2020年5月20日水曜日

Web ”Half Mile Project:三田用水調査ノート" インデクス

三田用水研究のスタート
 はここ
 とりわけ「三田用水」調査ノート(3)」の探索・撮影から始まりました。
 その後、このブログに書いたような、新たな知見が加わったものもありますし
 すでに消滅したリンク先も多いのですが…

 現存しないリンク先も https://archive.org/ で、URLを検索するとアーカイブが残るものもあり
 一方、もう無くなってしまった建物などの写真もありますので
 多少はどなたかのお役にたつのではないかと思って
 ここ1月あまりの外出自粛期間を活かしてインデクスをまとめました



■Half Mile Project/2平方キロメートル・エリアの冒険 あるいは 郷土研究
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/index.htm
 三田用水関係ポータル
■「三田用水」調査ノート(1)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita01.htm
 三田用水慨史
 ■サブノート「三田(上)用水」略史
 http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/History.htm
■「三田用水」調査ノート(2)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita02.htm
 三田用水概要
■「三田用水」調査ノート(3)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita03.htm
 三角橋から東北沢駅間
■「三田用水」調査ノート(4)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita04.htm
 三角橋から駒場間
■「三田用水」調査ノート(5)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita05.htm
 駒場から富ヶ谷間
■「三田用水」調査ノート(6)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita06.htm
 富ヶ谷から松濤間
■「三田用水」調査ノート(7)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita07.htm
 旧水路跡の検討
■「三田用水」調査ノート オーバーラン
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita70.htm
 松濤から神泉間
■「三田用水」調査ノート/三田上水の地図
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaJousuiMap.htm
 ■三田用水関連遺構マップ
 https://www.google.com/maps/d/edit?mid=15vlPmqJbdPtfbJ366reqHd4Xjg0&hl=ja&ie=UTF8&msa=0&brcurrent=3%2C0x60188cb2eb3108d1%3A0xf11cd9b2395b6677%2C0&z=13&ll=35.6453314515895%2C139.70928830000002
■「三田用水」調査ノート(資料篇)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaShiryou.htm

●三田用水の江戸時代と明治時代の分水について
■三田用水分水INDEX
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui00.htm
■「三田用水」調査ノート(三田分水図1)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui01.htm
■「三田用水」調査ノート(三田分水図2)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui02.htm
■「三田用水」調査ノート(三田分水図3)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui03.htm
■「三田用水」調査ノート(三田分水図4)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui04.htm

「三田用水」調査ノート:三田用水の分水:駒場口
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBunsui14.htm

●サブノート
■調査サブノート:下北澤村への「玉川上水」の引水の謎
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/ShimoWater.htm
■調査サブノート:「三角橋」とは
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita90.htm
 「三角橋」の由来を探る
■調査サブノート:三角橋のバス
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SankakuBus.htm
 東急バス「渋55系統」の起源
■「代田村飛地 字溝が谷」 
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mizogaya01.htm
 三角橋で分水された溝が谷分水関連
■調査サブノート:駒場道
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaMichi.htm
 現コスモス通り(補助54号線)由来
■調査サブノート:駒場狩場と三田用水
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaWater.htm
 現在の東大駒場キャンパスと三田用水のかかわり
■國木田獨歩さんのカレーライス
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/SxDoppoCurry.htm
 東大裏で分水された神山分水関連
■調査サブノート:大日本ビール(ヱビスビール)の引水
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Yebisu.htm



●関連情報・周辺地域史など
■「東北沢駅」の昔(砂利側線)
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Hkitazawa01.htm
■調査サブノート:旧下北沢村内の祠・野仏
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm
■調査サブノート:代田八幡神社
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Daita8man.htm
■「三田用水文学」/「三田文学」ではありません
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/MitaBungaku.htm

■[域外]箱根板橋の小田原用水
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Itabashi01.htm
 後北條時代に開鑿された、現存する日本最古の上水道ともいわれています

2020年5月10日日曜日

【類例】青山上水の遺構

■ネットオークションで…

「江戸の上水・下水 江戸遺跡研究会第19回大会発表要旨」江戸遺跡研究会/2006・刊
を落札しそこなってしまったので、せめて、どんな講演会だったのか知りたいと思って、検索してみると、同会の Web ページに

毎田佳奈子「江戸遺跡研究会第19回大会「江戸の上水・下水」に参加して」
http://edo.jpn.org/cyber/2006/edk104-2.htm

を、見つけた。

■その…

末尾の表
「港区内検出 上下水施設一覧表(港区調査分)」
みると、港区内に限定しても、数少ないとはいえ、青山上水のものと思われる木樋が、発掘調査で出土していることがわかった。

それらのうち、「1)近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡」の解説を読むと
 本遺跡は、地下鉄南北線六本木一丁目駅のすぐ東側に位置しています。地形的には、周囲では最も高い場所にあたり、そこから東側にかけて大きく傾斜していきます。発掘調査では、青山上水に関連すると思われる、木樋を埋設した跡が発見されました。掘り形は、半暗渠・半開渠で、木樋が埋設した状態で検出されています。」
とある。

■同稿の…
  • 筆者の肩書は港区立港郷土資料館とのことなので、港区内の遺跡の調査結果については、かなりの信ぴょう性が期待でき(後記Ⅰによれば、港区教育委員会の文化財保護調査員で、この遺跡の調査担当者だった)
  • これまで、神田上水、玉川上水の樋管の現物や写真は時折目にすることはあったが、青山上水や三田上水のそれはほとんど見たことがない
  • 青山と三田の両上水は、どちらも玉川上水の分水であり、当然ながら時代的もほぼ同一なので(青山上水は開鑿:万治3〔1660〕)年、閉止:享保7〔1722〕年、三田上水は開鑿:寛文4〔1664〕年、閉止:享保7〔1722〕年〕青山上水の調査結果は三田上水の類例といえる
  • なによりも、上記の解説文の最後の段落中「掘り形は、半暗渠・半開渠で」の部分は「何を言ってるのかわからない」
と、いうわけで、この「近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡」の発掘調査報告書を探すと、すぐに六一書房
http://www.book61.co.jp/


港区教育委員会・共和開発株式会社・編「近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡発掘調査報告書Ⅱ(港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告 41)」社団法人東京倶楽部/2005・刊

を見つけ、早速取り寄せた。
(同遺跡の報告書は、後述のⅠ〔以下「報告Ⅰ」〕)とこのⅡ(以下〔報告Ⅱ〕)が事実上のペアになっている。そのうち、Ⅱを先に入手したのが幸運で、Ⅰを先に入手していたらⅡを入手する必要性に気づかなかったかもしれない)


                   【余談】


六一書房のクロネコ便用ケース
葺石を貼った古墳の中の石棺にはインパクトがある


■届いた…

報告Ⅱを見ると、現地は港区六本木一丁目9番、スウェーデン大使館の南隣の場所で、貞享上水図によれば、その西側の通りに青山上水の1分水が溜池方向に流れていたことがわかる。

 
貞享上水図〔抜粋〕に、近江山上藩稲垣家屋敷を赤四角で補入
この辺り、玉川上水が北から、三田上水が南から、青山上水が西から流れ込んでいる。
 
正徳上水図 青山上水抜粋
 
■果たして…
  
報告Ⅱにある「340号遺構」について、
 
残存状態が極めて不良な木管の残骸と、それに突き刺さるように検出されたサッパ釘等の出土によって、上水木樋の一部であることが判明した。敷設された区域から青山上水を屋敷内に引き込んだ痕跡であると判断された。
 
とされ(p.19)、さらに、
 
規模は長さ10.50mが残存しており、一部に木樋の腐食した木質部分が残存し、木樋を留めていた鉄釘がそのままの位置で出土している。鉄釘は約20cm置きに打たれており、木樋の幅は20cmを測る。木樋の埋設溝はほぼ垂直に掘られていて、上面幅55cm、下面幅45cm、深さ105c帆を測る。底面はほぼ平坦である。一部にトンネル状の掘り抜き部分が残存しており、全体が開削されてはいない状況が観察された*

とあった(p.98)。

*この記述と同ページの図で、先の「掘り形は、半暗渠・半開渠」の意味が、やっとわかった


■同ページの…

写真Ⅱ-92をみると、木部はほとんど失われているようで、ただ、木樋の蓋の部分の両側をとめていたと思われる鉄釘がほぼ元の位置に2列に立ったままで残存していたように見える。


10.5メートルに20センチ間隔で釘が打たれているとすると、その本数は、1列で50本余り、2列で100本余りとなるが、この遺構から出土した釘の本数は

金属製品の内、木樋を留めていたさっぱ釘が数多く残存しており、図示した4点(2-5)の他に57点のほぼ完形品、 16点の破損品が出土している。この他に、鉄製頭巻釘1点、釘1点、不明鉄製品1点の計80点、

とされている(前同ページ)ので、この木樋には上面だけに釘が打たれていて、幅が20センチメートルなので、三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊のp.81にいう「刳抜き式」*、つまり太い材木をまず四角に仕上げ、その一面を、一〇センチメートルほどの厚さに切り離して'一枚の厚板とする。そのあとの材木の三方を、コの字型に残して、内側をノミやチョウナで削り取り、その上に前の一枚板を乗せ'釘を打ち込んで固定する 」という、ほぼ、同書p.82の



どこから出土した木樋かの説明はないが
どうも「上水路の木樋」としての「規格サイズ」だったようにも思われる
の図のような、断面形状/寸法のものだと思われる。

*「刳り貫き式」と表記することの方がが多いようである

【参考】


芝区史〔S12〕p307
S4に西久保電停前通りから出土とあるので玉川上水の木樋ということになる
刳り貫いたU字型の樋の上から蓋を止めたの釘が残存し
右端には継手のための欠き込みがある


■気になるのは…


先の「一部にトンネル状の掘り抜き部分が残存しており、全体が開削されてはいない状況」

の部分で、素直に考えると、この木樋は、設置用の溝の上からそのまま落とし込まれたのではなく、一旦、溝の底に降してから、水平にずらして「トンネル」を通し、前後の木樋と、継手材か木樋の端を削り込んで嵌合させる方法(建築用語では、これが「継手」)でつないだことになる。


高輪台小学校の校庭から出土した継手材
前掲「江戸の上水と三田用水」p.45

とはいえ、p.98の図によると、このトンネルは、全長10.50メートルのうち、せいぜい、0.60メートル程度のものが1箇所にとどまっているので、それが一般的な工法なのか、たまたま、その場所が、何かの都合、たとえば、大きく重い庭石があったので、やむなく、そのような工事をしたのかは判断のしようがなかった。

■ところで…

この報告Ⅱを見ているうち、そのp.158にある図Ⅲ-6 屋敷の区画と遺構分布」という図をみると、このⅡの調査は、この屋敷地の北よりの「TC」地点と名付けられた区画のもので、同じ屋敷地の中の南寄りの「M」地点も発掘調査が行われていて、そにも、調査区画の横断する形で「上水樋」があったらしいことがわかったので、先に少し触れた報告Ⅰ、つまり

港区教育委員会事務局・港区遺跡調査事務局・編「近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡発掘調査報告書Ⅰ(港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告 36)」森ビル株式会社/2004・刊

の在庫もあった、同じく六一書房から取り寄せた。

■こちらの…

上水樋跡である138号遺構は

幅は85cmと、かなり広く、検出された長さは24.8mに及び、深さは2.5m前後を測る。壁面は、凹凸はあるものの、ほぼ垂直に立ち上がり、床面は皿形となる。最下部に粘土が貼られ、その上位に形の歪んだ樽形の空洞を認める。ここには木質の管が通されていたものと理解されることから、本溝は上水道の布掘りであると判断した。

とされ(pp.71‐72)、p.79の平面図と断面図によれば、全長  24.8メートル中に、4箇所、掘削されずに、溝の底部に木樋を通すトンネル状の掘抜きが設けられている部分がほぼ等間隔に設けれている。

■こうなると…

このような、溝を堀り残した部分を掘り抜いて、木樋を通すというのは、青山上水に限らず、多くの類例もあるようなので*、当時はむしろ一般的な工法だった可能性が高い。

*関根信夫「新宿区信濃町南遺跡第4次調査の成果」
(江戸遺跡研究会会報No.135、同会/2013年3月5日・発行 所収)
http://edo.jpn.org/cyber/2013/edk135.pdf

したがって、三田上水についても、同様な工法が使われていたものと思われる。

■もっとも…

近江山上藩稲垣家屋敷をはじめとする上記の類例は、どれも、武家屋敷の敷地内に配水された管路なので、これだけでは、いわゆる本管にあたる、主として道路に敷設されていた木樋の敷設に、同様な工法が使用されたとは断定できないのだが、

この工法の場合

・メリットとして
 土工量、つまり垂直方向に掘削する手間をある程度は削減できる

・デメリットとして
 溝の最下部のトンネルのサイズは、木樋を通すための最低限のサイズに見える。
 とにかく穴さえあけばよいならともかく、この掘削はそれなりに緻密な作業になる
 (まして、トンネルの前後で、樋の下に粘土を敷いて高さを調整していたらしいので猶更)
 このトンネルがあるために、木樋を溝の底で順次接続してゆく必要があって、作業効率は低い
 まして、後の木樋の改修・交換にはかなり緻密な作業が必要になる

と、これだけの手間暇をかけるからには、それなりの理由があるはずなので、さしあたっては

地震動を受けたときに、溝を埋め戻した柔らかい土の中で、木樋が「暴れて」、継手さらには木樋が変形・損傷するのを防ぐ

という、効果*を見込んだのではないかと想像している。

*どなたの本で読んだのかすぐには思い出せないが
 幕閣の会議で、上水の改修が議題になった折、上水路の暗渠に土管を使用しては、との提案があった際
 ある老中が、それでは地震時に壊れて収拾が付かなくなる、との意見を述べた由
 老中といえば、それなりの大藩の「お殿様」であり、そんな「下世話」な知識があったのかと、その時は思ったのだが
 考えてみると、あるいは、自領の城下の上水路に、腐朽しないという耐久性の高さを買って、土管を使ったものの
 地震の後の復旧のために「ひどい目」にあった御領主様なのかもしれない

■そうだとすれば…

上水路の、いわば本管にあたる水路については、幕府による直営工事だったのだから、その臣下の武家屋敷のそれ以上に、このような「耐震性」の高い工法を採用するのは当然といえるのではなかろうか。

【追記】

暗渠用の木樋の構造・用法については、以下の論文が参考になった。

辰巳用水から見た近世初期の木管技術
青木 治夫
日本土木史研究発表会論文集
1989年 9 巻 141-146
発行日: 1989/06/20

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1981/9/0/9_0_141/_pdf/-char/ja

なお、論者は、神田上水のために開発されたこの種の技術が、辰巳用水を含む全国に伝播したとする。

2020年5月5日火曜日

北沢川文化遺産保存の会「三田用水ツアー」のログ

たどった
三田用水路、余水路、分水路の、(ほぼ)全体図はこちら
https://drive.google.com/open?id=1CSiGLU8FVa5Ao-pHegnoaSErU4eo6K6e
です。

往復の交通機関とターミナル駅の混雑時間をさけるとか、さらには下車駅を1駅ずらしたりすれば
「3密」はさけられる場所ばかりです。

ご参考まで。


第1期 主水路と余水路を探索する

第1回 世田谷区北沢5丁目の分水口跡~恵比寿ガーデンプレイス

下北沢X物語(1228)~「三田用水」跡を読む小さな旅~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51431389.html

下北沢X物語(1229)~「三田用水」跡を読む小さな旅2~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51432521.html

下北沢X物語(1230)~「三田用水」跡を読む小さな旅3~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51432942.html

[三田用水]情報交換所~三田用水を巡る討議:記録:情報など~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51394634.html

第2回 恵比寿ガーデンプレイス~高輪猿町

〔記録なし〕

第3回 高輪猿町~目黒川(余水路)

下北沢X物語(1339) ~「三田用水流路学」を楽しむ
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51519626.html

下北沢X物語(1340) ~「三田用水流路学」を楽しむ2~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51520191.html

下北沢X物語(1341) ~「三田用水流路学」を楽しむ3~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51521071.html

下北沢X物語(1342) ~「三田用水流路学」を楽しむ4~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51521479.html

1.5期 代官山ステキ総合研究所との合同ツアー

 世田谷区北沢5丁目の分水口跡~銭甕窪大日本麦酒用分水口

〔その契機
  下北沢X新聞(1707)~三田用水を巡る研究発表会~
  http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51715760.html
 〕

下北沢X新聞(1802)―「三田用水流路学」を再び楽しむ―
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51749283.html

下北沢X新聞(1803)―「三田用水流路学」を再び楽しむ2―
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51749491.html

第2期 主要な分水路を順次辿る

第1回 世田谷区北沢5丁目の分水口跡-溝が谷分水-槍が埼交差点

下北沢X新聞(2587)~三田用水路から歴史文化を学ぶ~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51947097.html

下北沢X新聞(2588)~三田用水路から歴史文化を学ぶ2~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51947206.html

下北沢X新聞(2589)~三田用水路から歴史文化を学ぶ3~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51947396.html

下北沢X新聞(2590)~三田用水から学ぶ:原発からの大転換を~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51947539.html

第2回 代官山駅-猿楽分水-銭甕窪左岸(白金)分水~渋谷川狸橋

下北沢X物語(2821)~2015探検探訪三田用水~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51987580.html

下北沢X物語(2822)~2015探検探訪三田用水Ⅱ~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51987728.html

下北沢X物語(2823)~2015探検探訪三田用水Ⅲ~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/51987873.html

第3回 目黒駅~久留嶋上右岸分水~雉宮神社~大崎駅

下北沢X物語(3060)~三田用水とダイダラボッチ:保存と継承~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52021410.html

下北沢X物語(3061)~三田用水とダイダラボッチ:保存と継承Ⅱ~
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52021488.html

第4回 恵比寿ガーデンプレイス~目黒駅~鳥久保分水~五反田駅

下北沢X物語(3306)-第129回街歩き「三田用水跡を歩く」-
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52047929.html

下北沢X物語(3307)-第129回街歩き「三田用水跡を歩く」Ⅱ-
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52048075.html

第5回 高輪猿町~久留嶋上口左岸分水~清正公~古川橋

下北沢X物語(3541)―用水痕跡探しの楽しさ:三田用水―
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52070492.html

下北沢X物語(3542)―三田用水面白物語―
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52070533.html

第6回 代官山~旧朝倉家住宅~朝倉水車~西郷山水車~鉢山分水~並木橋~渋谷稲荷橋

下北沢X物語(3968)―幻想的三田用水探訪行― 
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52111935.html

下北沢X物語(3969)―渋谷が日々攻め寄せる― 
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52111993.html

下北沢X物語(3970)―三田用水の歴史と意義― 
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52112099.html

2020年5月2日土曜日

三田用水に架かっていた朝倉水車の水車堀

■表題の件


これまでの、略図などに加え、新たに地図がみつかりましたので

ここ

朝倉水車の水車堀の図面
https://sarugakuduka.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

にまとめました。

2020年4月17日金曜日

仮称・渋谷村用水

■「北沢川文化遺産保存の会」の…

企画として、2008年12月13日に始まった「三田用水ツアー」
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/2008-12-14.html
が、最後の最後に「豪雨情報」で延期、さらには「新型コロナウイルス」のためのさらなる延期の危機を、幸い「三密」を避けられるコース設定だったのが幸いして、

去る、2020年3月21日で、約12年余にわたる合計10回の巡検を終えることができた。

(この間の足跡を、細かく説明しだすとキリがないので、この12年の間に「仕上がってきた」水路地図
https://drive.google.com/open?id=1CSiGLU8FVa5Ao-pHegnoaSErU4eo6K6e
をご参照)

■その、いわば「中〆」にあたるツアーは…

渋谷区代官山の旧・朝倉家住宅と、旧山手通りの西郷橋から渋谷川までのツアー
http://blog.livedoor.jp/rail777/archives/52111935.html

で、毎回のことながら、上記のような三田用水とその分水路の地図に加えて、参加者の方々にお配りする、大体A4版10ページ程度の資料集を編集するときに、これまでなかったような疑問が生じてきた。

 というのは、これまで辿ってきた、分水については、比較的その末流部が限られていて特定しやすかったのに対し、今回の、鉢山分水、つまり旧山手通りの西郷橋付近で三田用水から分水されて

現在の西郷橋付近にあった「角谷製綿所」
画面右側の工場は蒸気機関で稼働していたのに対し、細い道路を挟んだ左側の工場は、
鉢山分水口の直下にあった水車で稼働していた。
(左下隅に、水車と、その上部に用水の水を送るための懸樋が見える)
























最終的に渋谷川に合流するのだが、その合流点らしき場所が、下の地図でも、


内務省地理局「5千分の1 東京実測図」M20
第4幀の2 から抜粋
いくつもある。

■この点については…

渋谷区の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員の田原光泰氏の

「春の小川はなぜ消えたか」之潮/2011・刊

のpp.30‐31でも触れられていて(とくに、図12参照)

〔渋谷川に西方向から流入する渋谷川の支流-北から順に猿楽分水、鉢山分水、道城池分水ー〕
「の水をそのまま渋谷川に落とすのではなく、水路を本流に沿って下流までのばしてゆき、その途中で水を分水させながら水田に水を供給していた」

とされている。

■とはいえ…

このような末流部は、他の三田用水の分水にはみられないのである。*
*末尾追記のとおり、下流部の目黒川左岸にもあった

 たまたま、この明治20年の内務省図が、比較的細かい水路まで描写しているせいかもしれないので、少し下流の銭瓶窪左岸分水(白金分水)の末流部を見てみても


内務省地理局「5千分の1 東京実測図」M20
第4幀 から抜粋







狸橋から見た、元銭甕窪左岸分水の渋谷川への合流口
港区白金5-1-8地先 2015/04/18撮影

灌漑用水なので、中流部では、当然いくつかの流路に分水されているものの、最終的には、慶應幼稚舎〔「小学校」である。念のため〕北の狸橋のやや東の1箇所で渋谷川に落ちている。

 各分水路は、他の河川との合流点まで、用水組合の管理下に置かれていることが多く、逆に言えば、他の河川との合流点までの分水路については用水組合に管理責任があることになる*

 中流部でいくら分水しても、その水路については、組合内の問題として処理できるのに対し、他の河川との合流点については、その補修とか改修については、合流先の河川の管理者との協議や折衝が不可欠となる。

 そのような煩雑さをできるだけさけるためには、他河川との合流点は、できるだけ一か所にしたいところである。

*【参考】


世田谷区北沢/代沢地区を流れる、北沢用水(北沢川)支流の里俗・森巖寺川の例。
自然河川であるが、現地でかつて「三田用水」と呼ばれていたことがわかる。
ここは、同用水の山下口からの流路であり、水路の管理やメンテナンスを用水組合が行っていたためだろう。

世田谷区民俗調査団「下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」
世田谷区教育委員会/S63・刊 p.4より引用













■ところで…

今回配布する資料に使う古地図をみていて、さらに不思議なことに気が付いた。


「目黒筋御場繪圖」文化2(1805)年
国立公文書館・蔵
当然ながら、この時点で三田用水とその分水は存在する

 この図では、道玄坂町の街場の東端に北から流入する宇田川を、坂下で分水して、そのまま、渋谷川右岸に並行して広尾の東、大体現在の恵比寿1丁目と2丁目の境界あたりで、渋谷川に合流する水路が明瞭に描かれている。

 これは、よく見られる河川沿いの用水路と同じパターンといってよいのだが、この用水路はいわば本流である渋谷川の水を分水したものではなく、三田用水の、鉢山分水、猿楽分水、道城池分水が西から合流しているばかりでなく、源流である宇田川には三田用水の神山分水も合流しているので、要するに、上中下渋谷村(豊沢村を含む)がこの用水路を通じて三田用水の4つの分水の水を共有していたことになる。

■仮に…

この用水路を「渋谷村用水」と呼ぶことにするが、この水路のうち、宇田川から広尾町の現恵比寿駅北方までの区間は、明治22年の段階では、まだ残存していたようである。




東京都公文書館・蔵
「三田用水内堀水利組合区域を仮定し創立委員を命ず南豊島郡渋谷村長」M22
619.A2.13/D326-RAM/綴込番号:50
代官山を通る猿楽分水が、一旦今の駒沢通りまで南下した後、再び北上して比丘橋のところで渋谷川に落ちている
原本は彩色されているようなので、いずれは確認してみたい
















上図のうち、水路を表現していると思われる部分を水色でインキングしてみた


■なぜ…

この旧上中下の渋谷村の領域に限って、三田用水の分水路としては異例ともいえるこのような灌漑システムとなったのかについては、何分史料が乏しいこともあって断定はできないが、可能性として一番高そうなのは

  • 言うまでもないが、人工の水路である細川上水や三田上水よりも、自然河川の宇田川が先に存在していた。
  • この渋谷村用水は、細川上水や三田上水の開鑿前から、宇田川からの分水をベースにして、後に三田用水の分水路となる前の自然河川だった、いわば(各仮称)原鉢山川、原猿楽川、原道城池川の水によって、用水路と渋谷川の間の水田を涵養するため、その田間を毛細血管のような用水路・悪水路が発達していった
  • その間に、それら毛細血管状の水路を含む用水路の管理、平時や渇水などの非常時の水の分配方法などについて、関係村落間での「取決め事」が成立していた
  • やがて、三田上水が開鑿され、これら3川のうちいくつかは、その余水吐となり、さらに三田用水が開鑿された際に分水口と上記の3川の源流部が接続されることによって、渋谷村用水の水量が増加した
【参考溝が谷分水源流部の想像図

   
  • しかし、この渋谷村用水に、三田上水あるいは三田用水からの水が加わったからといっても、(神山分水については疑問があるが)、それまで渋谷村用水の水源だった自然河川の水量が増えただけともいえ、そのために、渋谷村用水と渋谷川間の水路を改修して変更しようとすると、それまで多年にわたって関係者間で、お互いの(ときとしてギリギリの)妥協のもとに築き上げてきた「取決め事」を大幅に改正しなければならなくなる。
  • しかし、そのための協議自体、各村、各地域の利害が錯綜しているので長い時間と多くの労力を要するし、かつて多くの時間と労力を注いで折り合いをつけることによって、ともかくも解決してきた「水争い」を新たに発生させてしまう可能性もある。
  • そのため、三田用水からの各分水を通じての給水が比較的均等に行われていることもあって、既存の渋谷村用水と渋谷川との間の水利秩序には手を入れないことになった
というストーリーなのではないだろうか。


 いずれ、検地帳などで、この間の耕地面積の変化や収量の変化(水がより潤沢になれば、下田が中田とか、中田が上田になって石高があがったかもしれない)をトレースできるかもしれない。

【追記】

令和2年4月に国分寺市に移転した東京都公文書館のデジタルアーカイブ
https://dasasp03.i-repository.net/il/meta_pub/G0000002tokyoarchv00
搭載の、豊島郡を中心とする近世の村絵図中の


●四ッ谷辺、青山辺、渋谷辺合圖


では、道玄坂下で渋谷川に合流する大山道沿いの水路がまるで「余水吐」で、大山街道を横断する水路の方がむしろ本流のように描かれている。

加えて

●駒ケ原絵図(山下和正氏蔵の由)
 全図= http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/image/KomagaharaEzu_Full.jpg

 

でも、御場絵図同様に、宇田川の別名「コウホ子落」が分水されて大山道を潜り

●駒場御狩場之図
 全図= http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/image/KaribaZus.gif

 

も同様である。
 
 これらに対し、
 
●幕府の普請方が制作した、御府内場末往還其外沿革図書 [3]拾六 の106ページ目
の「當時」つまり弘化3年の図

によれば、大山道を潜るのは、宇田川の下流ではなく

神山分水に神泉谷からの流れが合流
その後2流に分水
 1流は宇田川に合流するが
 もう1流が大山街道を潜る
ように描かれている

■これらの絵図のうち、作成時期が判明しているものを年代順にみると

1 駒が原絵図      1803-1830年
2 目黒筋御場繪圖    1805(文化2)年以前
そして
3 御府内場末往還其外沿革図書   1846(弘化3)年
4 三田用水内堀水利組合区域を仮定し創立委員を命ず南豊島郡渋谷村長 1885(明治22)年

であり、
1,2に較べて3,4が、大山道を潜る水路が西に振れている(ただし、この辺り、円山町から渋谷109にかけての舌状の台地があるので、そうそう大きく西には振ない)ことからみて、1800年度始めから1800年度中頃にかけて当地に水路が大きく付替えられたと考えられる。

【追々々記】
村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」〔別名「嘉陵紀行」〕の挿絵をみると

文政3〔1820〕年
村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」巻
15
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577956/4

 























画面中央を横断しているのが、世田谷街道〔=厚木街道=大山道〕であるが、画面中央やや右を縦断する渋谷川を渡ってすぐ西の道玄坂下から宇田川流域である北側のみならず、南側にも「田」があったことがわかる。

このことは、この南方の鉢山分水までの間にも灌漑がほどこされていたことを意味しており、その水源は、宇田川以外には考えにくいのである。

【追々々々記】

北斎の「鎌倉江嶋大山新板往来双六」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1307090/1/1 の右下の一つ上の「五二」コマに描かれている。

柳亭種彦//撰 前北斎為一//図『鎌倉江嶋大山新板往来双六』

画面右下が宮益橋。そこから先が道玄坂でその右脇が宇田川と思われる。 

 大山詣での後「上がり」(=振り出し)の日本橋に戻る途中なので、西から東に、道玄坂を手前、冨士見(宮益)坂を奥に描くのが行程として素直な構図と思うのだが、橋の向こうの往還右脇に川が流れている(しかも、小さな橋が架かっている)こと、橋の手前は、ぎりぎりまで人家が密集していることから宮益町で、その先に冨士見橋(現・宮益橋)が渡る渋谷川が描かれいて、先の往還右手の宇田川末流が渋谷川に落ちている姿が描かれているのだろう。



【追々記】

御府内備考 の
巻之七十四 澁谷之二 中
道玄坂町の条に

一下水 堀之儀者中澁谷村續町内東之方ニ有之候横切下水ニ而巾三尺中澁谷村耕地より流來南之方同村耕地え流行申候
一石橋 長四尺巾六尺程
 右者前書下水掛渡有之候
  但澁谷村持ニ御座候


とある。

[翻字版]大日本地誌大系. 第3巻https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214872/177
[原 典]府内備考. 巻70-74https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553683/145

この「御府内備考」は文政12(1829)年編纂の「御府内風土記」(焼失)の資料集。

上記「下水」が、ここで採り上げた大山道を潜る、同道の北にある「中澁谷村耕地」と南にある「中澁谷村耕地」とを結ぶ水路を指していることはまず間違いないように思う(ただし、宇田川の末流部の渋谷川との合流点直近に、大山道を潜って南方向に細い用水路があった可能性はある)、当初の宇田川下流のそれなのか後期の神山分水下流のそれなのかは判断しようがない。

【追々々記】
 どうやら、…沿革図に描かれている、付替え後の大山道を潜っていたと思われる水路の一部を示す地図が見つかった
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館・編「『春の小川』の流れた街・渋谷〔特別展図録〕」同館/H20・刊 p.38 より
 大正初期に行われた、当地の区画整理前の土地利用と水路を示す図面だが、赤矢印の水路を、図の下(南)方向に宇田川に並行して延長させると、大山道に突き当たる。

前掲「『春の小川』の流れた街・渋谷〔特別展図録〕」p.47 より
T13から行われた暗渠化(薄紫色部分)工事の図面
















 画面右上の凡例には「三田用水路 暗渠蓋架設幷盛土」とある(右の青色で示された開渠部分は大向小学校の敷地〔現・東急本店)の由)。

 前図赤矢印の水路は、この暗渠化工事に先立つ区画整理(か遅くともこの工事)で消滅したことになる。

【追記】21/09/21
「沿革圖書」系列の図のうち
麻布新堀河ヨリ品川目黒マデ絵図 の7コマ目

に、明確に、相州道(大山道)をわたった神山分水からの水路が、渋谷川に並行して澁谷広尾町までつながって描写されているのを見つけた。




幕府の普請方が作成した沿革図書系統の、いわば公式の地図であり、
先のM22年図、御場絵図と併せてみても、すくなくとも幕政期後半と、明治期に、この渋谷村内を縦断する水路が存在したことはまず疑いない。

ただ、この水路には、すくなくとも、鉢山分水、猿楽分水など水が合流しているが、これらは、自然河川でもあり、三田用水が閉止されている冬季にも流入する川水や、豪雨の際の増水は、田圃の中の毛細血管のような細水路に雲散霧消させられないので、当然、この仮称澁谷村用水から渋谷川に通ずる悪水路にあたる準幹線的な水路が幾筋か必要だったはずで、各分水の末流部は、この渋谷村用水の余水吐としても機能していたのだろう。

さらに、三田用水の下流、目黒川に落ちる、烏久保分水と、妙圓寺脇分水(+久留島上右岸分水の一部)の末流部同士が、目黒川に並行する水路で接続されていることが分かった(上記絵図の3コマ目と6コマ目)。

青い傍線で、上記「目黒川」北方の水路を示す









 おそらくは、勾配との関係でみると、過剰な水はそのまま末流部に流したうえ、烏久保分水の水をこの水路に流して、図の「谷山村田畑」と「上大崎村田畑」を灌漑し、余剰な水を妙圓寺脇分水の末流部から目黒川に落としたのだろう。

 先の渋谷村用水も、このような仕組みが、「宇田川からの分水*」「鉢山分水」「猿楽分水」(加えて、この区間内の小さな谷戸からの水)の3流について設けられていて、あたかも、1本の用水路のように機能していたのかもしれない。

*三田用水の神山分水起源の水も含まれる