【域外:品川用水】品川用水(と三田用水)の絵地図

■品川用水・三田用水 普通水利組合沿革之圖以下「沿革図」)



安政5年=1858年







【参照】

東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊(以下「河川と用水」) p.63に、

〔元禄5(1692)年に行われた品川用水の〕拡張工事によつて、境村の取入口は内法2尺5寸四方、長さ5間に拡げられ、また途中の下仙川村横3尺高2尺5寸・粕谷村横4尺高3尺5寸・船橋村横4尺高2尺の3ケ所に悪水吐口が設けられたほか、鳥山村に官設の橋(長2間、横9尺)が架せられた。

とあり、これを当初読んだときは、元禄初期の世田谷領への分水廃止後も、水量が豊富なときは、この「悪水吐口」を通じて、ある程度の水が、品川用水から世田谷領に供給されていたと解釈していた。

 しかし、この沿革図によれば、これらの「悪水吐口」なるものは、品川用水「から」の悪水吐口ではなく、用水と無関係のいわば地場のための悪水路を伏越を使って立体的にクロスさせたものであることがわかる(この点で、三田上水の「野方吐」とは性格が異なる)。
 したがって、別にムキになって、これらの位置を特定する必要もなさそうだったのだが、
品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)巻末の、昭和16年1月25~27日に行われたとされる品川用水路現狀視察記」(pp.259-268。以下「視察記」)によって、意外に簡単に解明できてしまった。

  すなわち、3つの悪水吐口は、
  • 「下仙川村」のそれ
・「明治初年『用水記録』」(「沿革史」p.120)記載の仕様
伏越底樋 長八間 内法横三尺八寸/竪貳尺 
用水掛ケ渡井 長二間、内法横四尺/竪四尺

なお、この築堤下部の牟礼用水の「伏越」部分は、明治15年4月に、長12間の「半眼鏡石積仕立」の伏樋に改修されている(品川町役場「品川町史・下」同S7・刊 p.861 ) 

は、25日の「視察記」(p.262)に 

 牟禮の耕地を見下ろすところ、水路は一段高く築造され下仙川の悪水吐伏樋が下を横断してゐる。

これより進めば歩許にして水路も道路も右折し、南下して千歳村に入る。

とあって、現代の地図では位置の特定は不可能だが(東八道路に埋没)、この昭和22年の空中写真

を見れば、残りの2か所を含む3か所の悪水吐の空中写真のうち、ここが一番明瞭で「ここでしかあり得ない」ことがわかる。

つまるところ、ここは、玉川上水の牟礼分水の下流域であり、2つの玉川上水の分水が、この場所で立体交差していることになる。 

なお、「沿革図」に、その旨明記されているようなのではあるが、なぜここを、もっと東に位置していたと思われる下仙川村と呼んだのかは、まだわからない。

【追記】 

Ⅰ北野村誕生 (mitaka-iseki.jp) 

によれば、元禄8(1695)年に北野村となったこの地は、もともとは、文字通り下仙川村出身者によって開拓された、いってみれば「下仙川村新田」といえる地域だったらしい。それが、寛文期(1661-1673)に「原仙川村」となったのだが、この時期は丁度、戸越用水さらには品川用水の開鑿つまりは「下仙川悪水吐口」が設けられた時期にあたり、当時は、この地はまだ下仙川村と呼ばれていたために、その後も、この名称が踏襲されたのだろう。

悪水吐から下流の川路は、現在三鷹市北野の中川遊歩道となっているらしい。

  • 「粕谷村」のそれ
・「明治初年『用水記録』」(「沿革史」p.120)記載の仕様
*悪水吐越樋長十間、内法横四尺/竪三尺六寸
用水掛渡井長四間、内法横六尺/竪四尺五寸

*「沿革図」の注記によれば、天保7(1836)年に伏越樋が木造から石造になった。  

  は、26日の「視察記」(pp.262-263)を引くまでもなく、水無川の川路をアンダーパスさせた伏越であることはほぼ確実。https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.36.38.140N35.39.31.614/zoom/12/?data=showa-22

2021/11/13 撮影



















  • 「船橋村」のそれ
・「明治初年『用水記録』」(「沿革史」p.120)記載の仕様
用水渡井長四間、内法竪四尺五寸/横六尺
石渡井下夕伏樋横長八間、内法竪貳尺/横貳尺五寸

 については、「沿革史」中に、位置、仕様について、以下のような比較的詳細な江戸時代のデータもある。

「沿革史」(p.45)
一、武州荏原郡世田ケ谷領舶橋村地内壹ヶ所
 用水渡井 長拾間・高四尺五寸・横六尺
 悪水吐伏越樋 長八間・高貳尺・横貳尺五寸(文久二〔1862〕年書付)

船橋村悪水路伏樋は天保十三〔1842〕年*より石樋とした

(参照:品川町役場「品川町史・中」同S7・刊 p.455 )

*「沿革図」の注記にある。 

26日の「視察記」(p. 263)

程なく船橋に出ると、水路は府道をくゞつて今度は右側になり、二丈あまりの高い築土手と變る。南西の方から来って東北に走る一直線の玉川水道埋設路は、はるか用水路下を通ってゐる。その十間先に悪水吐伏樋がある*。舊船橋村地内に當るが、今は此の附近から東京市世田ケ谷區に入る

この記述を素直に読むと …

   

こうなりそうである。

*google map で計測すると、20.5m、つまり11間2尺ほどの距離だった。 

なお、青線の北東の旧千歳村(大字船橋を含む)は、昭和11年10月1日、砧村と同時に行われた東京市への併合に際し、世田谷区の領域に加わった。 

上図の等高線や南西方向の水田のある谷地から推して、この北方の畑地からの排水が、品川用水の高さ「二丈」(≒6m)の土手で阻害されるので、悪水吐が必要になったと思われる。 

【追記】ここ

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.37.17.581N35.38.42.815/zoom/12/?data=showa-22

ではなかろうか

地図で示されている南西方向の谷地には、周囲と違って樹木が茂っており、ここに水路があるらしいことがわかる。 

昭和38年の空中写真でも、水路のような線が写っているし、住居表示でも、この線が世田谷区桜丘5丁目の50番と51番の境界になっており、道路がある様子かないので、(google map の空中写真でみると、用水路の南北とも水路(跡)が残っている)ブルーマップでみても、依然として水路(青線/青道)の扱いのようである。

【追記】2023/02/04

今日、現地を巡検してきた

三田用水研究: 【域外:品川用水】船橋の悪水吐口巡検結果  

【付記】
 これら3か所の「悪水吐口」。「悪水」といっても、あくまで、その上流部にとって用水として灌漑利用した後の「不要」な水だっただけで、その下流部では「用水」として利用されていたらしいことは、船橋村の「吐口」のある谷地の下流に「水田」記号があることから、主に下流部の灌漑のために設けられたと思われるそれが典型だが、

 要するに、 「悪水吐口」といっても、機能の面では「排水路」程度に観念しておいた方がよいかも知れない。

 ただし、下仙川悪水吐口については、前記のとおり牟礼分水の下流部であるところ

渡部一二「武蔵野の水路」東海大学出版会/2004・刊 p.163 には

●本〔牟礼〕分水路は1745年出願して許可され、当時の牟礼村地先より取水されており、水口は当時8寸(約24cm)四方であったが後に5寸四方と訂正された。延長2.2Km、忍組知行所の管轄下で牟礼村だけの用水であったという。

とあり、ここは、正真正銘の「悪水吐」といってもよいかもしれない。

 しかし、

  • 「烏山村」の官設の橋
については、まだよくわからない。

 「沿革図」によれば、下仙川村の悪水吐口と、粕谷村の悪水吐口との間にある烏山村内に描かれている橋は、1か所しかない。

この区間内に橋が1か所しかないのならば、それは最も主要な甲州道中(街道)の橋と考えるほかない。



しかし、主要街道のための、この橋は、当然、この元禄期の、品川用水の「拡張」前から存在していたと思われる。

この元禄期の水路の拡幅工事は御普請つまり官費で行われたといわれ、他にも架けられた橋はあったはずなのに、その中で、なぜこの橋だけが特記されたのかの理由がわからないのであるが、

前掲「河川と用水」のp.61によれば、寛文9(1669)年の、当初の開鑿時に

 鳥山地内*甲州街道を横切る橋1ケ 所,脇道の橋4ケ所は用水請負人側で架け」た

とされているので、あるいは、この5ケ所中、脇道の橋4ケ所の架設は品川領側の負担(自普請)となり、甲州道中の橋1ケ所だけが官費負担(御普請)となった、との意味なのかもしれない。

*後の千歳村の範囲と思われる

品川区史 続資料編(一)に「それらしい」記録があった

解読は終わっていないが、この記録だとすると、これは元禄11年に、組合側が差し入れた、上記の悪水吐3か所とこの橋の工事費用が、「御入用」つまり幕府から支給されたことの受書というか確認書のようである(したがって、これら以外の工事費については、言及されていない)。

■大井の懸渡井|掛渡井|築渡井

●「沿革図」抜粋



【類例】

小坂克信「武蔵野台地南部の水利用の歴史」玉川上水と分水の会/2006年・刊 p.63


●「沿革史」pp.126-129の、
一、品川用水路 上蛇窪地内 用水懸渡井 長八間、内法 高三尺 横三尺
の項に
右入用
と題して、使用した木材や釘などの材料と、大工、鳶、木挽きの手間賃が詳細に記載されている。

●「明治初年『用水記録』」(「沿革史」p.120)記載の仕様

一、大井村壹手普請所(奮御普請所)荏原郡上蛙窪村地内
 養水掛渡渡井長八間、内法竪三尺横三尺

●「沿革図」には

「内法―横(幅)1 尺 5 寸(0.45m)、高さ(深さ) 1 尺(0.3m)」

とあるともされている。

渡部一二ほか「品川用水における水利施設(品川区内)遺構の残存状況調査」2017

<https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2018/04/G232.pdf> 

p.95 

しかし、冒頭の品川歴史館・蔵の同図では(渉猟したわけではないが、他の記録では)、幅の末尾の「五寸」の部分が見当たらない。 


●また、「視察記」(p.268)には、

本流は略々南へ一直線に進み、品川内堀分水口や西源氏橋の上蛇窪分水口を過ぎると、道も水路もだら/”\と下って行手に立會川の谷が見え、下水は急流の如く流れてゐる。水清き用水時代には定めて美事であったことであらう。見はるかす南側は工場と其の従業員の住宅で、所謂低地住宅地帶を形づくってゐる。
立會川の上を用水路は、鐵筋混擬土の高架によって跨ぎ、對岸の大井村用水路に接續してゐる。いつ頃からか中央部を破壊して穴が明けられ、そこから水路の廃水は滔々の響を立てゝ立會川の中に落下してゐる。江戸時代から大正頃まで築渡井或は掛渡井と呼ばれてゐるのは此處を指し、水利組合規約第三條第三項に「上蛇窪地内築渡井」と記してあるのもこれである。古圖には趣のある懸樋が描かれてゐる。
品川用水の本流は比の築渡井を以て終端とし、これより下流はすべて大井内堀の關輿するところとなってゐる。大井内堀の水路はこれより左近山の麓を縫ひ、全村に枝流を派出してゐるのである。

と、ある。 


●S22空中写真


   空中写真が表示されないときは 古地図→昭和22 を選択 

水路橋の中央西側に穴が開いているように見える。

また、下の立会川に映る影をみると、この時点では、後述のアーチ型の橋から直線的な橋桁のコンクリート橋に架け替え済であることがわかる。 

● 品川区報「しながわ」平成26年12月1日(通巻1938)号 p.1

品川タイムトラベルNo.22「品川用水」最下部の図に

大井村用水掛渡井

当時品川用水は立会川に架けられたアーチ型の石造りの橋の上を流れ、立

会川を渡っていた

とあり、また、

品川区教育委員会事務局生涯学習部社会教育課・編「品川用水『溜池から用水へ』」品川区教育委員会/H06・刊 のp.61にも同様の記述はあるものの、これも2次資料に過ぎず

1次資料は不明。

ようやく、今回の品川歴史館の「品川用水展」で無償配布されているプチ図録の記載で一次資料が

東京都公文書館蔵「武蔵国荏原郡大井村持同郡上蛇久保村地内字左近山築渡井模様替修繕之略図」 (『回議録・第1類・水道、堤防、河岸、 川浚、桟橋、橋梁』所収)

【公開件名】平林九兵衛用水築渡井修繕模様替願 【収録先の名称】回議録・第1類・水道、堤防、河岸、川浚、桟橋・橋梁 〈土木課〉明治14年1~3月 【収録先の請求番号】611.D5.04 【綴込番号】169 【資料種別】公文書_件名_府市 【作成主務課1】土木課 【文書年度(和暦)】明治14年~明治14年 【文書年度(西暦)】1881年~1881年 【起案年月日(和暦)】明治14年99月99日 【起案年月日(西暦)】1881年99月99日 【記述レベル】item 【収録先簿冊の資料ID】000123186 【公開区分】公開
東京都公文書館に行けば誰でもマイクロフィルムからのハードコピーが入手可能
  ただ、上野毛にあったころは、通りすがりに立ち寄れたのだが、西国分寺に移ってからは
 コロナ禍もあり足が遠のいている

と判明した。

明治14年架設とされるこの代の橋のイラストも図録に掲載されているが「想定復元」とあるので、史料中に、仕様の記述はあるが、図面や略図等はなさそうである。

なお、冒頭の「平林九兵衛」は、当時の大井村の長老というよりむしろ元老で、
にも登場する。

【類例】

この明治14年の大井の掛渡井のような水路橋の類例として、槍が崎にかつてあった新道坂のために設けられた三田用水の水路橋がある。
大井の掛渡井のように渡るのが立会川という河川ではなく、こちらは道路だが、上部が用水路という点では共通性があるといってよい。

目黒区「あの日この顔」同区/S57・刊 p.27





















加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42 より
上の写真の裏側の西(中目黒)側からの写真と思われる


























この「新道坂のトンネル」。架設年は不明で、M13の迅速測図には存在せず、M42の地形図にはあり、目黒区立八雲図書館「目黒の川と用水・川の今昔」同館/H20・刊のpp.11-12では「明治の終わりごろ」としているが、今となっては同時代のものと言ってもよいだろう。
また、一般的に煉瓦製といわれているようだが、写真を子細にみると、アーチ部分とそれを支える基礎部分は石積みであり、その面でも大井の掛渡井と共通性がある。

このトンネルは、T12の関東地震で損傷して通行危険な状態になった

帝国陸軍参謀本部陸地測量部「震災地応急測図原図」「三田」

うえ、S02の東横線開通時に隧道西側が閉鎖され、その後は倉庫として使われていたといわれるが、S39に開通した地下鉄日比谷線の工事の時まで残存していた*

 右端の重機の上方奥に、トンネルの上端が見える

【参考】

■武蔵野市境3丁目の品川用水路に設置された?水車

 武蔵野市域の水車|おうちで歴史館|武蔵野ふるさと歴史館 - YouTube


0 件のコメント:

コメントを投稿