「江戸の上水・下水 江戸遺跡研究会第19回大会発表要旨」江戸遺跡研究会/2006・刊
を落札しそこなってしまったので、せめて、どんな講演会だったのか知りたいと思って、検索してみると、同会の Web ページに
毎田佳奈子「江戸遺跡研究会第19回大会「江戸の上水・下水」に参加して」
http://edo.jpn.org/cyber/2006/edk104-2.htm
を、見つけた。
■その…
末尾の表
「港区内検出 上下水施設一覧表(港区調査分)」
みると、港区内に限定しても、数少ないとはいえ、青山上水のものと思われる木樋が、発掘調査で出土していることがわかった。
それらのうち、「1)近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡」の解説を読むと
「 本遺跡は、地下鉄南北線六本木一丁目駅のすぐ東側に位置しています。地形的には、周囲では最も高い場所にあたり、そこから東側にかけて大きく傾斜していきます。発掘調査では、青山上水に関連すると思われる、木樋を埋設した跡が発見されました。掘り形は、半暗渠・半開渠で、木樋が埋設した状態で検出されています。」
とある。
■同稿の…
- 筆者の肩書は港区立港郷土資料館とのことなので、港区内の遺跡の調査結果については、かなりの信ぴょう性が期待でき(後記Ⅰによれば、港区教育委員会の文化財保護調査員で、この遺跡の調査担当者だった)
- これまで、神田上水、玉川上水の樋管の現物や写真は時折目にすることはあったが、青山上水や三田上水のそれはほとんど見たことがない
- 青山と三田の両上水は、どちらも玉川上水の分水であり、当然ながら時代的もほぼ同一なので(青山上水は開鑿:万治3〔1660〕)年、閉止:享保7〔1722〕年、三田上水は開鑿:寛文4〔1664〕年、閉止:享保7〔1722〕年〕青山上水の調査結果は三田上水の類例といえる
- なによりも、上記の解説文の最後の段落中「掘り形は、半暗渠・半開渠で」の部分は「何を言ってるのかわからない」
http://www.book61.co.jp/
で
港区教育委員会・共和開発株式会社・編「近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡発掘調査報告書Ⅱ(港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告 41)」社団法人東京倶楽部/2005・刊
を見つけ、早速取り寄せた。
(同遺跡の報告書は、後述のⅠ〔以下「報告Ⅰ」〕)とこのⅡ(以下〔報告Ⅱ〕)が事実上のペアになっている。そのうち、Ⅱを先に入手したのが幸運で、Ⅰを先に入手していたらⅡを入手する必要性に気づかなかったかもしれない)
【余談】
六一書房のクロネコ便用ケース 葺石を貼った古墳の中の石棺にはインパクトがある |
■届いた…
報告Ⅱを見ると、現地は港区六本木一丁目9番、スウェーデン大使館の南隣の場所で、貞享上水図によれば、その西側の通りに青山上水の1分水が溜池方向に流れていたことがわかる。
貞享上水図〔抜粋〕に、近江山上藩稲垣家屋敷を赤四角で補入 この辺り、玉川上水が北から、三田上水が南から、青山上水が西から流れ込んでいる。 |
正徳上水図 青山上水抜粋 |
■果たして…
報告Ⅱにある「340号遺構」について、
残存状態が極めて不良な木管の残骸と、それに突き刺さるように検出されたサッパ釘等の出土によって、上水木樋の一部であることが判明した。敷設された区域から青山上水を屋敷内に引き込んだ痕跡であると判断された。
とされ(p.19)、さらに、
規模は長さ10.50mが残存しており、一部に木樋の腐食した木質部分が残存し、木樋を留めていた鉄釘がそのままの位置で出土している。鉄釘は約20cm置きに打たれており、木樋の幅は20cmを測る。木樋の埋設溝はほぼ垂直に掘られていて、上面幅55cm、下面幅45cm、深さ105c帆を測る。底面はほぼ平坦である。一部にトンネル状の掘り抜き部分が残存しており、全体が開削されてはいない状況が観察された*。
*この記述と同ページの図で、先の「掘り形は、半暗渠・半開渠」の意味が、やっとわかった
■同ページの…
写真Ⅱ-92をみると、木部はほとんど失われているようで、ただ、木樋の蓋の部分の両側をとめていたと思われる鉄釘がほぼ元の位置に2列に立ったままで残存していたように見える。
10.5メートルに20センチ間隔で釘が打たれているとすると、その本数は、1列で50本余り、2列で100本余りとなるが、この遺構から出土した釘の本数は
金属製品の内、木樋を留めていたさっぱ釘が数多く残存しており、図示した4点(2-5)の他に57点のほぼ完形品、 16点の破損品が出土している。この他に、鉄製頭巻釘1点、釘1点、不明鉄製品1点の計80点、
とされている(前同ページ)ので、この木樋には上面だけに釘が打たれていて、幅が20センチメートルなので、三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊のp.81にいう「刳抜き式」*、つまり「太い材木をまず四角に仕上げ、その一面を、一〇センチメートルほどの厚さに切り離して'一枚の厚板とする。そのあとの材木の三方を、コの字型に残して、内側をノミやチョウナで削り取り、その上に前の一枚板を乗せ'釘を打ち込んで固定する 」という、ほぼ、同書p.82の
どこから出土した木樋かの説明はないが どうも「上水路の木樋」としての「規格サイズ」だったようにも思われる |
*「刳り貫き式」と表記することの方がが多いようである
【参考】
芝区史〔S12〕p307 S4に西久保電停前通りから出土とあるので玉川上水の木樋ということになる 刳り貫いたU字型の樋の上から蓋を止めたの釘が残存し 右端には継手のための欠き込みがある |
■気になるのは…
先の「一部にトンネル状の掘り抜き部分が残存しており、全体が開削されてはいない状況」
の部分で、素直に考えると、この木樋は、設置用の溝の上からそのまま落とし込まれたのではなく、一旦、溝の底に降してから、水平にずらして「トンネル」を通し、前後の木樋と、継手材か木樋の端を削り込んで嵌合させる方法(建築用語では、これが「継手」)でつないだことになる。
高輪台小学校の校庭から出土した継手材 前掲「江戸の上水と三田用水」p.45 |
とはいえ、p.98の図によると、このトンネルは、全長10.50メートルのうち、せいぜい、0.60メートル程度のものが1箇所にとどまっているので、それが一般的な工法なのか、たまたま、その場所が、何かの都合、たとえば、大きく重い庭石があったので、やむなく、そのような工事をしたのかは判断のしようがなかった。
■ところで…
この報告Ⅱを見ているうち、そのp.158にある「図Ⅲ-6 屋敷の区画と遺構分布」という図をみると、このⅡの調査は、この屋敷地の北よりの「TC」地点と名付けられた区画のもので、同じ屋敷地の中の南寄りの「M」地点も発掘調査が行われていて、そにも、調査区画の横断する形で「上水樋」があったらしいことがわかったので、先に少し触れた報告Ⅰ、つまり
港区教育委員会事務局・港区遺跡調査事務局・編「近江山上藩稲垣家屋敷跡遺跡発掘調査報告書Ⅰ(港区内近世都市江戸関連遺跡発掘調査報告 36)」森ビル株式会社/2004・刊
の在庫もあった、同じく六一書房から取り寄せた。
■こちらの…
上水樋跡である138号遺構は
幅は85cmと、かなり広く、検出された長さは24.8mに及び、深さは2.5m前後を測る。壁面は、凹凸はあるものの、ほぼ垂直に立ち上がり、床面は皿形となる。最下部に粘土が貼られ、その上位に形の歪んだ樽形の空洞を認める。ここには木質の管が通されていたものと理解されることから、本溝は上水道の布掘りであると判断した。
とされ(pp.71‐72)、p.79の平面図と断面図によれば、全長 24.8メートル中に、4箇所、掘削されずに、溝の底部に木樋を通すトンネル状の掘抜きが設けられている部分がほぼ等間隔に設けれている。
■こうなると…
このような、溝を堀り残した部分を掘り抜いて、木樋を通すというのは、青山上水に限らず、多くの類例もあるようなので*、当時はむしろ一般的な工法だった可能性が高い。
*関根信夫「新宿区信濃町南遺跡第4次調査の成果」
(江戸遺跡研究会会報No.135、同会/2013年3月5日・発行 所収)
http://edo.jpn.org/cyber/2013/edk135.pdf
したがって、三田上水についても、同様な工法が使われていたものと思われる。
■もっとも…
近江山上藩稲垣家屋敷をはじめとする上記の類例は、どれも、武家屋敷の敷地内に配水された管路なので、これだけでは、いわゆる本管にあたる、主として道路に敷設されていた木樋の敷設に、同様な工法が使用されたとは断定できないのだが、
この工法の場合
・メリットとして
土工量、つまり垂直方向に掘削する手間をある程度は削減できる
が
・デメリットとして
溝の最下部のトンネルのサイズは、木樋を通すための最低限のサイズに見える。
とにかく穴さえあけばよいならともかく、この掘削はそれなりに緻密な作業になる
(まして、トンネルの前後で、樋の下に粘土を敷いて高さを調整していたらしいので猶更)
このトンネルがあるために、木樋を溝の底で順次接続してゆく必要があって、作業効率は低い
まして、後の木樋の改修・交換にはかなり緻密な作業が必要になる
と、これだけの手間暇をかけるからには、それなりの理由があるはずなので、さしあたっては
地震動を受けたときに、溝を埋め戻した柔らかい土の中で、木樋が「暴れて」、継手さらには木樋が変形・損傷するのを防ぐ
という、効果*を見込んだのではないかと想像している。
*どなたの本で読んだのかすぐには思い出せないが
幕閣の会議で、上水の改修が議題になった折、上水路の暗渠に土管を使用しては、との提案があった際
ある老中が、それでは地震時に壊れて収拾が付かなくなる、との意見を述べた由
老中といえば、それなりの大藩の「お殿様」であり、そんな「下世話」な知識があったのかと、その時は思ったのだが
考えてみると、あるいは、自領の城下の上水路に、腐朽しないという耐久性の高さを買って、土管を使ったものの
地震の後の復旧のために「ひどい目」にあった御領主様なのかもしれない
■そうだとすれば…
上水路の、いわば本管にあたる水路については、幕府による直営工事だったのだから、その臣下の武家屋敷のそれ以上に、このような「耐震性」の高い工法を採用するのは当然といえるのではなかろうか。
【追記】
暗渠用の木樋の構造・用法については、以下の論文が参考になった。
辰巳用水から見た近世初期の木管技術
青木 治夫
日本土木史研究発表会論文集
1989年 9 巻 141-146
発行日: 1989/06/20
https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1981/9/0/9_0_141/_pdf/-char/ja
なお、論者は、神田上水のために開発されたこの種の技術が、辰巳用水を含む全国に伝播したとする。
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