■先ごろ…
入手していた
加藤一郎・編著「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊
「第一七話 玉川上水と三田用水のこと」(pp.83-89)中
- 用水の開鑿に伴う耕地とくに水田の面積の増加という量的側面と、
- 用水による水利の改善による田畑の単位面積あたりの収量の増加という質的側面の、
* その著書
斉藤政雄(渋谷区文化財調査委員)「渋谷の湧水池」渋谷区教育委員会/H08・刊
斉藤政雄・編「渋谷の橋」渋谷区教育委員会/H08・刊
経歴
http://shibuya-city-record.tokyo/assets/wp-content/uploads/2023/03/15110909/N1285_20090115.pdf
なお、H22逝去
から推して、↑の渋谷区名誉区民かもしれない。
** 余談にわたるが、三田用水の鉢山分水が流れていた旧中澁谷村の長谷戸(下図青下線)は「はせど」と訓む。
*** 代官山ヒルサイドテラス内の猿楽塚前で三田用水から分水され、東横線代官山駅付近から渋谷川に向かって流下していた(参照:三田用水分水図)
**** 三田「用水」開鑿前のデータまであるようなので、旧下澁谷村の慶長期からの「草分け」といわれ、同村の野崎組なる地域の名主を長く務めた野崎家に残っていた文書の可能性が高そうに思えたが、
渋谷区「渋谷区史料集 第三」同区/S57・刊所収の「野崎家文書」(pp.31-)中にも、
野崎家の文書が原典とされる 「四ッ谷御上水分水 字三田用水由来一件書」 にも、
該当の記述を見つけることができなかった。
ただし、上記*の故・斉藤政雄氏は、渋谷区文化財調査委員であるほか渋谷郷土研究会の世話人だった とのことなので、長谷戸小学校勤務中に、
まだ未公開だった野崎家文書を読んでまとめたものの未公表だった資料(上記、…遊水地、…橋、その他同氏著の「渋谷の昔話」のどれにも収めにくい)を郷土研究会に提供した可能性は高い。
【追記】
斉藤政雄 「ふるさと渋谷」渋谷郷土研究会/1994・刊
の「まえがき」によれば
同氏は、長谷戸〔ながやと〕小学校に教諭としての勤務歴があり、同小学校で昭和31・2年に「えびす付近実態調査」を編纂していたことがわかった。
敗戦からほんの10年余りの昭和30年代、文書を保有していた野崎家としても、それまで誰も見向きもしなかった文書を「持て余し」していた可能性もあり、そこに地元の小学校の先生から申出があれば、「何かの役に立つならば」と、喜んでそれに応じたのではなかろうか。
したがって、出典は、この 「えびす付近実態調査」である可能性が高い。
幸い、2巻とも渋谷区立中央図書館に収蔵されているらしい。
T05 1/10000地形図 「世田谷」「三田」接合図〔抜粋〕 |
■やはり…
用水使用までは天水(雨水)や湧水、せいぜい溜井による水利にたよっていた水田の収量の増加が、上田、中田、下田おしなべて顕著といえる。
しかし、畑についても、とくに大麦のそれが(小麦に較べても)大きいのだが、これは
1 用水路から周辺の地中への浸透水
もっとも「用水」なので、用水路に通水される期間は限られる のだから、さらには
2 二毛作の場合はイネの収穫後の土中の残存水分
大麦の収量の増加率からみて、当地では裏作として大麦を栽培していたのではいか、と思われる
3 水路からの水の蒸散による空気中の水蒸気の増加
上記2からみて、当地では二毛作の裏作は大麦だったと想像される。
そのため、小麦は従前どおり高燥な台地上で作付けしていたのだろう。
それでも、用水開削後に収量が増加しているのは、この3が要因と考えるほうがよさそうである。
も、かなり寄与しているようなのである。
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