■別稿の…
三田用水研究: 【域外】品川用水「恵澤潤洽碑」建立記念写真集
この碑文の中に、以下のような記述があるという。
明治十年品川地方旱魃ニ際シ字篠谷耕地三町餘ノ田地ハ天水場ニシテ用水灌漑ノ便ナク満目ノ苗稲将ニ盡ク枯死セントス平林九兵衛*君深ク之ヲ憂ヒ自ラ私財ヲ擲テ人夫ヲ督シ晝夜奔走席暖マルニ遑アラズ終ニ内堀用水路ヨリ隧道**ヲ穿チ三日ヲ出デズシテ通水スルコトヲ得農民為メニ旱害ヲ免ルルコトヲ得タリ
品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊「品川用水沿革史」(以下「沿革史」)p.235
**「胎内掘り」「ほっこ抜き」などとも呼ばれる、用水用の隧道というか暗渠の現存する実例としては
玉川上水新堀用水のそれがある
鈴木利博ほか「小平市内における玉川上水系分水路網の基礎的環境調査(玉川上水中流域の小川分水と分水路網の残存状況調査)」(公財)東急財団/2019年・刊
【追記】
鮫洲八幡神社境内に建立された「平林九兵衛遺徳碑」〔右〕と、その「由来碑」〔左下〕
「恵澤潤洽碑」建立記念写真集 <https://mitaditch.blogspot.com/2020/08/blog-post.html> 掲載 今も同社境内に現存している https://jinjamemo.com/archives/samezuhachimanjinja.html |
交詢社・日本紳士録〔第2版〕 によると、平林の住所は「府下荏原郡大井村130番地」で、字名は御林町。鮫津八幡神社は、同字の総鎮守である。
この水路の通水先である、篠谷耕地を、
東京府下大井町全図(T15:品川用水への通水のほぼ最終期である)
【参考】
慶應年間に当地に移転する前、高輪時代の如来寺
江戸名所圖絵 巻之一第三冊 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563382/53 |
赤い○印の脇の数字の単位は「チェーン」(=20.1168 m) |
ただし、これ以上西に水路を寄せると、もともと品川用水の組合村である大井村のための大井内堀の水が、組合村でない西隣の馬込村に落ちてしまうことになってしまう*。
後記議定書からみても、それは絶対に避けるべき事態なので、あり得ない。
(「沿革史」pp.79-80)
品川町、大井村、入新井村、平塚村、大崎村
大井町の歴史-11 「大井町の隣にあった不入斗(いりやまず)村」|Life Protopia (k-protopia.com) 中 「武藏国六郷領新井宿村/不入村全圖」によれば、平間街道(現・池上通)から東側の水利は六郷用水に拠っており、明治9年以降、品川用水に拠ることになったのは西側の地域だったことがわかる
御 中
青文字で略標高を補入 但し、明治11年当時は慶應年間にここの移転してきた「大佛」のある如来寺のみ |
- 字谷垂と字篠谷とが上図にある伊藤町となったのが昭和7年(同書p.77)であり、この時点では品川用水の通水はすでに終了していること
- この水路の標高が、図の上方からみて順次、
品川用水の大井内堀が 19m
その下方の品川道が 22m
最下方の現大田区と境界が15m
であり、水流の方向いかんによらず、品川道あたりの最高標高点23mをどうやってこえたのか
加えて、goo map の昭和22年の空中写真
にも、上記の地図と位置的に整合する溝のようなものが見える。
いずれにせよ、google street view や、品川区の統合型地図情報提供サービス中「区内標高図」でこのあたりをみると、大井内堀とこの南方の金子山に連なる大地との間にはかなりの標高差があって、果たしてこの水路に品川用水の水を流すことができたのかとの疑問を、このままでは払拭できない。
本村〔ママ〕字篠谷耕地三町六反四畝歩は、古くよりの天水場にて用水灌漑の便なく、禾稲將に枯死せんとするを見、平林九兵衛氏は二町程を距てヽ流れる用水内堀よい畑地の下に隧道を穿ち、山林の間を堀割として、引込をなし、三日を出ずして工を完了し、爾来灌漑の便を得るに至らしめ漸く共の困厄を救済するを得たのである。
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