2021年7月3日土曜日

錦絵「角谷製綿工場之眞景」

■定期的に…

送られて来る古書市の目録に、標記の版画による錦絵が掲載されていた。

 絵柄自体は、渋谷区の刊行物や都の公文書館のデジタル・アーカイブで見知ってはいたものの、やはり、三田用水、それも鉢山口の分水口や、鉢山分水の最上流部にあった角谷製綿工場の水車が描かれているとなると「捨て置けない」ので、速攻で発注しておいた。

 幸い、他に発注者がいなかったのか、抽選に当たったのかは不明だが、先ほど届いた。

(とはいえ、当方が発注するのはニッチなものが多いせいか、いままで、この古書市で入手できなかったことはない)

【以下、解題は順次追記】

■まずは…

全景


■左下隅の

角谷製綿工場の水車
上懸け水車は、水を高い位置から落とすうえ、
水車にとって抵抗となる下部の水が無いか少ないため、水力を効率的に利用できる

鈴木芳行「近代東京の水車」1992/現=東急財団・刊*〔以下「水車台帳」〕 pp.425-426

 三田用水路東の急傾斜地を活かして、水輪越しにその頂部から水を懸ける「上懸水車」であることがわかる。
 絵のように、ここは角谷和市が経営する角谷製綿工場として綿打ちに使用されていたが、その当時は永田熊吉が所有していた。なお、角谷は、大正2年に廃業するまで、鉢山分水の下流部の中澁谷138番地に精穀用の水車を所有していた(前掲・水車台帳p.279#629)。

 
■右下…

鉢山分水の取水圦とも思われる部分
開渠で分水というのは、三田用水関係の江戸期の史料との不整合がある
*
明治期になって、正規の分水のほかに、製綿所の雑用水など特定の用途のために設けられた可能性がある
原料の綿花や打直し用の綿を洗ったり、とくに、第2工場には蒸気機関があるので、水は必須である。

*品川町役場「品川町史・中巻」同町役場/S07・刊p.489記載の、寛政9年の更新時の「仕様書」によれば、三田用水からの分水圦は、鉢山口を含め、全て、下図のような仕様となっている。


また、駒場東大北の山手通り沿いの、渋谷区松濤2丁目22にある、昭和初期に函渠に改修されたときに設けられたと思われる、三田用水の神山口も、上記の鉢山口同様の上部が塞がった箱樋をコンクリート化しただけで、同等の構造となっている*

【追記】

東京都渋谷区区白根記念郷土文化館・編「渋谷の水車業史」(同区教育委員会/S61・刊)
p.70 「特色のあった水車」中「製綿/角谷水車」

に引用されている「『渋谷郷土特報』第49号(昭和47年3月1日発行)所載の「日々是好日」(会長・角谷輔清*氏稿)」(p.14)には

 明治25年1月25日、この日がわたしの誕生日。区内の渋谷小学校を明治32(1899)年に卒業した。おやじの角谷和市は愛知県三河国の出身。朝倉虎治郎**さんと同郷、年令は朝倉さんより11か12年上であった。

 私の子供の頃には、すでに角谷家の事業である製綿工場が繁昌していた。家のすぐ前を流れる三田用水を利用して水車をかけて綿を製造するのであった。わたしはこの用水で泳いだことを覚えている。毎日のように馬車で綿花を運んできて、これを原料に工場で木綿わたをつくる。

 ぐるぐる回る水車の大きさは、直径2間(3.6m)、三田用水を樋で流し、水車はいつもよく回っていた。それだけで三馬力位の動力は得られた筈なのに、蒸気も使った。工場で働く人は男女で大体10數人、多くは地方出の人ばかりで、毎日よく働いてくれた。

 …この人たちが、毎年7月のお盆休みと正月休みには、それぞれ自分の田舎へ帰る。そのときみやげに持って帰る江戸名所の「にしき絵」―江戸から東京になっても立派な「にしき絵」が沢山つくられてあった―そのうちの「角谷製綿工場真景」というのを、後年、大正時代に渋谷のローカル紙「東京朝報」をやっていた有田肇君が、おやじの処へもってきたのがある。東京府豊多摩郡渋谷村字中渋谷と大きく書いてあるから、明治30年頃にできた絵であろう。

* 元・渋谷区議/区会議長/区長(S28-36)

** 元・渋谷村/町/区議/区会議長/東京市議/府会議長

とある。 

 今見ると、どうしても水車に目が行くが、当時、郷里にこの絵を持ち帰った製綿工場の従業員にとっては、高い煙突のある蒸気機関を備える近代的な工場で働いていることの方が「ご自慢」だったのだろう。 

【追々記】

前掲「水車台帳」p.279 によれば、角谷製綿工場の経営者である角谷和市(T05当時の住所地:渋谷町下澁谷744番地)は、明治末期(推定)から大正05年の廃止まで

渋谷町中澁谷138番地に精穀用水車(俗称:鶯谷水車)を所有していた(#629。なお、#665、#542参照)


青線が三田用水鉢山分水
「#…」は「水車台帳」の通番

【追記】

M42測 1/10000地形図 世田谷〔抜粋〕





もっとも、前記のT02年に角谷和市は、水車の利用は廃止したものの、製綿業自体を廃業したわけではなさそうで、

東京交通社「大日本職業別明細図・渋谷区」S08/06・刊によれば、甲州街道沿いの幡ヶ谷・笹塚間に「角谷製綿所」があったことがわかる。









*この「笹塚の角谷製綿所」については、コメント欄参照


2021年5月15日土曜日

2021年5月7日金曜日

爺が茶屋で将軍吉宗一行は何を食べたのか

 ■「目黒のサンマ」の…

モデルと言われている、茶屋坂上、かつ、実相寺山口から少し下った、通称「爺が茶屋」。


歌川廣重「名所江戸百景 目黒爺が茶屋」

旧暦享保17年2月21日(新暦1732年3月半ば)に、吉宗一行がここで食べた団子といも田楽の記録があった。

 中目黒村の村役人である名主による記録であり、かなり信ぴょう性が高いので、紹介する。

 東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/S52・刊

「島村家文書」「三四 享保一八年一月 組成之節記録覚」中p.252

「壬〔享保十七年?〕二月十一日

公方様〔吉宗〕御成御場大崎村御初居(、)木橋耕地、谷山桐ケ谷耕地通、下目黒町植木や清八御通抜、同村瀧泉寺境内御通抜、御猶予相屋阿免引 上覧相済、同村野道通り 御膳所祐天寺ゟ中目黒村耕地通、同村名主金吾方御通抜竹の子掘取上覧相済、同村耕地御鷹野御用相済、山道ゟしばはらへ被為 成 御猶予之間、団子、田楽 御前ニおゐて焼方被仰付候、

            其節

団子弐百五拾本      彦四郎
          同人つま
       焼方   と  ら
            其 外
いもてん楽弐百五拾本   縁 者
   右差引
但御場御見分之節も 同村名主 金  吾
 少々焼方あり

〔享保十七年?〕三月五日中越村名主庄三郎方御寄合之節請取

一、白銀 弐牧
子〔享保十七年?〕三月十九日青山善光寺門前御寄合所ニ而御渡被成候
一、金弐百疋 団子 てんかく代
一、金百疋  別段御手当
一、金壱分弐朱 (同箱弐 但四枚代
       (くし竹代
 右之通り
               中目黒村
 享保拾八歳          彦四郎

  丑ノ正月十九日

公方様当所御成御鷹野節
道成坂 壱軒茶屋ニ而銀壱枚

御拝領仕徽事包紙

御鳥見
粟津喜左衛門様
高月忠右衛門様
近藤彦兵衛様」

 あくまで、中目黒村名主金吾の「メモ」なので、各項目の区切りがわかりにくいのだが、ほぼ確実にいえることとしては、

この、吉宗の享保17年2月〔旧暦〕の目黒筋への御成では、

大崎から居木橋村、谷山村、桐ケ谷村を通り*1(当然、この間、折に触れて鷹で冬鳥を狩ったのだろう)、目黒不動(竜泉寺) 

に参詣した後、休息(御猶予)を兼ねて目黒飴*2作りを見物。

そこから北に向かって、祐天寺


で昼食、上記名主金吾方でタケノコ堀り*3を見物の後、(推定)田道耕地で本格的に鷹狩を行い、「しばはら」(推定だが、雉御立場のあった目黒川左岸の田道耕地東の台地*4)に向かうため茶屋坂を上り、そこの、爺が茶屋で休息し、目の前で、団子、田楽を焼くように仰せつけて、それを見物した。

その際に、主人彦四郎の妻とらが焼いた「団子」と「縁者」が焼いた「いも田楽」が、(供連れ分も含めて)各250本、吉宗一行に供された。

目黒筋御場繪圖〔部分〕に関係地点補入

と、いうことになるのだろう。

【補記】歴代の中には、城内での「御毒見」済の冷え切った食事に嫌気をさして、上記のような焼きたての団子や田楽。おそらくは、駒場の御用屋敷での、アツアツの、狩った鶴や鶉あるいはイノシシなどの焼きたての肉を食べたいために、やたらに狩に行きたがる将軍もいたらしい。

*1 各村の位置関係

東京都公文書館・蔵「朱引図」〔抜粋〕
【追記】詳細は
御府内場末往還其外沿革圖書 [4]壱拾六中
参照

*2 江戸名所圖繪「目黒飴・桐屋」

〔同・部分〕おそらくこの作業が「目黒飴挽」


*3 歴史を訪ねて 目黒のタケノコ 目黒区 (city.meguro.tokyo.jp)

  なお、タケノコ飯は、クリ飯とともに目黒不動周囲の料亭で供する名物だったという
  参照:田山花袋「東京近郊一日の行楽」博文館/T12・刊
     「目黒不動附近」p.548 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972006/281

*4 三田用水研究: 中目黒の「雉御立場」 (mitaditch.blogspot.com)

2021年5月1日土曜日

駒場狩場附近の三田用水路

■高崎経済大学の…

学術機関リポジトリに

同大学の西沢淳男教授の

「関東代官竹垣直道日記」が連載されていて、その第3篇

(同大「地域政策研究」15巻4号pp.132-166)

https://tcue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=152&item_no=1&page_id=13&block_id=21

を読んでいたら、そのp.148(pdfファイルのp.19に、旧暦・嘉永3(1850)年1月21日、将軍徳川家慶の駒場狩場への御成の折の、今の文化村通りを登り切って山手通りと交差する辺りを描いた略図があった。


ここは、下の駒場御狩場之圖の右上の四角で囲ったあたりである。

【注記】駒場御狩場と三田用水の、明治期以降の関係については
参照

■冒頭の…

略図上方の「御成道」〔現在の文化村通りが狩場図のとおり長谷川図書屋敷にそって右に曲がった先で左に折れている〕が、三田用水を渡ったところに御狩場の「木戸」があり、その奥に、濫りな立ち入りを禁ずる「制札」*が立てられている。

【参考】 1805(文化2)年5月3日、家斉の御成の際のルートについて

「五月三日

一、駒場原 雉 御成リニ候 

             

一、御道筋 例ノ通リ渋谷宮益町・道玄町角ヨリ長谷川屋敷脇通リ原入口御休所、是ヨリ御場ヘ御用相済ミ…御用屋敷御膳所相成リ申シ候」

とある。

目黒区教育委員会「綱差役川井家文書」同/S57・刊p.27

*  この制札については、嘉陵紀行 第4篇 「文政三年庚辰五月八日遊 駒ヶ原より四方の方位大略圖」

に、以下のように記されている。

駒ヶ原御用地。御用屋敷前より横折て、北の方に少し行ば下り坂あり、坂を下りはつれば田あり、又向へ上がる坂あり、はつれば木戸の外に、ふりよさ松の大木一本あり、制机〔札〕を建、御用地之内無用のものみだりに入べからずとしるさる、北のはづれにも、此制札有、御立場は御用地の内。西の方へよせて土居を築き、木は植られず、四方の限り皆松を植らる。其外には山畑有處も見渡さる、高さ五六丁ある高みなれど、見晴しはなし、原の内に人の行かふ路二三條あり、こは御用地のめぐりに住、民家の人のはづかに出入するのみなれば、草ふみわけたるのみ也

つまり、駒場狩場内は、一切の通行が規制されていたわけではなく、近隣の農民が農作業のために、通行することは可能だったことになる。

現に、江戸名所圖會巻之三、八冊の「駒場野」の図には、嘉陵の言及する狩場南の制札が描かれているが、そこには、制札の脇を通って狩場から出るために、空川に架かる橋を渡っている鍬を背負った農民が描かれている。 

が制札


なお、著者の村尾嘉陵は、徳川御三卿の一家清水家の用人なので、主君に随行して狩場に入る機会も多かったと思われ、上記は、その折の観察記録だろう。 

 

■実は…

この橋の辺りについては、江戸期のそれを含めて意外に史料が充実している面があり*、これから、順次その整理がつき次第、ここの追記してゆく予定である。

*たとえば、明治36年に、前掲の略図の橋から数10メートル下流沿いにあった、東京帝國大學農科大學の通用門から改修された正門の写真
   の大正5年の項末尾

手前左右に三田用水路を渡る橋の欄干が写っている(M35)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843187/10
正門の正式移転前あるが、巨木を用いた門柱は旧正門から移設されている
東大農学部の歴史 - 農学部の黎明 (u-tokyo.ac.jp) 明治11年1月24日の項参照


【追記】江戸期

■この辺り…

三田用水路の、現在の東大裏交差点から京王井の頭線の神泉トンネル西出口にかけての区間は、地面の勾配が緩やかなようで、水路を深く掘ることができなかったことに加え、その勾配の変化のせいか、豪雨時などには度々溢水していた模様である。

■つまり…

東京都品川区「品川区史 続資料編(一)」同/S57・刊
4 宗門改帳・御用留
二六 文化八年 武州大崎村御用留帳
の記録中に

「三田用水昨今満水いたし、駒場原御入口上ノ方溢れ出、御場所相成候間、早速見廻り、明日中築留メ可夜中候、尤其村水車人ゟ度ゝ見廻り、此上漏れ不申様元樋洩れ水差略可被成侯、此状上目黒村旅宿定石衛門方へ可被相返候
巳上 、
  閏八月廿一日          平野鐵之助
             上大崎村・下大崎村
                   名主中」p.187

とあり、
閏3月21日付け文書の次に編綴されているものの、文化年間の唯一の未年は文化3(1806)年であるところ、同年には閏8月はない。前年の文化2(1805)年には閏8月があるので、何らかの理由で文化3年の文書の中に前年の文書が編綴されていたものと思われる。)

また、

「一 三田用水昨夜ゟ出水いたし御入口へ押流シ、其外水上ミニ而切所出来致候哉御馬道流込、此節御普請中之処、此出水ニ而差支罷在候間、此御用状披見次第只今可被罷出候、尤我等共駒場原御入口罷在候間可被相届、其節此書付可被相返候、以上、
   八月六日    平 野 鐵之助
        上大崎村
         水車人 鐵 蔵
              右村役人
 人足両三人召連可披罷出候、」pp.213-214

この文書は、未8月2日付け文書の次に編綴されているようなので、先に記したとおり、文化年間の唯一の未年である、同3(1806)年のものと考えて問題ないだろう。

とあり、この時期。毎年夏(太陽暦では、どちらも9月末ころなので、おそらく台風で)溢水していたことになる。

■ここに…
  • 御入口とあるのが、略図の木戸のあたり、
  • 御場所とあるのが御狩場、
また、
  • 御馬道とあるのは、同図上方の御成道
を指すと思われる。

【追記】明治期

東京都公文書館・蔵
請求番号 610.A6.04/編綴番号 087
「往復録・乙号 〈土木課〉明治13年1月ヨリ6月マテ」中
「海軍主船局より目黒村三田用水路変換図面の義照会」第6号図面
M13.04.30付け



に、御狩場入口より約200m上流部にあった神山(分水)口付近の水路について、三田用水路の流量を、従前の約260坪(坪=1寸平方)に、現在防衛研究所のある場所に海軍が設置する火薬製造所で使用する約100坪を増量するための水路の改修図面がある。

■この…

図によれば、この場所では、箱樋を作り、その上端を従来の地表面から5寸高い位置に設置し、その両側に盛土をして補強していたことがわかる。

 もし、可能だったならば、水路を掘り下げることによって、このような箱樋を設置する必要はないし、その方が、施工についても後のメンテナンスについても、コスト面でも有利なはずなのであるが、おそらく水路を掘り下げると、そこから先の勾配の確保が難しかったために、このような手法を採用するしかなかったのだろう*

*後の昭和初期に、大日本麦酒が工事費の全額を負担して行われた、三田用水路の暗渠化の際には、さらに、面倒な手法で、このあたりの勾配を確保していえ、今後追記予定である。

■これに対し…

典型的と思われる三田用水路の断面図といえそうなものとして

東京都公文書館・蔵
請求番号 310.D7.13/編綴番号 2
「三用水路架橋【位置図 設計図】〔荏原郡目黒町大字上目黒字駒場859〕《東京帝国大学》」S03.09.21付け


を挙げることができる。

■ここは…

目黒区のほぼ西端の三角橋から東方向に200mの下流部に位置する、現東大リサーチキャンパス正門前に現存する橋

の設計図であるが、先の神山口付近の地表面から水路底までの距離を図面上で比例計算すると、約1.0m程度と見られるのに対し、こちらは、実際の欄干の高さが



が約57.8㎝なので、こちらの位置では、地表面から水路底までの距離は、図面上で比例計算すると3.0m程度はあると思われる。

【追記】210507

東京都立大学学術研究会・編「目黒区史 資料編〔第2版〕」同区/S52・刊
「鏑木家文書」「三二 安政四年五月三田用水路橋修理入用書」p.240 に
三田用水の上流部に架かる橋6か所の改修時のデータに「深サ」つまり、橋(略・周囲の地表面)から、変動のある水面までほ測っても意味がないので、水路底面までの距離が記載されていた。

 これらのうち、神山口~御場入口に近い、下流の3橋については、現在でも位置も少なくとも誤差範囲で特定できるので、順次、下流側から順にこれらを挙げると

代々木村地内
字ニッ榎         〔二つ橋〕
一、石橋 深サ 七尺   〔約2.1m〕
 

同所〔御場内〕ニ而中ノ杉 〔駒場橋〕
一、石橋 深サ 一丈一尺 〔約3.3m〕

   御場内二而字三角      〔三角橋〕
   一、板橋 深サ一丈二尺   〔約3.6m〕
        Half Mile Project:調査サブノート「三角橋」とは 

 

とされ、下流に向かうに従って、水路底面が地表面からみて浅くなっていることがわかる。

水路底面の勾配は、急に緩く変化する場所があると、増水時に、そこで溢水する危険があるので、できるだけ一定に保とうとしているはずであるから、深サの変化は、いわば水路の理想的な勾配に対し、周囲の地表面の勾配の方が強かったことを示していることになり、先の神山口の深サをみると、この傾向がこの先御場入口近くまで続いていたことになる。


■このように…

三田用水路の神山口から御狩場入口を中心とする地域については、地形の関係で水路底を深く掘り込むことができなかったので、少しの増水でも、先の文化期の記録のように溢水してしまったのだと考えられる。

【追記】昭和期

当方のWebページの、ここ


を、とりあえず、ご覧いただきたい。

 この辺りの、水路とその勾配に大きな変化をもたらしたのは、昭和はじめの、大日本麦酒が工事費の全額を負担して行われた、三田用水路の暗渠化工事である。

 今後、その観点から、上記のWebページの「まとめ」を、ここに、後日追記することを予定している。

【資料映像】2008年ころまで残っていた、暗渠化工事後のコンクリート製置樋
      現在も、後記「神山口」付近は残され、保存される模様

東端部

西端部

元・神山口

2008/09/06 置樋の解体工事
外形は方形だが、内部の水路の断面は(神山口付近を除き)円形だった

2021年2月21日日曜日

天保4(1832)年の三田用水分水口と、その後の変遷

 ■国立公文書館・蔵の…

「羽村臨視日記」〔羽邑臨視日記

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000001846.html

の6ページ目に、天保4(1832)年当時の、三田用水の取水圦の絵があるのを見つけた。

画ノ通〔り〕甲州道中新町通り下北沢村地先三田用水
分水口を見届〔け〕初めて秩父淺間邊の山を見届〔け〕候

と読むのだろうか?
それにしても、今の世田谷区北沢5丁目から
(サイズはともかく)浅間山が見えたのだろうか。



















 





 

【参考】 寛政元(1789)年の改修記録 

 【野崎家文書】「三、天明八年 三田用水頓吟味中日記」

 渋谷区「渋谷区史料集」同区/S57・刊 p.45 

   乍恐以書付奉申上候、
一、三田用水組合村々惣代之者奉申上候、
右三田用水圦樋大破仕候二付、去申年御入用御普請奉願上御見分御吟味相済、普請被仰立被下置候処、只今以御下知無御座候段被仰渡奉畏候、然所最早苗代時節も相趣候付、用水懸渡申し度奉存候へ共、右圦大破付去申年中も漏水等仕候故、御上水方御役所ゟ度々御察当有之候付、此度御普請奉願上候段申上置、用水取入口築留置申候、右之次第御座候得は当用水引方御願可仕様無之難犠任侠、何分御慈悲急々御普請被成下候様偏奉願上候、
以 上 、
 寛政元年酉四月六日  三田用水組村々惣代
            下渋谷村野崎組
             名主 善 右 衛 門
            上大崎村
             名主 喜  太  郎
            今里村
             名主 八 右 衛 門 
伊奈摂津守様
     御役所

 

【参考】編者不明「文化六巳年調 上水方心得帳」

〔推定〕幕府御普請方・蔵/森 左太夫・写

 森は「弘化二~嘉永六(1845-53)年あしかけ九年にわたって普請方改役を務めた人物である(坂誥智美『江戸城下町における「水」支配』1999 図5)という。 」(後掲「江戸上水…」p.324)

に、

一 三田用水引取分水口、矢筈形の場所え芥掛り候へは、右引取村方にて取揚候、右取揚候者は代田村内に住居いたし候佐五右衛門と申者に付、上水路見回り候者及見候へは可申渡候事

とある由*

この上流の、北沢用水や烏山用水などについては、このような「決め事」はみあたらない 

*榮森康治郎, 神吉和夫, 肥留間博 編著「江戸上水の技術と経理 玉川上水留・上水方心得帳 : 増補CD版」クオリ/2006・刊 p.314 

■なお…

国会図書館・蔵の、いわゆる「貞享〔1664-1668〕上水図」の写しと思われる

玉川上水大絵図. [4]
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2589442

書題「貞享の頃 玉川上水大繪圖 貞」

各図を PhotoShopで合成













の左上隅には、三田・細川両上水の取水圦が、堰だけ妙にリアルに描かれている。

「武藏通史」によれば、両分水口の距離は3町ばかり(328m)としている由
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 p.138














■この…

分水口は、先の天保期の後、史料上少なくとも2回の改修を経ていることになるし、それが3回以上である可能性もある。

  • この絵の17年後の、嘉永2(1849)年4月に、この取水圦は、石造に改修されている*1
    〔仮に「嘉永圦という」〕
*1 品川町「品川町史 中巻」同町役場/S07・刊 p.488
  東京都渋谷区「新修渋谷区史 上篇」同区/S41・刊 p.515

 大正12年の関東地震で、江戸末期の取水圦が崩壊、昭和2年に東京府の水道局の施工により新たな取水圦が設置され*2

  • 〔仮に「昭和圦」という〕
*2 三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊〔以下「江戸三田」という〕 p.71


東京都公文書館・蔵
【公開件名】三田用水火薬庫分水取入口改造並水路護岸工事南出豊作
の「計画平面図」を白黒反転












同上














後者の取水圦が昭和40年代の通水停止まで使用された。

ということになっているが…

どうも、それだけに止まらないようなのである。

■もっとも…

先の「嘉永圦」と「昭和圦」との間に、以下のような小さな変化があったことはわかっているし、昭和圦完成後も同様である。

●明治4(1871)年

  高輪南町の肥後七左衛門の飲料水9坪が認められ、三田用水に合流された。*3

*3 「江戸三田」p.50(「三田用水取調表」)
  小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団;玉川上水と分水の会/2012・刊〔以下「小坂・近代化」〕p.74

 

東京国立博物館・蔵 「玉川上水線路図」〔抜粋〕
「三田用水田用水」に加え「三田用水呑水」の独立した取水圦と水路が描かれている















高輪南町は、品川駅前の柘榴坂下から南方向の海岸沿いの街場である。

もともと、柘榴坂沿いには幕政時代から水路があった。

諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ  参照

一方、明治中期には柘榴坂の、南方にあった岩崎家(旧伊藤家)、毛利家、北方にあった高輪御用邸が三田用水の水を利用していた(「江戸三田」 p.156「三田用水普通水利組合明治廿九年度歳入出総計予算」など)が、肥後家への分水が後にこれらに転用された可能性がある。

【追記】

東京都水道歴史館のデジタルアーカイブ
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/
中の、
玉川上水白堀分水絵図
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/content/detail/K0264
の5ページ目に、三田用水の取水圦の下流5間の位置に「後藤象次郎*分」として、縦横3寸、水積9坪の取水圦が描かれている **

反時計回りに90度転回

*元土佐藩士で、明治政府の高官を勤め、後に板垣退助と共に自由党を結成した後藤象二郎であれば、後の高輪御用邸の場所に屋敷を構えていた
 
【三校】法史の玉手箱_vol48_表面_Yellow green (moj.go.jp)

** 解説では「制昨年不詳」とされているが、玉川上水の分水口が統合されてるので明治3年以後、海軍火薬製造所への分水が描かれていないので明治13年以前である
 小坂 克信「玉川上水の分水の沿革と概要」(公財)とうきゅう環境財団/2014・刊pp.39,59

なお、同アーカイブ中の、明治12年~明治22年作図とされている

玉川・神田両上水平面図
https://www.ro-da.jp/suidorekishida/content/detail/K0268
の2ページ目には、千川上水と三田用水の水路が描かれていて、その三田用水の取水圦の上流に、後記の明治13年に設けられた「海軍省分水」は描かれているが、先の後藤分の分水は描かれていない

水の速力や水量が緻密に計測されている

●明治9(1876)年

後に駒場農学校となる勧農局牧場のために三田用水から新たに分水された。

もっとも、分水口には追加・変更はなく、従来のままだったため「水行速カナラシムル為メ元玖樋口象鼻へ三寸ノ坑木ヲ打チ立ルコトヲ許可ニ相成タリ。」とされている。

三田用水のミッシング・リンク解消〔 その3:駒場農学校〕 参照

●明治13(1880)年4月

当時海軍が設置した目黒火薬製造所のための1尺四方(水積100坪)の石造*4の取水圦が、三田用水のそれのすぐ上流に新設され〔「火薬庫圦」という〕、16メートルの水路を通じて、従前からの三田用水に合流された*5

 *4 「小坂・近代化」p.90

*5「江戸三田」pp.217-218

但し、海軍造兵廠と組合間の明治24年の條約書の第2条但書では、48尺(14.544m)とされている(目黒区史資料編・同区/S37・刊p.1000)


下(北)が上流、左(東)が「三田用水口」の前記嘉永圦(推定)、右(西)が「海軍火薬庫用水口」
東京都公文書館・蔵
公開件名「三田用水引入口漏水あるを発見に付修繕方三田用水普通水利組合管理者荏原郡長村上佳景へ照会の件」中上申書付図(M30)

前図からみて、三田用水の嘉永圦を踏襲した構造・仕様と思われるので、
寸法は当然異なるが、嘉永圦の構造・仕様もこの図と同様だろう。
小坂克信「玉川上水の分水の沿革と概要」
https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf
p.58より転載


●昭和4(1929)年

大日本麦酒(現・サッポロビール)が工事費の全額を負担して、ここから同社の目黒工場(現・エビスガーデンプレイス)までの約5キロメートルにヒューム管を敷設する暗渠化工事が開始され、総工費約24万円を要したこの工事は、昭和10年に完成した。*6

その際、昭和圦のすぐ下流に水量監視用と思われるプールを残して、そこにヒューム管を接続して、そこから下流部分は従来の開渠が埋め立てられている。

*6 サッポロビール株式会社広報室社史編纂室「サッポロビール120年史」同社/H08・刊 p.512

【追記】

の「日本ヒューム管株式会社」のページに、「東京府三田用水管使用 内径四八インチ」と題した写真が掲載されている。


●昭和16(1941)年

これは、水路自体にかかわることではないが、皇紀2600年のこの年、三田用水普通水利組合が設立50年を迎えて、取水圦敷地の南端近くに鉄筋コンクリート製の弁天堂を建立した*7

もっとも、同地に弁天を祀ったのは、昭和圦の工事の際に地中の巣から大量に現れたヘビの供養のためとのとなのだから*8、工事が行われた昭和初期から10数年も放っておくとは思えず、おそらく工事の直後に小さな堂を建ててあったのではないかと想像しているのだが、そうだとすると、先の水量監視用のプールにかかっていた太鼓橋はやや大げさすぎ、そちらも、昭和16年の堂と同じコンクリート製なので、これと同時に架けられたものなかろうか。

*7 「江戸三田」p.71-72
*8 
「江戸三田」p.72

「江戸三田」p.73
なお、ちょうどこの反対方向から、昭和43年に撮影された鮮明な写真が
加藤嶺夫「東京消えた街角」河出書房新社/1999・刊 p.126 にある




















「三田用水普通水利組合所有地 地籍測量図」S59.09 より引用










【追記】

暗渠化後の取水口直下の太鼓橋のあるプール状の部分、上流側と左右の側壁は、昭和圦のそれをそのまま利用していたように思われる。

前記:東京都公文書館・蔵
【公開件名】三田用水火薬庫分水取入口改造並水路護岸工事南出豊作
の「計画平面図」を抜粋


■疑問の残るのは…

「火薬庫圦」の設置から「昭和圦」の間、いいかえれば、明治13年以降の「嘉永圦」と「火薬庫圦」が2つ並んだ状態は、大正12年の関東地震まで続いていたのか、にある。

この疑問が生じたのは、その状態を地図で確認できるのではないかと期待して探していた

M42測・1万分の1地形図「中野」

のうち地震直前の時期に発行された「T10修測2」図を2010年になって入手できたときである。

しかし、同図をみると

M42測T10修測2・1万分の1・中野+同・世田谷の接合図〔抜粋〕






















見てのとおり、取水圦が2つ並んでいたり、三田用水の水路の西に16メートルの水路があるようには見えないのである。

■これだけの…

話ならば、道路と同じようにあまりに細い水路は、作図上省略されることもあるので(現に、三田用水からの分水もあらかた表記されていない)断定はできないのだが、もう一つ気になる地図の変遷がある。

それが、「江戸三田」の巻末にも綴じ込まれている「東京市水道水源水路之圖」である。

「江戸三田」巻末の図で、三田用水の水路のあたりを見ると



これに対し、同名の図は
遠山椿吉「東京市改良水道ノ衛生学的観察」掬精書屋/M38・刊
にも綴じ込まれているのだが
こちらの、三田用水路のあたりは




となっている。

前者は、水路が白抜きで描かれていて、玉川上水から三田用水などへの分水部分は、明確に二股になっていて、嘉永圦と火薬庫圦を反映しているのに対し、後者は、水路部分がハッチングされているので、この部分の判読は難しい。

しかし、両図の明確な違いは、用水路の名称の表記にある。

すなわち、

前図では
右(東)側に、三田用水
左(西)側に、海軍火薬製造所水
と2つの分水があることが明記されているのに対し、

後図では
       三田用水
とだけ表記されている。

これらの地図のオリジナルの図が当初つくられたのは、和田堀から明治31年に完成した淀橋浄水場(現・新宿副都心)までを結ぶ、玉川上水新水路が描かれているものの、浄水場自体は文字で表記されているだけで、他の水道施設のような建屋などが描かれていないことから、同場の工事期間である明治25年から30年の間に作図されている可能性が高いのだが(また、水衛所の一覧表に〔四谷〕大木戸もリストアップされている)、後図の発行は明治38年なので、この間に、2つの取水圦になんらかの変更が加えられている可能性が否定できないことになる。

【追記】
改めて探すと、明治13年の火薬庫用分水口の新設後、それが変更されたことをうかがわせる2つの史料がありそうなことがわかった。
(1)明治16年
東京都公文書館のデータベースに
明治16年7月4日 海軍兵器局長より三田村火薬製造所に係る玉川上水分水樋口変更工事着手の義照会に付、三田用水は合流の水路に付同用水組合年番戸長へ通知
ほか1件の記録
(2)明治33年
「品川歴史館資料目録 三田用水普通水利組合文書」品川区教育委員会/H09・刊
「(2)文書」中p.12に記載の
37 明治三三・十二・六 火薬庫分水口見積及仕様表 石工 清水文次郎→荏原郡役所
38 明治三三・十二・八 三田用水分水通り豊口見積仕様書  大工 富川作次郎→ 荏原郡々長 村上佳景 
39 明治三三・十二・十二 通知案(目黒火薬製造所原樋の件起案文書)荏原郡役所~清水条吉他二名
なる文書

【補記】「用水路」の改修記録

史料上、以下の2回、三田用水の流路あるいは流路上の分水圦について改修が行われたとされているが、いずれについても、上記の玉川上水からの分水圦については、言及がない。

1 安永4(1775)年ころ

 【野崎家文書】「七、安永四年十二月 三田用水普請につき和融証文」
 前掲「渋谷区史料集」pp.73-74

為取替証文之事

一 三田用水路当春入江市郎兵衛殿御水盛有之、仮普請御積ニ御座候処、下手村方ニ而己無相違普請出来仕候、然ル所上郷請前普講場所を拾ケ村ヨリ月延願致罷有候、然ル所当村上郷請前之致普請候様ニ下郷ゟ願出候ニ付、従御役所上郷村々江御尋御座候ニ付、上郷ゟ申上候は、右御仕法之儀相破レ候様ニ是を申三名味合〔マヽ〕申立候処、此度吉岡金蔵殿御出役被成候ニ付、下郷ゟ申上候は当春仕越普請仕候故、右、残場所此節上拾ヶ村ゟ是悲〔非〕し候様ニ申上候処双方御糾之上御利〔理〕解被仰渡、猶亦上渋谷村名主佐平次・桐ヶ谷村名主茂兵衛右両人取扱有之、右取扱之趣は下郷村々を下北沢大□下より猿楽塚迄白掘之分御積通仕越普請致候ニ付、右猿楽塚ヨリ上ノ谷堀割迄白堀之分は上郷拾ヶ村請持ニ致、勿論御糺を請候共又は水行見届ケ双方熟談之上水引キ方相附候共、右町場之分を上郷ニ而仕立可申告取扱被申候段双方致得心候、然ル上は右仕〔マヽ〕を普請仕後レ普請場共ニ前文之通相定候上は、後日二双方違乱仕間敷候、尤此上用水引方幷本普請ニ至候てハ諸事新ニ町歩割をは引請、都て上下致合躰、此上御入用願仕候共、亦は自普請之企致候共上下和融を以本普請致、分水甲乙無之様相互ニ取扱ひて争論無之様組合一統可申候、仍て為取替証文如件

安永未年十二月

〔以下、北品川宿ほか関係村々役人連署〕

〔この間に、前記寛政元(1789)年の取水圦改修〕

2 寛政9(1797)年
 前掲「品川町史 中巻」pp.488-501

 「御料、御霊屋料、私領、寺領、出来形帳拾四ヶ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」

 同年幕府が費用を負担する「御普請」として行われた三田用水の水路や分水圦の改修工事の、幕府代官と思われる「大貫次右衛門様御役所」宛ての報告書であり、原文には、各分水圦や桝形の仕様、用材や費用の内訳が詳細に記載されているらしい(なお、人工や明俵、縄などの補助材は民間負担)。

 この文書には、武州荏原郡代田村地内の山下口以下以下、最下流の久留島上口(右岸、左岸2か所)について上記のような明細があるが、玉川上水からの分水圦については記載がない。
 
 この大規模な改修は、上記1の、新たに「水盛」*までした大規模な「模様替」からわずか20年後のことであり、後世我々が想像するよりはるかに頻繁に普請が行われていた模様である。

*この種の普請において、いわゆる基本設計を「見立て」と呼び、同じく実施設計(または、そのための測量)を「水盛」と呼んでいた。

【追記】
3 安政4(1857)年5月
  目黒区史資料編 鏑木家文書 pp.270~
   「三田用水路橋修理入用書」「三田用水路床下入用書」

 前者には、
取水口より下流、二ツ橋までの6か所の橋の修理費用
 後者には、
取水口より「五番石橋」(=中ノ橋。後の駒場橋)までの800間(1456m)
同所より「中渋谷村分水口」(神山分水口)までの503間(916m)
  の「床下」つまり水路底の浚渫ないし掘下げ工事の費用
 が記録されている 

【参考事例】
品川区教育委員会事務局生涯学習部社会教育課・編「品川用水『溜池から用水へ』」品川区教育委員会/H06・刊
のp.31に「品川用水御普請場の補修工事の年表」*があったので、参考事例として引用する。
*原典は、編纂委員長倉本彦五郎「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)pp.42-44

なお、表中「境」は、下の写真の品川用水の玉川上水からの取水圦であり、三田用水の下北沢のそれと、ほぼ同一条件とみてよい。
また、「〔宝永〕7(1704)」とあるのは「〔宝永〕7(1710)」の誤記である。


詳細な分析は未了だが、おおむね10数年ごとに伏替つまり全面改修されていることがわかる。

前掲「沿革史」口絵より
下部にエンボスされた文字が見えるので、専門の写真師の撮影によるものか




同上
したがって、三田用水の分水口についても、先の

・嘉永圦〔嘉永2(1849)〕から火薬庫分水の新設〔明治13(1880)〕までの31年間に、少なくとも1回の
・火薬庫分水の新設から関東地震〔大正12(1923)〕までの46年間に、2、3回の

「伏替」が行われていて、何の不思議もないことになる。