小坂克信先生からご案内をいただきました
三田用水研究
ここは「究極」のリベラル・アーツです それぞれの、問題意識、研究テーマ、興 味でサーベイしている方々(これまでの、面識(小坂克信先生や梶山公子氏など)や、コミュニケーション(SoHonda氏など)の有無にかかわらず、勝手に「三田用水研究仲間」と呼ばせていただく)から、これまで貴重な情報をご提供いただけたのは、大変ありがたいことです。 情報は、単体では「意味がない」「意味がなさそうな」ものが大半。アメリカのCIAなどの仕事が典型なのですが「無意味に見える情報」を集積することによって「とんでもない情報」が現れるのは「日常茶飯事」。 当方は、そういった分析作業を「情報の結晶化」と呼んでいて、このブログには「三田用水研究仲間」の方々に「結晶化」可能な「分子」をご提供する目的もあります。 それ自体では「意味がなさそうな」情報と思えても、是非コメント欄にお寄せください。 「結晶化」できるほどかどうかはわかりませんが、必ず、それに資しそうな何らかのフィードバックはさせていただく所存です。
2023年10月3日火曜日
2023年9月4日月曜日
用水路と瀧坂道の交点の点検口
■今日…
写真のライブラリを点検していたら、渋谷区神泉町26番地9(住居表示:同町21-1) にある、三田用水路の点検口を2014年7月26日に撮影した写真が出てきた。
ここは、用水路と古道・瀧坂道(現・渋谷裏通り)の交点にあたる場所
東京都公文書館・蔵「上目黒村繪圖」〔抜粋〕+地名補入 〇の位置 |
で。かつて、TV番組タモリ倶楽部の三田用水の特集(「好評!都内を歩いているだけ企画 三田用水のこん跡」2009/05/16 未明放映)の際、交差点西の目黒区青葉台四丁目573番地11(住居表示:同町2-24)にあるクリーニング屋のオバちゃんが「大雪の時にそこから雪を流した」と説明していた場所である。
作図:オオバ東京支店 S55.4 三田用水路地籍測量図 〔㉙図抜粋〕 に 青矢印補入 |
■この種の…
点検口は、かつて、水路の随所にあって*、恵比寿の日の丸自動車教習所から目黒駅にかけて、かなり長期間残っていたのだが、数年前に行ってみたら、道路の再舗装で、水路端を示す境界石ともども無くなってしまっていた。
同様に、この神泉町の点検口ももう無いかもしれないと思っていたのだが、Google Map でチェックしたら、まだ残存していた<https://goo.gl/maps/nfudomjj5PyNYcfy8>。
* 暗渠の九九カ所に、鉄板、コンクリート板、石造板に蓋されたマンホールが設けられていた。
(三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59 p.297。口絵写真p.5下)
2023年7月20日木曜日
【Web再掲】三田用水の分水:坂口
Half Mile Project
調査サブノート:三田用水の分水:坂口
2014/08/09
■「坂口」判明
小坂克信氏の調査の結果、以下のとおり、「坂口」は、槍が崎にあったらしいことが判明した。
とうきゅう環境財団のホームページに掲載されている 論文「日本の近代化を支えた多摩川の水」(ただし、平成24年1月現在、増補・改訂作業中の由)の、p.93に「1909 (明治4 2 )年4月7日三田用水水利組合から陸軍省に、構内 の道城口の移転の通牒があった。これは、灌漑上不便なことから上流の坂本口の反対側、槍ケ崎1169番地に移転させたいというものである。」とある。
「坂本口」という分水は、「坂口」の誤記(このような誤記は結構多く、どうみても「神山」分水のことを「陣山」と表記している例もある)と考えるのが素直である。
この「槍ケ崎1169番地」という地名・地番は、現・渋谷区側のそれであり、下図(明治40年代の、いわゆる「郵便地図」の、渋谷と目黒の合成図)のとおり、後の槍が崎水路橋の北詰あたりであることがわかる。【追記】2013/05/09
行政裁判所(戦前あった裁判所)の明治29年6月19日付け判決(行政裁判所判決録16巻117ページ)に、坂(本)口の位置を具体的に示す記述があることがわかった。
これは、明治27年ころ坂(本)口が「四五間上手へ附替變更」するという、組合決議の効力が争われた事件であるが、その中の原告の主張によれば
「東京府荏原郡目黒村三田用用水ノ分水字別所坂本分水路ハ澁谷村字鎗ケ崎第千百七十番地ヲ貫通シ馬引澤道路ニ沿ヒ目黒村田用水トナレリ
抑此宅地ハ朝倉倉藏ノ所有地ニシテ去明治…二十六年七月中原告ハ朝倉倉藏ヨリ右地所ヲ受ケ…タリ
然ルニ二十六年九月…右原告宅地内ニアル水路敷ヲ發掘シ巨大ノ竪樋ヲ設ケ水路ノ兩側ヲ廣ケ石ヲ畳ミ横樋ヲ伏セ込ミ蓋ヲ掩セ低地ヨリ高地ニ流通スル如ク改築シタル爲原告ハ家用水ノ便觀望ノ美即水ノ使用権ヲ失ヒ」とあり、また、被告である水利組合側の主張によれば
「東京府荏原郡目黒村三田用水分水口下流ハ原告所有宅地ノ間ヲ貫通シ馬引澤道路ノ側面ニ沿ヒ目黒村田塲用水ニ供シ來リタルモノナリ然ルニ目切坂道路開鑿トナルトキハ右用水ハ新道ノ側面ヲ激スルノ虞アリ從テ道路ノ破壊ヲ來スコト尠少ナリトセス是ニ於テカ明治二十七年三月十三日三田用水内堀普通水利組合會ニ於テ右分水口ヲ四五間上手へ附替變更スルコトヲ三田用水普通水利組合會へ提出スル事ヲ議決シ其後普通水利組合會ノ議決ヲ經東京府廳ノ許可ヲ受ケ現在ノ分水ロヲ取付クルコトヽナリタルモノナリ」
としている。
上記の小坂論文と併せて、明治40年代の、いわゆる「郵便地図」に、これらの地番をプロットすると、以下のようになるようである。
右のケヤキの下が地蔵
目切坂から左に分岐する道は、今ではすぐに行き止まりになってしまうのだが、昔(と、いっても東急東横線が開通するまでは)この道は、下図の「馬引澤道」のルートで、目黒川方向まで通じていたらしいことが、目黒筋御場絵図からわかる。
【追記】2014・06・24
残る問題は、この坂(本)口からの分水路が、この馬引澤道(世田谷道と呼んでいる例もある.。また、これが「新道坂」であるとする有力な見解もある)の南北どちらの脇を流れていたのかにあったのだが…
国立国会図書館・蔵の、『江戸近郊道しるべ』巻之十二[別名:嘉陵紀行]村尾正靖・著の巻之十二中7丁目の挿絵に、19世紀始めの三田用水と坂口からの分水と思われる水路が描かれており、坂口分水の水路の形は、上記の行政裁判所判決の被告(用水組合)側の、改修前の水路の記述と整合している。
【追記】2013/08/08
前記のように、この坂口は、明治26年9月に、並行していた目切坂道の改修に伴って、先の原告の言い分を素直に読むと、石で基礎を作った上に、おそらく、木製の埋樋を設けた水路に改修されたことになる。
この水路は、馬牽澤道に沿っていて、上の地図からわかるように昭和2年に開通した東横線によって分断されてしまうことや、そのころには、現・駒沢通りも開通していて灌漑する耕地面積が減少することから、このころ、坂口は廃止されたのではないかと考えていた。
しかし、東京都公文書館・蔵「潰地買収並地上物件移転補償料追加」(S02)[D808‐RAM:309.E5.17]中の「三田用水仰彎管工事平面図」*によると、この坂口分水は、このころ一部が暗渠化され、東横線の下を潜る形で存続したことがわかった。
原データを白黒反転+濃度調整した*「仰彎管」の正確な意味はまだ不明だが、「仰ぐ形の・彎曲した・管」と解釈するとサイフォンを意味することになる。
そうとすると、時期は違うが、先の裁判での原告の言い分「横樋ヲ伏セ込ミ蓋ヲ掩セ低地ヨリ高地ニ流通スル如ク改築」とも意味において整合し、明治27年に設けた木製のサイフォンを、昭和に入ってコンクリート管などによる近代的な水路に改修したことになる。【追記】2013/08/20
鑓が崎に、大正の終わころに、現・駒沢通りが開通して水路橋ができるまで、広尾方面からの道路と、馬引沢道とのショートカットをするために、三田用水の築堤に設けられたトンネルの写真を発見した。
このトンネル、先の「郵便地図」からみて明治中ごろには開通していたらしいが、関東大震災で崩落したらしく「通行危険」な状態になり(「震災地応急測図原図 13 三田」)、昭和2年の東横線開通で分断されて廃道となった後は倉庫に使われていたらしい。
「あの日この顔」目黒区S57/10/01刊 p.27から転載【追記】2014/08/24
「目黒の川と用水・坂の今昔」目黒区立八雲中央図書館・H20/03/31・編/刊 pp.11・12の「新道坂」の項によれば、馬引澤道が
「あまりにも急な坂だったので、明治の終わりごろに、この坂の途中から分かれて、今の恵比寿駅や広尾方面に通じる勾配(こうばい)の緩やかな切通しの坂道を造りました。そのために三田用水の水路の下をくぐるしゃれた煉瓦(れんが)造りのトンネルを掘りました。このトンネルのある坂道を、新しく造つた道ですから、新道坂と呼びました。ところが大正の末に明治通りの渋谷橋から中目黒まで玉川電車(のちの都電)を通すために、傾斜の更に緩やかな切通しの広い坂道を造つたとき、トンネルは廃道になり、新道坂は坂上部分を失つて途中から駒沢通りの大きな坂につながれたので、元の坂とはすっかり違つた坂になりました。そのため今では駒沢通りの大きな坂を新道坂と呼ぶことにしたのです。」
とある。以下のようにその経過には異論がある*が、坂の呼び名の変遷は、おそらくその通りだろうと思う。*駒沢通りは、東京府の都市計画道路として開鑿されたもので「玉電を通す」ために作られたわけではない
トンネルが「廃道となった」のは、関東大震災で崩落して通行が危険になったためと考えられ、駒沢通りの開鑿とは関係がない
「坂上部分を失った」のは、東横線が馬引沢道までの経路を分断したためで、駒沢通りの開鑿と直接の関係はないなお、廃道後、というか戦後の状況については
「昭和毎日」の このページの写真 参照。
2023年3月16日木曜日
三田用水通水にともなう収量の変遷
■先ごろ…
入手していた
加藤一郎・編著「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊
「第一七話 玉川上水と三田用水のこと」(pp.83-89)中
- 用水の開鑿に伴う耕地とくに水田の面積の増加という量的側面と、
- 用水による水利の改善による田畑の単位面積あたりの収量の増加という質的側面の、
* その著書
斉藤政雄(渋谷区文化財調査委員)「渋谷の湧水池」渋谷区教育委員会/H08・刊
斉藤政雄・編「渋谷の橋」渋谷区教育委員会/H08・刊
経歴
http://shibuya-city-record.tokyo/assets/wp-content/uploads/2023/03/15110909/N1285_20090115.pdf
なお、H22逝去
から推して、↑の渋谷区名誉区民かもしれない。
** 余談にわたるが、三田用水の鉢山分水が流れていた旧中澁谷村の長谷戸(下図青下線)は「はせど」と訓む。
*** 代官山ヒルサイドテラス内の猿楽塚前で三田用水から分水され、東横線代官山駅付近から渋谷川に向かって流下していた(参照:三田用水分水図)
**** 三田「用水」開鑿前のデータまであるようなので、旧下澁谷村の慶長期からの「草分け」といわれ、同村の野崎組なる地域の名主を長く務めた野崎家に残っていた文書の可能性が高そうに思えたが、
渋谷区「渋谷区史料集 第三」同区/S57・刊所収の「野崎家文書」(pp.31-)中にも、
野崎家の文書が原典とされる 「四ッ谷御上水分水 字三田用水由来一件書」 にも、
該当の記述を見つけることができなかった。
ただし、上記*の故・斉藤政雄氏は、渋谷区文化財調査委員であるほか渋谷郷土研究会の世話人だった とのことなので、長谷戸小学校勤務中に、
まだ未公開だった野崎家文書を読んでまとめたものの未公表だった資料(上記、…遊水地、…橋、その他同氏著の「渋谷の昔話」のどれにも収めにくい)を郷土研究会に提供した可能性は高い。
【追記】
斉藤政雄 「ふるさと渋谷」渋谷郷土研究会/1994・刊
の「まえがき」によれば
同氏は、長谷戸〔ながやと〕小学校に教諭としての勤務歴があり、同小学校で昭和31・2年に「えびす付近実態調査」を編纂していたことがわかった。
敗戦からほんの10年余りの昭和30年代、文書を保有していた野崎家としても、それまで誰も見向きもしなかった文書を「持て余し」していた可能性もあり、そこに地元の小学校の先生から申出があれば、「何かの役に立つならば」と、喜んでそれに応じたのではなかろうか。
したがって、出典は、この 「えびす付近実態調査」である可能性が高い。
幸い、2巻とも渋谷区立中央図書館に収蔵されているらしい。
T05 1/10000地形図 「世田谷」「三田」接合図〔抜粋〕 |
用水使用前 | 田一反に付、種一斗五升まき、その収穫 | 畑一反に付、麦種一斗三升まき、その収穫 | 小麦一反に付、種六升まき、その収穫 | ||||||
上田 | 中田 | 下田 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | |
籾1石5斗程 | 籾1石2斗程 | 籾1石程 | 取殻1石程 | 取殻8斗程 | 取殻7斗程 | 8斗程 | 4斗程 | 4斗程 | |
用水使用後 | 田1反につき種六升より一斗二升までをまきその収攫 | 畑一反に付、麦種五升より一斗まきその収穫 | 小麦一反に付、種六升まき、その収穫 | ||||||
上田 | 中田 | 下田 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | |
籾4石程 | 籾3石6斗程 | 籾3石2斗程 | ニ石程 | 1石8斗程 | 1石6斗程 | 1石程 | 8斗程 | 6斗程 | |
上記を換算 | 1石=10斗=100升 なので、上表を「斗」単位に換算 | ||||||||
併せて、種と収量の比率を算出 | |||||||||
用水使用前 | 田一反に付、種1.5斗まき、その収穫 | 畑一反に付、麦種1.3斗まき、その収穫 | 小麦一反に付、0.6斗まき、その収穫 | ||||||
上田 | 中田 | 下田 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | |
籾15斗程 | 籾12斗程 | 籾10斗程 | 取殻10斗程 | 取殻8斗程 | 取殻7斗程 | 8斗程 | 4斗程 | 4斗程 | |
収量比 | 10.00 | 8.00 | 6.67 | 7.69 | 6.15 | 5.38 | 13.33 | 6.67 | 6.67 |
用水使用後 | 田1反につき種0.8斗~1.2斗までをまきその収攫 | 畑一反に付、麦種0.5~1.0斗まきその収穫 | 小麦一反に付、種0.6斗まき、その収穫 | ||||||
上田 | 中田 | 下田 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | 上畑 | 中畑 | 下畑 | |
籾40斗程 | 籾36斗程 | 籾32斗程 | 20斗程 | 18斗程 | 16斗程 | 10斗程 | 8斗程 | 6斗程 | |
収量比 | 40.00 | 36.00 | 32.00 | 26.67 | 24.00 | 21.33 | 16.67 | 13.33 | 10.00 |
用水使用前後の収量比の増加率を算出 | |||||||||
収量比増加率 | 4.00 | 4.50 | 4.80 | 3.47 | 3.90 | 3.96 | 1.25 | 2.00 | 1.50 |
■やはり…
用水使用までは天水(雨水)や湧水、せいぜい溜井による水利にたよっていた水田の収量の増加が、上田、中田、下田おしなべて顕著といえる。
しかし、畑についても、とくに大麦のそれが(小麦に較べても)大きいのだが、これは
1 用水路から周辺の地中への浸透水
もっとも「用水」なので、用水路に通水される期間は限られる のだから、さらには
2 二毛作の場合はイネの収穫後の土中の残存水分
大麦の収量の増加率からみて、当地では裏作として大麦を栽培していたのではいか、と思われる
3 水路からの水の蒸散による空気中の水蒸気の増加
上記2からみて、当地では二毛作の裏作は大麦だったと想像される。
そのため、小麦は従前どおり高燥な台地上で作付けしていたのだろう。
それでも、用水開削後に収量が増加しているのは、この3が要因と考えるほうがよさそうである。
も、かなり寄与しているようなのである。
2022年10月30日日曜日
【域外】渋谷川支流:宇田川富ヶ谷支流東流路
■2002年ごろ…
撮影のポジフイルムを整理していたら、標記の東流路 の遊歩道化
https://goo.gl/maps/eJkMaSZ69GjbWJCf7
工事の写真が出て来た。
■この当時は…
文化村通り出口の旧山手通をはさんだ向かい側にあった、かつての帝大農科大学時代の門柱と思われるが、現存しない。
東京都公文書館・蔵「代々木村絵図」 赤矢印が、溜井の水源と思われる上原の「出水」〔「いすみ」と訓むらしい〕 図中の川筋は、上部が玉川上水路、 その下が、右(東)から順次、河骨川、宇田川初台支流、同上原支流、同富ヶ谷支流、三田用水路 |
【追記】別ブログの 古道「隠田道」: 平成作庭記+α (cocolog-nifty.com) 掲載のによれば、同図が作られた昭和11年当時、溜井(また、この富ヶ谷支流東水路)が、まだ存続していたことがわかる。
■あらためて…
当地をみると、このサクラの脇を通り抜けできないとなると、近隣住民にとっては迂回を強いられるので、不便この上なく、貼り紙をみた限り当時反対していた住民が1名に止まっていたのも、よくわかる。
また、この場所は、工事の前からすでにサクラの脇には、下水の暗渠用の配管が埋設されていたはずであり(そうでなければ、さしたる雨でなくても内水氾濫が必至である)、いわばその上を舗装したからといっても、サクラは広範囲に根を張る性質があるのでさしたる影響は無かったのだろう。
【余談】
■ここからの…
帰途は、やや下流部の、溜井下流の西側水路との合流部からそちらを登って、駒場道(現・コスモス通り)に戻ったのだが、かつての、西側水路の現役時代からあったと思われる、2本のサクラの巨木が残存していた。
道路の傾斜や地図〔複数〕から推すと、この辺りから下(東)の、 現・上原2丁目6・7番あたりが、溜井だったようである |
【余禄】
今のところ、他に使い途のない宇田川の支流の写真なので…とりあえずここに
■確か…
21世紀に入ってほどないころ、代々木八幡附近の環状6号・山手通の拡幅工事を見にいった折、従前の道路面を掘削した場所に、コンクリート造の暗渠のようなものが見えた。
■このあたり…
古地図をみると、代々木八幡の周囲は、八幡の山の東西をとりまくように水路があって、ちょうど小田急線の代々木八幡駅のあたりで合流していたので、暗渠化されたその西側の水路と思われた。
■渋谷川に…
詳しい、梶山公子氏のWeb 「あるく渋谷川入門」を参照すると
その「渋谷川トピックス」「バックナンバー10」 中「2018.11.27」の項の
「5.山手通り下の宇田川合流点から新富橋へ」の図から、これは、
渋谷川の支流の
宇田川の支流の
初台支流〔俚俗・初台川〕の暗渠らしいことがわかった。
M42測T10修測2・1/10000 世田谷+中野 接合図 赤矢印が写真の「初台川」。青矢印が「春の小川」こと「河骨川」〔こうほねがわ〕 |