2022年3月19日土曜日

「四ッ谷御上水分水 字三田用水由来一件書」

 ■久しぶりに…

三田用水に関する第1級の史料に出会った。

佐藤友理「〈史料紹介〉上大崎村名主竹内家文書『四ッ谷御上水分水 字三田用水由来一件書』」〔「品川歴史館紀要 Vol. 33」同館/2018・刊 pp.77-120〕

がそれで、品川歴史館の企画展「品川上水」に行った折、懸案だったこの紀要を入手した。

その「あとがき」に当たる、いってみれば、この由来一件書の由来書きによれば、下澁谷村野崎組*の名主善右衛門が所持していた原典(以下「一件書」という)から、文化4(1806)年7月に上大崎村の名主(竹内)小左衛門(方晴)がとった写しのようであるが、その、全編の写真とその翻字版が掲載されている。

*この下澁谷村野崎組名主である野崎家の文書を集成したものとしては、

 渋谷区「渋谷区史料集 第三 -諸家文書-」同区/S57・刊 pp.31-

 があり、巻頭の解説によれば

「野崎家は、江戸時代下渋谷村野崎組 の名主で初代若狭重安 は土地 の草分であり、慶長ころにこの地 に土着したと考えられる。下渋谷村のうちで野崎組が独立して一村並の取扱 いを受けるようにな ったのは、七代善右衛門久重 の時である。」

 とされている。ただし、史料集中にこの一件書は含まれていない。

■つい先日のことだが…

港区史に下記リンク先のような記述があるのを知った。

https://adeac.jp/minato-city/text-list/d110022/ht000880 *

三田用水と細川/三田両上水の関連など、これまでの史料では未見の事柄も多々あり、是非原典に触れたかったのだが、今回、一件書を一読したところ、どうもこれが先の港区史のほぼ全編の原典といえそうなことがわかった。

今後、解読が進み次第、順次、とくに港区史に言及されていない部分を中心に追記等をしてゆきたい。

* このリンク先末尾にある

安永三年(一七七四)三月にも、用水不足による上郷・下郷の争論が発生した。この時には「井筋不陸(ふろく)」もあり、熟談の上で堀床・分水口の水盛仕法を改めている。

 の水争いの結果

天保4(1832)年の三田用水分水口と、その後の変遷https://mitaditch.blogspot.com/2021/02/41832.html 中

【補記】「用水路」の改修記録 の 

1 安永4(1775)年ころ 

【野崎家文書】「七、安永四年十二月 三田用水普請につき和融証文」

 前掲「渋谷区史料集」pp.73-74

にある 

安永4年春の「入江市郎兵衛」の「御水盛」つまり実施設計に基づく用水路全般に亘る大改修が行われたようである。




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