【域外:品川用水】2つの謎 序論

 ■かつての…

我が家のすぐ裏を、その末流が流れていた品川用水。

品川区大井町・品川用水大井分水末流部

三田用水と違って、

・起源について2説があり

・その終末についても不明な点が多い

なのが、気になり出した。

■まず起源については…

●通説といえるのは、

  • 後の肥後新田藩主で、熊本藩主細川綱利の弟の細川若狭守利重(5000石)が、寛文2(1662)年にこの付近の地とともに拝領した現在の戸越公園周辺に下屋敷を設けるにあたって、同3(1663)年に玉川上水を境村(現・武蔵野市境)で分水していた仙川用水路の新川宿から分水して戸越上水を開鑿した
  • 戸越上水は寛文6(1666)年に閉止されたが、翌7(1667)年7月、品川領宿村の者らが、旱損御救いの為の用水として、旧戸越上水の古堀と用水を賜りたい旨と幕府に出願されていたものが許可され、同9(1669)年、品川用水が幕府の費用で旧水路を拡張して開鑿され、以後品川領の9宿村に沃いだ

というものなのだが

●異説としては…

  • 上記の、戸越上水の存在を否定する見解がある

【序説】

 その後、改めて、当時のルール(水利慣行)や、この時期の細川家の位置づけなども検討してみたが、とくに前者からみると、また、後者についても、異説の方が根拠薄弱であることについては覆うべくもないとの結論である。


■次いで、その終末については…

水路自体については、一部とはいえそれなりの史料があるし、それ以外の区間も法定外公用物(青線・青道)として取り扱われているらしいことは、まず、疑いない。

 しかし、問題は、その運営組織だった水利組合の結末にある。

 明治以降の推移に限定して考えてみるが*、昭和18年12月の時点で「品川用水普通水利組合」を名乗っているので**、この時点までは、このブログの主題である、三田用水普通水利組合と同様に、以下のような推移を経ていることは、まず疑いない。

*近世期の、品川領の連中の「あまりにも図々しい」というか「身の程知らず」の幕府への訴えについては、いずれ別アーティクルで、論ずる。

**品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊

  • 明治23 (1890)年「水利組合条例」制定 普通水利組合結成
  • 明治41 (1908)年「水利組合法」制定  法人格のある普通水利組合に組織変更

しかし、問題は、その後の、

  • 昭和27(1952)年「土地改良法」制定

まで、組合が、「書類の上」だけにしても、存続していたのかにある。

*加藤徹・倉島栄一「水利制度の確立と『土地改良法』制定以前の水利組織の変遷」(水利科学47・2・47-91)
https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010672378.pdf
参照


■仮に…

土地改良法制定まで、組合が存続していたのであれば、昭和初期にすでに(オリジナルといえる仙川用水路を除いて)沿水路の農地が消滅し、水路に架かる橋などの「地代」に依存していた組合は、三田用水普通水利組合と同様、同法上の土地改良区に組織変更する条件を満たさないために、同法によって法律上自動的に解散となり、清算手続に移行せざるを得なかったはずなのだが、その清算手続の史料が(ある意味で特殊な事情のある三田用水とちがって)発見できないのである。

【追記】

■考えてみると…

謎はもう一つある。

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