盛邸」

(写真の開盛邸は、当初M36に、工場敷地西端の日本鐡道品川線〔現。JR山の手線〕近くに建築されたものを、工場改装の際に設けた貯水池の完成時、貯水池西北のこの場所に規模を拡大して再築したものという。
 折しも、M34に、日本鐵道品川線にヱビスビール出荷のための貨物駅として設置された恵比寿駅は、M39に旅客営業を開始しており〔地形図黄色矢印〕、利用者の来訪の利便性が向上してより多くの集客が見込めただろうし、広大な貯水池越しに見える近代的な工場は会社にとって格好のPR手段と考えられたのだろう。)

 また、工場にとって、材料の搬入、製品の出荷についての、陸運の主要ルートは、渋谷川に、同社が、自費で、明治29年に木橋で、同32年にはレンガ積みで架けられた恵比寿橋(地図上端右、橙色矢印)


 

だったのだから〔120年史pp.163〕、恵比寿橋に直結する敷地東北の位置が、正門と考えてよいと思われる。


【追記】

 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の写真データベースに

明治末期の日本麦酒の正門の写真があった

この門と、他の裏門などを取り違える可能性はまずなさそうである。


余談ながら、開盛邸南西の神社記号は、いわば社社である、恵比壽神社。


・意匠は


宗旦又隠〔ユウイン〕寫し

とあることから、

そのオリジナルの又隠
http://www.urasenke.or.jp/textc/chashitu/yuin.html
https://www.token.co.jp/apartment/chashitu/yu_in/ (図面、しかも「起絵図」まである!)
を踏襲したものだったと考えられる。

このオリジナルの又隠寫しの写真から判断する限りではあるが、藤原銀次郎の「暁雲庵」、あるいは馬越自身の「月窓庵」と較べ、より草庵風の茶室だったのではないかと思われる。

【追記】

目黒茶寮のそれではないが、
高橋箒庵「東都茶会記 第一輯 上巻」口絵https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183129/9
に「千宗旦好叉隠茶席 安田松翁邸二アリ」と題した写真があった



















■なお…

この目黒茶寮、以下のように、明治45年以降、馬越のいわばご自慢の「名物螢茶入*


に、螢の解説がある。
「底廻りに光沢のある朱色の水釉が掛るところからこの名がある。」由

*馬越没後の消息が気になっていたのだが、現在は、畠山記念館が所蔵している由ことがわかった。

 松田延夫「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」里文出版/H14・刊 p.155

 
【追記】
面白いことに、これ
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014874/207
も「螢」の茶入れとされている。こちらは、鴻池男爵家蔵。

を披露する茶会が、毎年6月に年中行事のように催されたという。
  Ex. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183748/41 T12
             https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183129/94 M45?

*名物といわれる、茶入の壺の多くは「肩」の部分が張った形のものが多いようだが、この「螢」は、いわば「なで肩」の、さりげなく優しい形をしていながら、いわば「力」というかオーラがある。馬越が「どうしても手に入れたかった」気持ちがわかるような気もする。

          螢茶入披露會
馬越翁が五十年間に開催した數十回の茶會中に於て、場所と云ひ、茶室と云ひ、趣向と云ぴ、道具組と云ひ、抜群の大出來と謂ふべきは、明治四十五年六月、目黒茶寮にて行はれた螢茶入披露會であらう。試に思へ、時候も初夏の六月初旬、所は名におふ目黒田圃、新緑蔭深き茶寮の中に、名物螢茶入が飛び出したと云ふのは何と無類の趣向ではあるまいしか。而して其道具組合は、床に河村家傅來、一風紫印金表具の檀芝瑞筆墨竹寧一山讃の一軸を懸けられたが、其讃は
  緑映輕煙外 根深古石傍
  一葉斜興曲 多福費諭量
とあり 、宗全の風呂には、蘆屋眞形竹地紋の釜を掛け、其他一座の飾附は左の如し、
花入 青磁遊環、花沙羅
水指 南蠻縄簾
茶杓 遠州作銘亂曲
茶碗 河村蕎麥銘残月 *

薄茶茶碗 一入黒銘曙
以上道具組合を見れば、何れも、茶題に適せざる者なし。
〈以下の筆者による「茶会記」中略〉
斯て此茶合の好評嘖々たりしに依り、馬越翁も感ずる所あり、爾後毎年六月頃、目黒茶寮に一會を催し、諸他の道具は悉く取替へ、螢茶入れのみを連用したれば、茶人は大に之を樂しみ、恰も年中行事と看做して、年々初夏の頃に至れば、目黒田圃に未だ螢が飛び出さぬかかと云ふ者さへあつた。


* https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1014994/252
  https://turuta.jp/story/archives/18493

【参考】

馬越のその他の茶室。護国寺内の
                                     


-未完-

2020年5月30日土曜日

三田用水:北沢五丁目の玉川上水からの取水圦から三角橋を経て溝が谷分水の上流部まで(と、北沢用水合流部までの概略)

■この…

緊急事態宣言下、運動不足解消と、リフレッシュというよりモニタの見続けで に合わなくなってきた目の焦点調整、のための散歩先。

三田用水とその分水路は、繁華な場所が少なく、3密を避けるのに理想的。
最近見に行っていない場所も結構あるし、そこそこのアップダウンもあるので、久しぶりに順次「カメラ散歩」しています。

なお、
・三田用水の歴史・概要などは こちら
・三田用水のほぼ全域のマップは こちら (ダウンロードすることをお奨めします
をご覧ください

■今回(20/05/26)は…

世田谷区北沢の取水圦から溝が谷〔みぞがや〕分水の分水圦のあった三角橋、そして溝が谷分水の京王井の頭線の築堤までの上流部。



今回は、このStart から End まで

この地域、50年以上前に自分で撮影したものも含めて、古い写真もあるので、いわゆる「今昔写真」のご紹介も。

■最寄り駅は…

京王線笹塚駅。駅の西寄りが旧玉川上水とクロスしていて、元の水路が緑道型の広場になっています。


緑道を南に進み、道路に出て…

道路から北方向。画面奥が笹塚駅



 道路を渡ると…

旧玉川上水の水路


土手にはネズミ、水路には小魚がいて小動物にとっては「ご馳走広場」。
当日も、アオダイショウやカメを見かけました。
居合わせたご近所の方のお話では、ときどきサギが小魚を食べに来る由。

そのまま水路沿いに南に進み、次の橋のところに出ると…

三田用水取水圦

【今昔写真(その1)】



正面やや右の柵のある斜めに水路が広がる場所が取水口。
三田用水と目黒の海軍研究所のための鋼鉄製の水門が並んでいた。

【今昔写真(その2)】

取水圦のあった場所を南から撮影





 ■その1の「昔写真」の…

丁度、中央上部に背の高い黒っぽい建物がありますが、これは弁天堂


後記「江戸の上水と三田用水」p.73より


今の、このあたり。

新たに入手できた資料で、
弁天堂は、画面手前右手の木立の中にあったことが分かった

【追記】

「三田用水普通水利組合所有地 地籍測量図」S59 ①図抜粋















■この先は…

昭和50年代半ばころまでに、一部が道路に転用されたほかは、ほとんどが売却されて宅地になっているので、水路跡そのものを辿ることはできません。

そのため、旧玉川上水と水路を挟んで反対側の北沢五丁目の商店街を南に下ります。

この商店街も、ご多聞に漏れず、主として飲食関係を残してシャッター街化してしまっています。
比較的最近まで、漬物の製造販売のお店とか、お肉屋さんや八百屋さんも残っていたのですが…

【追記】

フィルムスキャナの画像のタイムスタンプから判断して、2004年初夏ころ撮影  by summicron35Asph.
このダイコンの葉っぱ。ゴマ油とおしょう油で炒めて、大変美味しくいただきました。























たまたま、PC内のデータを整理していたところ、↑の「お漬物屋さん」の古いリンク先が見つかった。
archive.org でトレースしてみたら、このマルイ漬物さん、今は姫路でご活躍中であることがわかり、
https://www.maru-i.info/pages/209551/history
なぜか安心した。

ほぼ井の頭通りに近づいたところの、道路が「グニっと曲がっている」場所。

前掲「御場繪圖」参照

 ここで、道路の東(左)側から流れてきた水路が道路を渡って西(右)にそって流れを変えていました。

前掲・地籍測量図 ④図 道路交差部 抜粋





■そのまま…

南に進むと、井の頭通り


 正面の赤い屋根の建物の場所が水路敷、つまり、土手-水路-土手のエリア。その右は、旧北沢小学校、現池之上小学校仮校舎。
(さらにその右(西)に三田用水の山下分水跡がありますが、それは、いずれ、別アーティクルで)

ここから、駒場道(補助26号線)までの間の旧水路敷に「豊世稲荷」というお稲荷さんがかつてありました。

【今昔写真】



解体直前の姿。
道路から奥まった場所で目立ちませんでしたが、参道に街路灯を設けるなど
地域の人たちが大切に祀っていたことがわかります。

 ■駒場道を…

さらに南に進むと、小田急線東北沢駅の東にかつてあった、代々木上原3号踏切跡。

その南寄りに、三田用水が小田急線を潜っていた逆サイフォンの立坑が、今は鋼鈑の蓋が被されて残っています。

【今-写真】



 【-昔写真】
は、いっぱいあるので、こちら
https://mitaditch.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
で。

■さらに…

南に進むと、三角橋ですが、その前に、もう1枚…

【今昔写真】


正面の木で覆われた部分(測量用のポールが立っている)が水路敷のうち、西側の土手の部分
■さらに南の…

溝が谷分水の分水圦のあったあたり

右が、松蔭学園の校舎。
構内に「高校三年生」の石碑があり、季節によっては本当に「赤い夕陽が校舎を染め」る。
今は共学校だが、昭和30年代は女子商業高校と共学の定時制高校が併設されていた。

【資料映像】

2011年01月10日撮影












校門左奥の『高校三年生』の歌碑

 


解説文
赤い夕陽に染まる校舎の場所には諸説あるがこれで「確定」





























を経て

 ■いよいよ…

三角橋。

ここで、駒場道は東に大きく屈曲するのですが、そのために、

【今昔写真】



昭和43年ころ

 かつては、この交差点から東京タワーが真正面に見えたのです。
(ちょうど画面の中央。今も残る大きな木のすぐ左下)

なお、同時代の逆方向からの

【今昔写真】


昭和45年ころ

■ここは…

すでに、写真左手は目黒区、右手は渋谷区なので、三角橋の交差点(ここも目黒区ですが)に戻って、溝が谷分水跡をたどることにします。

【参考】




東北沢方面からみると右折すると、すぐ左手に松蔭学園の正門


この道路の向かいは、補助26号、同54号線の敷地とするために空地になっていますが…


この空地を囲む、向う方向に建つフェンスのラインが、三田用水から分水されたばかりの溝が谷分水の水路だったはずです。

水路は、先ほどの学園の正門あたりで、右折し、道路沿いを南に流れて、

今の、正門から2つ目の左曲り角


で左折して溝が谷に入ります。

【今昔写真】



昭和43年ころ

■上の写真では…

画面左側をかつては流れていて、この



あたりで、道の下をくぐって、画面右奥の道路の右端に流れを変えています。

ここから、最後の方の写真にある京王井の頭線の築堤までは、当地に越して来た昭和30年代半は、まだ開渠のままで、その後もいわゆる蓋付暗渠に改修された状態が長く続きました。
(手前側の道路は開渠でも暗渠でもなく、ただ側溝があっただけ。年に2回くらいは道路が川になっていました。)

■ここからは…

なぜここが「溝が」なのか、一言でいえばかつては勿論、今でも「文字通りの『渓谷』」であることを、実際にご自身で体感していただきたいので、くどくどとご説明はしません。

ちなみに、ここは、江戸時代(というより、おそらくそれ以前から)に、吉祥院という山駈修行をする「修験道」の寺院があったほどの場所なのです。

中ほど北側(左岸)の崖線(東大駒場のリサーチセンターの崖)
中ほど南側(右岸)の崖線
見る人が見ればわかる「水路跡のお約束」
が「いろいろ」と…

今回の終点、京王井の頭線の築堤近くの北側(左岸)の崖線

同じく南側(右岸)の崖線
溝が谷の築堤を走る京王井の頭線
現在、防風フェンスの工事が始まっていて、この光景は間もなく見られなくなります。
【追記】

井の頭線の築堤だけでなく、近い将来、補助26号線の工事で谷全体の光景も大きく変わります。


【参考資料】

■下北澤村「吉祥院」顛末考
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/02/post-3f31.html
■下北澤村「吉祥院」起源考 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html
■「代田村飛地 字溝が谷」 

【準=今昔写真】

【資料映像】ツツジが盛りたったので2020/05/09に撮影

【資料映像】築堤がまだ手付かず?だった2014/05/11撮影
 【参考図】
上図の の位置が築堤
■井の頭線から南の…

溝が谷分水は、下図のようにほぼ直線的に、南に流下し、北沢川(北澤用水)に合流することになる。

M42測 1/10000地形図
「世田谷」抜粋

 なお…
水路が井の頭線と交差する前後の区間は、昭和40年代前半までコンクリート護岸された開水路が残っていた
反対に、 分水口から溝が谷の谷までの区間は、前掲の「民有用水路公用廃止」図面のように、昭和始めに、用水路のうち民有地部分は廃止され、残る公有地部分(青線/青道)も、公図上は長く残っていたが、実質的には道路の側溝として下水路としての機能が残されただけになった(もっとも、この地はもともとは自然河川の上流部だったせいで、年に2回位は豪雨時に道路が川になる状態が、本格的な下水道整備まで続いた。我が家もそうだが、写真のように敷地の道路沿いに擁壁のある家が残るのは、そのためである
同様に、用水路が淡島通りと交差する附近の北側一帯は、ほぼ同時期のの昭和3年ころ、水路の主として西の脇の地域が数百坪単位の階段状の宅地に造成され、清風園と称する分譲地となった際、暗渠化されている※1
 左図の下方の紫色の線の部分は、明治13年の迅速測図によれば、北沢川(北澤用水)の流路であり※2、その当時は、分水路は淡島通りを潜ってほどなく北沢川に合流していたことになる。北沢川が改修された後は、合流点から東側の川路の一部が分水の水路として残されたようで、ほぼそのルートで今も暗渠が残り、一部は未だにいわゆる蓋付暗渠となっている※3

 ※1

「清風園」の宅地分譲広告

東京朝日新聞 昭和3年12月1日号掲載の由

分譲地内の道路

google books 蔵
昭和3年12月18日付け「警視庁/東京府公報」掲載の
建築線指定(現在の「道路位置指定」に相当)の公告
最南部では、旧水路の場所が宅地化されていることが分かる

※2

M13 1/20000 迅速測図
「東京府武藏国南豊島郡代々木村荏原郡上目黒村近傍」
より、溝が谷分水・北沢川合流点付近抜粋

※3

北沢川旧水路→溝が谷分水末流部の蓋付暗渠

2019年2月16日 撮影