■ 三田用水については…
集められる資料も、ほぼ尽きたような状況。
それでも、ネットオークション(とくに、年末年始やお盆ときには「お化け」が出る)や日本の古本屋の時折のウォッチは欠かせないのだが、この先は、結構細かい変化やその経過が主なテーマになりそうである。
■そのため…
・もともと、区内に流路があるなど世田谷区と関係が深いこと
・もう半世紀以上前に、品川区内の末流部近くに住んでいたこと
品川区大井三丁目:大井分水末流部 |
三田用水研究: 【域外】品川用水「恵澤潤洽碑」建立記念写真集 参照
から、品川用水について、これまで以上に調べてみる気になった。
(なお、三田用水研究: 三田用水(附:品川用水)の分水樋 で、地蔵の辻をはじめ、武藏小山附近のいくつかの分水に触れている)
■まずは…
先行研究なのだが、具体的な水路の位置などに触れているものは、意外に少ない。
●世田谷区内の水路と歴史
三田研究(世田谷区郷土資料館郷土資料研究委員 三田義春/執筆)
東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊 pp.57-74+第41,42図)(以下「河川と用水」)
これは「必読」
●玉川上水とその分水中15分水路の1980年当時の状況
渡部研究(多摩美術大学建築科専任講師)
渡部一二「玉川上水系に関わる用水路網の環境調査」 とくに「品川分水」pp.309-317
上記研究成果を再編集したもの(出版時 多摩美術大学教授・農学博士)
但し、調査範囲は境の分水口から北烏山に限られ、また、いわば元祖である仙川用水/入間川養水は対象外である。
●品川用水の品川区内での遺構等の残存状況
同「品川用水における水利施設(品川区内)遺構の残存状況調査」2017
<https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2018/04/G232.pdf>
品川区内の水路遺構の調査結果(水縁空間デザイン研究所〔共同研究者 須藤 訓平〕)
*肩書は、いずれも発表/公表時
加えて、
渡部教授は、世田谷区内と品川区内の品川用水の「面影」をまとめた冊子を、有料/オンデマンドで刊行している由(東京新聞 平成30年5月15日朝刊)。
平成28年1月23日に、世田谷区の烏山区民会館で行われた、教授の「品川用水が残した『面影』を語る」と題する講演の折、世田谷区版の抜刷を頂いたが、区内30箇所の「面影ポイント」について、A4版各1-2ページにまとめたものと地図で構成されているようで、図版も豊富な刊行物と思われる*。
*上記東京紙に明記されている公開情報なので、連絡先を示すと、090-4669-8258 の由。
【追記】
先行研究ではないが、ここ
フォトグラファー渡邉茂樹「品川用水の面影」 | しながわ観光協会
は「一見以上」に値する。
品川区には、単なる「面影」などというものではなく、「名残以上」「遺構以下」ともいえそうなものが残っていることがわかったのだから。
■次いで…
三田用水についての
「江戸の上水と三田用水」
と同様の、品川用水についての基本中の基本文献がある。
品川用水沿革史編纂委員長 倉本彦五郎「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊〔以下「沿革史」〕
がそれで
現時点で、以下の目次だけは国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1066658
で見ることができる。
・ 標題
・ 目次
・ 第一編 緒論/1
・ 第一章 荏原の原始農業/2
・ 第二章 奈良朝の荏原と農耕文化/3
・ 第三章 小田原衆所領役帳と武藏田園簿/4
・ 第四章 農耕開發と用水/10
・ 第二編 江戸時代の品川用水/12
・ 第一章 品川附近の地勢と水系/12
・ 第二章 江戸開府と用水/14
・ 第三章 品川用水の創設/17
・ 第四章 品川用水路と沿道町村/21
・ 第五章 灌漑反別と石高/26
・ 第六章 水路改修と施設/29
・ 第七章 圦樋修繕/40
・ 第八章 用水の減量問題と保護施設/58
・ 第九章 紛爭事件/65
・ 第十章 水利權の擁護/74
・ 第三編 明治時代の品川用水/76
・ 第一章 王政復古と品川用水/76
・ 第二章 用水組合の沿革/78
・ 第三章 品川用水普通水利組合の創立/96
・ 第四章 主要なる事業/117
・ 第五章 組合の經濟/129
・ 第六章 玉川上水と水源費/138
・ 第七章 用水の管理と保護/144
・ 第八章 水車營業/151
・ 第九章 訴願事件一括/166
・ 第四編 大正・昭和の品川用水/172
・ 第一章 灌漑用水の變相/173
・ 第二章 震災復舊並に諸工事/184
・ 第三章 用水保護對策の復活/190
・ 第四章 維持と經濟/193
・ 第五章 管理者と組合議員/207
・ 第五編 内堀組合/213
・ 第一章 品川内堀組合/214
・ 第二章 大井内堀組合/221
・ 第三章 大崎内堀組合/247
・ 第四章 荏原區内堀組合/254
・ 地藏ノ辻と戸越公園/257
・ (附)入新井町/258
・ 附録 品川用水路現状視察記/259
・ 歴代管理者並組合會議員/270
・ 跋/279
・口絵写真
・附録 品川用水路現状視察記/259
■三田用水については…
まず、住まいから半マイルの範囲の、水路跡と思われる場所の巡検から始まったので、品川用水でも、旧水路の巡検から始めた。
とはいえ、家から半マイルというわけにはゆかないので、どうしても公共交通機関による「不要不急」〔これは、間違いなく当たっている。水路跡は「逃げも隠れもしない」ので〕の移動が不可欠だったところ…
・非常事態宣言もとりあえず解除され
・暑からず寒からずの巡検日和となった
うえ、毎週末、いわゆるカメラ日和に恵まれていたので、公共交通機関のなるべくガラガラの時間帶を狙って
・2021年11月06日:小田急線千歳船橋駅から東急田園都市線桜新町駅まで
・2021年11月13日:京王線千歳烏山駅から小田急線千歳船橋駅まで
・2021年11月20日:東急田園都市線桜新町駅から東急東横線学芸大学駅まで
と、順次、世田谷区内の用水路跡から巡検を始めた(多分、次は、
・東急東横線学芸大学駅から同目黒線武藏小山駅まで)。
■しかし…
わかったことは、三田用水路のそれと違って「ワクワク感」が非常に乏しいことにある。
おそらくは、品川用水路は、昭和27年代の半ば、旧水路のほとんど全てが道路として整備されてしまっているためのようである。
三田用水の場合は、最近入手した測量図を見ても、今の道路から数メートル離れて水路が通っていた場所が多く、そのために、ちょっと横道に入ると、水路の境界を示す、旧い御影石の境界石らしきものを見つけたりすることもしばしばだった。
2012/05/05 渋谷区神泉町117-20(同町25番8号) |
それ対し、品川用水路の場合、かつては脇に道路もなかった水路ですら水路ごと道路になってしまっている場所もあるし、脇の道路と水路とを丸ごとまとめて現在の道路にしたのがむしろ原則型といえる状態。
しかも、道路にする過程で、水路の築堤は削り取られ*、用賀にあった深い堀割
「沿革史」口絵写真より |
も埋め立てられて「のっぺらぼう」にされてしまったせいだと思い至った。
*「沿革史」によれば、昭和初期には、粕谷で水無川を渡るあたりには、コンクリ―ト製の高架水路まであったらしい。三田用水の槍が崎水路橋以上の存在感だったはず。
■その意味で…
少なくとも、先の巡検先の範囲では、かつての用水路の遺構らしきものを発見することは、なかなか困難で、それが、渡部教授も「面影」というやや情緒的な切り口で、調査成果をまとめざるを得なかった要因なのではないかと思われるのである。
たとえば、旧水路近くの石造物についてみても、水路との関連を判定するのは簡単ではない。
・橋供養塔
ならば、用水路に架かっていた橋への感謝と今後の安全を祈願して建立した可能性が高いというか、むしろそうとしか考えられない
【実例】北見場供養塔
かつて、現・東京農大正門前、品川用水を、現・世田谷通りが渡る場所にあった「北見橋」のたもとに建立されていた橋供養塔が、長島大榎公園に保存されている。
「沿革史」pp.264-265を総合すると、正面の碑文は以下の通り
〔=阿弥陀如来〕
〔上部〕
天下泰平國土安穏
石橋供養塔 十方夛〔=多〕力
維旹〔=時〕寛政六龍舎甲寅天皐月吉祥之晨
〔下部〕
願主 世田谷邑
宇田川 政右衛門
用賀邑
沢 田 喜 平 治
横根
𫝍 定 兵右衛門
上宿 大 場 甚 藏
「沿革史」によれば、この供養塔は昭和16年当時も橋のたもとにあって(同pp.264-265)、人工水路である品川用水がなければ北見橋もあり得なかったのだから、これは疑いなく品川用水ゆかりの石塔である。
が、現在は、旧水路沿いにはない。
右側面には、下北沢村をはじめ、いわば「おなじみ」の近隣の村名が掘られているが、左側面 のそれには「見たこともない」ものが大半。
ここは、登戸道こと津久井往還という古道かつ要路の通行者が渡る橋なので、「近郷近在」に止まらず、いわば「遠郷遠在」の非常に遠い村々の人々までが、建立に協賛、寄進したことを示すものだろう。
なお、供養塔の左脇には、やはり北見橋のところに建てられていた「北見橋改築記念指道標」(大正3年)も移築されている 。
旧北見橋跡については石碑があるようだが、 本来は、供養塔かこの道標を現地に遺すべきだったはずで そのセンスを疑うしかない |
【余談】
橋供養塔は、目にする機会は少ないかもしれないが、案外身近なところにあるもので、現に大榎公園から北に向かって城山通の1本手前の辻に、おそらく、烏山川に架設されていたものと思われるが、「兩石橋供養塔」があったし
寛政4(1759)年建立の由 世田谷区石造遺物調査報告書Ⅳホ4 p.59 |
後方の建物の建て替え前の姿が、ここ
の冒頭にあった。
世田谷区船橋4丁目41 にも橋供養塔があるようであるが、ここは、船橋神明神社の境内かと思い、2022年4月1日同神社とその北隣の宝性寺に行ってみたが発見できず。
結局、どうやら世田谷区船橋小学校の校地の模様。
ネットの上の画像から判断すると、2基、あるいは3基ありそうだが、ほぼ間違いなくどこかから移されたものだし、画像は、どれも「石橋供養塔」とあるだけでで、烏山用水(烏山川)の橋の供養塔なのか、品川用水のそれなのかも不明*。
*東京都世田谷区教育委員会「世田谷区石造遺物調査報告書Ⅳ」同(世田谷区立郷土資料館)/S60 ・刊 には、どちらも掲載がなかった。やや不鮮明な写真を無理無理解読するしかなさそうである。
【追記】
竹山博彦氏が google map に投稿
した折のキャプション〔クチコミ〕を発掘できた
やはり場所は世田谷区立船橋小学校の校地内で、ここには
品川用水の稗柄橋の石橋供養塔〔文政10(1827年)〕
烏山川(用水)の船橋大橋の石橋供養塔〔寛政12(1800年)〕と近代の標柱
がある由。
供養塔2基のうち、背の低い方(写真6枚目参照)が稗柄橋の供養塔*らしいので、写真から可能な範囲で解読してみると
【正 面:7枚目】「石橋供養塔」
【右側面:5枚目】「文政十亥年三月吉日」
【左側面:9枚目】「武州多摩郡舩橋〓」(右側面の「日」の位置からみて「橋」の下に「村」と刻むスペースがあるかは疑問)
となりそうである。
* 前掲「河川と用水」p.73によれば、同書が出版されたS52 当時は「千歳 台 の 会田氏宅地内に保存されてい」たとのことである。
●その他…
当方の近隣にも以下のようなものがある
・(推定 駒場橋)供養塔
もともとは、三田用水を淡島通りの前身である滝坂道が渡る駒場橋*のところに建立されていたらしい。
*同名の橋が駒場東大の北、いわゆるコスモス通りにもあったが、こちらは明治以降の命名で、近世期でのもともとの名前は、中ノ橋、さらには中ノ杉橋(三田用水研究: 「二ツ橋」起源)
目黒区が設置した、塔の後ろの説明板によると…
いしばし くよう とう ひ
石 橋 供 養 塔 碑
青葉台1-2-19
この碑は、正面に刻まれた「文化九年壬申 石橋供養塔 九月吉祥日」の銘より、文化九年(1812)に建立されたことがわかります。正面上部には梵字が、下部には三田用水沿いの中目黒村、白金村、北品川村〔「宿」の誤〕など十三か村の名が刻まれています。碑の右面には滝坂道沿いの若林村、経堂村、上祖師谷村など二十余か村の名、左面には建立に尽力した人と石工の名が刻まれています。
この碑の前の道は、渋谷区道玄坂から調布市で甲州街道に合流する古道「滝坂道」の一部にあたります。碑に刻まれた内容から、約70m東(左手の尾根筋を流れていた三田用水に架かる石橋に感謝し、建立したものと推測されます。昔は2mに満たない用水路でも、悪天候では増水するなど交通の障害になりました。この碑に刻まれた村名が広範囲にわたることから、安全に通行できる堅牢な石橋が人々の生活に極めて重要であったことをうかがうことができます。
当初は橋の脇(現、青葉台4-2-24付近)に建っていたと考えられますが、昭和47年(1972)にこの地で発見され、マンション住人の方々により保存・修復されてここに設置されました。
平成22年3月
目黒区教育委員会
2012/05/05 文字が読み取れるように水をかけて撮影
・大石橋供養塔
上記滝坂道が、北沢用水(北沢川)を渡っていた大石橋のために建立された供養塔
世田谷区生活文化部文化課・編「ふるさと世田谷を語る 代田…」同課/H09・刊pp.61-62によれば、大石橋架設のために諸国を行脚して寄進を集めたという行者藤助を顕彰するために天明9年に建立されたものを、昭和10年に再建立した「日本廻国供養之石塔」で、建立者の供養が主な目的かもしれないが、橋に感謝し通行の安全を祈願していることも明らかなので、これも橋供養塔の範疇に含めてもよいだろう
(もっとも、大石橋は「古・甲州街道」とも言われ、前記の青葉台の供養塔の説明文にもあるように、下図のとおり、もともとは自然河川だった北澤川を用水化した北澤用水に、少なくとも中世期まで遡れる古道かつ主要道である滝坂道が渡る場所なのだから、元々橋が無かったとは考えにくい。したがって、この伝承をどこまで「実話」として「真に受け」でよいかは別問題ではある。)
国立公文書館・蔵「目黒筋御場繪圖」抜粋 矢印が大石橋 |
庚申/地蔵堂の右脇に雨ざらしで建っている 世田谷区石造遺物調査報告書Ⅳロ28 p.39 |
・庚申橋供養塔
渋谷区東三丁目の澁谷川に架かる庚申橋の供養塔
比較的少数派と思われるが、庚申塔でもある。これが、他にも数ある「単なる庚申塔」と見られていないのは、通常は庚申信仰の講社が地域単位で結成されることが多く、建立・寄進者は近隣の者に限られる、つまり地縁集団によって建立されることが多い*のに対し、ここの場合は、かなり広汎かつ遠隔地の寄進者の名前が刻まれている**ので、近隣住民に限らず、この橋を通る多くの人々の賛同と寄進によって建てられたという橋供養塔の特徴を備えているためと思われる。
*杉浦健一「地縁集團の神と血縁集團の神」民族學研究1(2),pp.344-354, 1935 p.126
**渋谷区教育委員会の設置した説明板によれば、渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪に及んでいるという。
https://ebisufan.com/news/%E6%81%B5%E6%AF%94%E5%AF%BF%E5%BA%9A%E7%94%B3%E6%A9%8B.html
【類例】なお、渋谷区幡ヶ谷の「道供養塔」
・「品川領用水御普請所」の標石
天保7(1836)年建立のこの碑は、世田谷区郷土資料館に所蔵・展示されているが、当然、名前そのまんまの用水関連である。
銘文:品川領用水御普請所 天保七申歳二月 |
品川区教育委員会事務局生涯学習部社会教育課・編「品川用水『溜池から用水へ』」品川区教育委員会/H06・刊 p.31の「品川用水御普請場の補修工事の年表」によれば、天保7年には粕谷村で、おそらくは水無川を渡る築立場(築堤)か掛樋(水路橋)の、伏替つまり更新または大改修が行われているので、その折のものだろう。
ここの築堤は、大正12年9月の関東地震で延長 40間3分(約73m)の部分が崩壊し、昭和6年9月の大豪雨でも決壊する(「沿革史」pp.184,190)ことからみても、用水中最大のネックの一つだったようなので、それなりの大規模で慎重を要する工事だったことは確かだろうが、元禄2 (1689)年以降、それまで現・世田谷区内にあった、世田ヶ谷村1ヶ所、用賀村2ヶ所、弦巻村1ヶ所計4ヶ所の 分水口は閉止しているので、水利の面では世田谷領には何のメリットも無かったのに、このような標石まで建てる必要があったのかについては、答えを見たことがない。
ただ「御普請」というのは、幕府が石材、木材、釘などの資材や石工、大工あるいは木挽など専門職人の工賃といった主要部分の工費を支出する工事をいうので、下図のように、その工事範囲(いわば「幕府が工費を負担した施設」)と、それ以外のいわば民営工事(自普請)の範囲との境界を示す
(つまり、「御普請を司る役所」という意味ではなく「御普請が、行われた/行われる場所」という意味である)境界石として、世田谷領ではなく品川領の人々が建てたのではなかろうか。
・馬頭観音
については、(品川・三田のそれに限ってだが)用水路が主として台地の尾根筋を通っていただけに、用水と無関係とはいえない可能性はある。
たとえば、こちらは用水とは無関係ながら、尾根筋頂上付近に祀られた馬頭観音としては、京王井の頭線池の上駅西のそれ
旧像 世田谷区石造遺物調査報告書ⅢE32 p.136 由来は http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm |
平成20年代に建立し直された馬頭観音の新像 憤怒相3面2臂 |
が類例といえるだろう。
【実例か?】旧・上馬牽澤村、駒沢2丁目4番の馬頭観音
馬頭を頂き、憤怒相三面に八臂の「本格派」 世田谷区石造遺物調査報告書ⅢE5 p.120 |
ここも、蛇崩川からの急坂を登って、品川用水が流れる尾根筋に辿りついた場所にある。上記池ノ上のそれと同様、ここまで登り詰めて斃れた馬の供養のために建立された可能性もあるだろう。
【参考】
馬頭観音建立の動機・縁由は様々で、近世期には馬を街道筋の継立などの荷役に使った業者が建立する例が多く、明治以降になると農耕馬の供養のために農民が建立した例が多いようではあるが、これに止まらないことは
犬飼康祐「馬の仏 多摩の馬頭観音」多摩のあゆみ Vol.95/たましん地域文化財団・H11・刊 pp.52-55
によってもわかる。
しかし、
・地蔵、庚申塔
は、それらの、原則として「賽のカミ」という本来の起源からみて、先の庚申橋供養塔はむしろ例外で、通常は用水路との直接の関連性はほとんど考えにくいからである。(もっとも、尾根筋が村境、字界となっている例は多そうで、そこが「たまたま」用水の流路となることも考えられなくはないだろうが、そもそも、尾根筋が用水/上水の流路となることは、むしろ、玉川上水や三田/品川用水(と、千川上水)の方が特異例なので、それほど多くはないと思われる)
また、地蔵像は、受胎中や幼少時に亡くなった子供の墓石として使われることも多いので、とくに飢饉の年ころ建立のものについては、ミスリードに注意する必要がある(同様に、如意輪観音も若い女性の墓石によく使われる) 。
とくに重要なのは、元禄2年に始まる品川用水の改修後、世田谷地区は用水の通過点に過ぎず用水による水利を受けていないどころか、水路ばかりでなく、とくに随所にあった築堤は交通の支障でしかなく、ただの「迷惑インフラ施設」でしかない。
したがって、これらの石造物で元禄以降のものは、用水と無関係と断定することができる。
・粕谷の地蔵堂
蛇足ながら、左端手前から時計廻りに 庚申(青面金剛+三申)、如意輪観音、地蔵、庚申(前同)、地蔵 |
■先の巡検で…
資料用の写真は、かなり撮影済みなので、巡検記をまとめること自体は簡単なのだが、
- 上記のように、肝心の用水との関係が、不明というか、むしろ、無関係と考えられるものが多いうえ、
- それをおいても、どなたかがネット上に書かれていることばかりだし、
- 「お散歩情報」を書くつもりはないので、なるべく、用水との何らかの関連が有りうるものに対象を限定したいし、
- どうせ、何か考えて書く以上は、これまでのそれに「新知見」を加えたいので、
それを、どこからどう始めるのか、思案中の今日この頃である。
南品川:居木橋脇 余水吐水門 2009/06/06 |
【追記】
探訪記
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