2020年5月30日土曜日

三田用水:北沢五丁目の玉川上水からの取水圦から三角橋を経て溝が谷分水の上流部まで(と、北沢用水合流部までの概略)

■この…

緊急事態宣言下、運動不足解消と、リフレッシュというよりモニタの見続けで に合わなくなってきた目の焦点調整、のための散歩先。

三田用水とその分水路は、繁華な場所が少なく、3密を避けるのに理想的。
最近見に行っていない場所も結構あるし、そこそこのアップダウンもあるので、久しぶりに順次「カメラ散歩」しています。

なお、
・三田用水の歴史・概要などは こちら
・三田用水のほぼ全域のマップは こちら (ダウンロードすることをお奨めします
をご覧ください

■今回(20/05/26)は…

世田谷区北沢の取水圦から溝が谷〔みぞがや〕分水の分水圦のあった三角橋、そして溝が谷分水の京王井の頭線の築堤までの上流部。



今回は、このStart から End まで

この地域、50年以上前に自分で撮影したものも含めて、古い写真もあるので、いわゆる「今昔写真」のご紹介も。

■最寄り駅は…

京王線笹塚駅。駅の西寄りが旧玉川上水とクロスしていて、元の水路が緑道型の広場になっています。


緑道を南に進み、道路に出て…

道路から北方向。画面奥が笹塚駅



 道路を渡ると…

旧玉川上水の水路


土手にはネズミ、水路には小魚がいて小動物にとっては「ご馳走広場」。
当日も、アオダイショウやカメを見かけました。
居合わせたご近所の方のお話では、ときどきサギが小魚を食べに来る由。

そのまま水路沿いに南に進み、次の橋のところに出ると…

三田用水取水圦

【今昔写真(その1)】



正面やや右の柵のある斜めに水路が広がる場所が取水口。
三田用水と目黒の海軍研究所のための鋼鉄製の水門が並んでいた。

【今昔写真(その2)】

取水圦のあった場所を南から撮影





 ■その1の「昔写真」の…

丁度、中央上部に背の高い黒っぽい建物がありますが、これは弁天堂


後記「江戸の上水と三田用水」p.73より


今の、このあたり。

新たに入手できた資料で、
弁天堂は、画面手前右手の木立の中にあったことが分かった

【追記】

「三田用水普通水利組合所有地 地籍測量図」S59 ①図抜粋















■この先は…

昭和50年代半ばころまでに、一部が道路に転用されたほかは、ほとんどが売却されて宅地になっているので、水路跡そのものを辿ることはできません。

そのため、旧玉川上水と水路を挟んで反対側の北沢五丁目の商店街を南に下ります。

この商店街も、ご多聞に漏れず、主として飲食関係を残してシャッター街化してしまっています。
比較的最近まで、漬物の製造販売のお店とか、お肉屋さんや八百屋さんも残っていたのですが…

【追記】

フィルムスキャナの画像のタイムスタンプから判断して、2004年初夏ころ撮影  by summicron35Asph.
このダイコンの葉っぱ。ゴマ油とおしょう油で炒めて、大変美味しくいただきました。























たまたま、PC内のデータを整理していたところ、↑の「お漬物屋さん」の古いリンク先が見つかった。
archive.org でトレースしてみたら、このマルイ漬物さん、今は姫路でご活躍中であることがわかり、
https://www.maru-i.info/pages/209551/history
なぜか安心した。

ほぼ井の頭通りに近づいたところの、道路が「グニっと曲がっている」場所。

前掲「御場繪圖」参照

 ここで、道路の東(左)側から流れてきた水路が道路を渡って西(右)にそって流れを変えていました。

前掲・地籍測量図 ④図 道路交差部 抜粋





■そのまま…

南に進むと、井の頭通り


 正面の赤い屋根の建物の場所が水路敷、つまり、土手-水路-土手のエリア。その右は、旧北沢小学校、現池之上小学校仮校舎。
(さらにその右(西)に三田用水の山下分水跡がありますが、それは、いずれ、別アーティクルで)

ここから、駒場道(補助26号線)までの間の旧水路敷に「豊世稲荷」というお稲荷さんがかつてありました。

【今昔写真】



解体直前の姿。
道路から奥まった場所で目立ちませんでしたが、参道に街路灯を設けるなど
地域の人たちが大切に祀っていたことがわかります。

 ■駒場道を…

さらに南に進むと、小田急線東北沢駅の東にかつてあった、代々木上原3号踏切跡。

その南寄りに、三田用水が小田急線を潜っていた逆サイフォンの立坑が、今は鋼鈑の蓋が被されて残っています。

【今-写真】



 【-昔写真】
は、いっぱいあるので、こちら
https://mitaditch.blogspot.com/2017/03/blog-post.html
で。

■さらに…

南に進むと、三角橋ですが、その前に、もう1枚…

【今昔写真】


正面の木で覆われた部分(測量用のポールが立っている)が水路敷のうち、西側の土手の部分
■さらに南の…

溝が谷分水の分水圦のあったあたり

右が、松蔭学園の校舎。
構内に「高校三年生」の石碑があり、季節によっては本当に「赤い夕陽が校舎を染め」る。
今は共学校だが、昭和30年代は女子商業高校と共学の定時制高校が併設されていた。

【資料映像】

2011年01月10日撮影












校門左奥の『高校三年生』の歌碑

 


解説文
赤い夕陽に染まる校舎の場所には諸説あるがこれで「確定」





























を経て

 ■いよいよ…

三角橋。

ここで、駒場道は東に大きく屈曲するのですが、そのために、

【今昔写真】



昭和43年ころ

 かつては、この交差点から東京タワーが真正面に見えたのです。
(ちょうど画面の中央。今も残る大きな木のすぐ左下)

なお、同時代の逆方向からの

【今昔写真】


昭和45年ころ

■ここは…

すでに、写真左手は目黒区、右手は渋谷区なので、三角橋の交差点(ここも目黒区ですが)に戻って、溝が谷分水跡をたどることにします。

【参考】




東北沢方面からみると右折すると、すぐ左手に松蔭学園の正門


この道路の向かいは、補助26号、同54号線の敷地とするために空地になっていますが…


この空地を囲む、向う方向に建つフェンスのラインが、三田用水から分水されたばかりの溝が谷分水の水路だったはずです。

水路は、先ほどの学園の正門あたりで、右折し、道路沿いを南に流れて、

今の、正門から2つ目の左曲り角


で左折して溝が谷に入ります。

【今昔写真】



昭和43年ころ

■上の写真では…

画面左側をかつては流れていて、この



あたりで、道の下をくぐって、画面右奥の道路の右端に流れを変えています。

ここから、最後の方の写真にある京王井の頭線の築堤までは、当地に越して来た昭和30年代半は、まだ開渠のままで、その後もいわゆる蓋付暗渠に改修された状態が長く続きました。
(手前側の道路は開渠でも暗渠でもなく、ただ側溝があっただけ。年に2回くらいは道路が川になっていました。)

■ここからは…

なぜここが「溝が」なのか、一言でいえばかつては勿論、今でも「文字通りの『渓谷』」であることを、実際にご自身で体感していただきたいので、くどくどとご説明はしません。

ちなみに、ここは、江戸時代(というより、おそらくそれ以前から)に、吉祥院という山駈修行をする「修験道」の寺院があったほどの場所なのです。

中ほど北側(左岸)の崖線(東大駒場のリサーチセンターの崖)
中ほど南側(右岸)の崖線
見る人が見ればわかる「水路跡のお約束」
が「いろいろ」と…

今回の終点、京王井の頭線の築堤近くの北側(左岸)の崖線

同じく南側(右岸)の崖線
溝が谷の築堤を走る京王井の頭線
現在、防風フェンスの工事が始まっていて、この光景は間もなく見られなくなります。
【追記】

井の頭線の築堤だけでなく、近い将来、補助26号線の工事で谷全体の光景も大きく変わります。


【参考資料】

■下北澤村「吉祥院」顛末考
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/02/post-3f31.html
■下北澤村「吉祥院」起源考 
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/01/post-a1bc.html
■「代田村飛地 字溝が谷」 

【準=今昔写真】

【資料映像】ツツジが盛りたったので2020/05/09に撮影

【資料映像】築堤がまだ手付かず?だった2014/05/11撮影
 【参考図】
上図の の位置が築堤
■井の頭線から南の…

溝が谷分水は、下図のようにほぼ直線的に、南に流下し、北沢川(北澤用水)に合流することになる。

M42測 1/10000地形図
「世田谷」抜粋

 なお…
水路が井の頭線と交差する前後の区間は、昭和40年代前半までコンクリート護岸された開水路が残っていた
反対に、 分水口から溝が谷の谷までの区間は、前掲の「民有用水路公用廃止」図面のように、昭和始めに、用水路のうち民有地部分は廃止され、残る公有地部分(青線/青道)も、公図上は長く残っていたが、実質的には道路の側溝として下水路としての機能が残されただけになった(もっとも、この地はもともとは自然河川の上流部だったせいで、年に2回位は豪雨時に道路が川になる状態が、本格的な下水道整備まで続いた。我が家もそうだが、写真のように敷地の道路沿いに擁壁のある家が残るのは、そのためである
同様に、用水路が淡島通りと交差する附近の北側一帯は、ほぼ同時期のの昭和3年ころ、水路の主として西の脇の地域が数百坪単位の階段状の宅地に造成され、清風園と称する分譲地となった際、暗渠化されている※1
 左図の下方の紫色の線の部分は、明治13年の迅速測図によれば、北沢川(北澤用水)の流路であり※2、その当時は、分水路は淡島通りを潜ってほどなく北沢川に合流していたことになる。北沢川が改修された後は、合流点から東側の川路の一部が分水の水路として残されたようで、ほぼそのルートで今も暗渠が残り、一部は未だにいわゆる蓋付暗渠となっている※3

 ※1

「清風園」の宅地分譲広告

東京朝日新聞 昭和3年12月1日号掲載の由

分譲地内の道路

google books 蔵
昭和3年12月18日付け「警視庁/東京府公報」掲載の
建築線指定(現在の「道路位置指定」に相当)の公告
最南部では、旧水路の場所が宅地化されていることが分かる

※2

M13 1/20000 迅速測図
「東京府武藏国南豊島郡代々木村荏原郡上目黒村近傍」
より、溝が谷分水・北沢川合流点付近抜粋

※3

北沢川旧水路→溝が谷分水末流部の蓋付暗渠

2019年2月16日 撮影

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