【一部域外】「品川用水・三田用水 普通水利組合沿革之圖」の文字解読作業

品川区立歴史館・蔵

■オリジナルが…

安政5(1858)年に作られ、その昭和4(1929)年の写しとされるこの絵地図であるが、なぜか、三田用水(上部)と品川用水(下部)とが1枚の図に合成されている。

これらは、

  • どちらも玉川上水の分水
  • 共に流末が、目黒川を挟んで南北正対する南北品川宿の位置

という点では共通しているともいえなくもないが…

  • 取水圦が、下北澤村と境村と大きく離れ、当然流程も8.3Kmと24.0Km* と大きく異なる

*三田用水については、白金猿町(現・都営地下鉄高輪台駅付近)を終端とみてまず間違ないが、品川用水については「大井の掛渡井」北詰(現・東京都品川区中延4丁目27番南東隅附近)と一応言われており
品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊(以下「沿革史」)p.268)、沿革図を見ても玉川上水からの取水圦から水路がほぼ同じ幅で描かれているのがそこまでなのでその通りかとは思うが、公式記録は未確認

(1)品川町役場「品川町史・中巻」同/S7・刊(以下「町史・中」)

 によれば、元禄4年の「品川領用水堀御普請仕様帳」(pp.403-408)に

 境村元樋ゟ大井村用水掛渡井下馬込街道迄

  間数壹萬三千八百九拾貳間 

 とある由(p.407)。これを換算すると、25.283Kmとなる。

(2)前掲「沿革史」p.259

 によれば、「昭和二年公図に基づいて求積した」結果が

 「六里十八町四十間一分

 とされている。これを換算すると、25.598Kmである。

 

  • 構成する組合村も、両者で共通するのは、目黒川右岸に品川用水によって灌漑される飛地や入会地があった北品川宿**だけ***である。
** 御府内場末往還其外沿革圖書. 拾六下 p.5
北品川宿の農地(入会地を含む)に赤いサイドラインを付した
各区画の周囲には、文字通り縦横に品川用水の水路が走っている

*** 三田用水の組合村だった大崎村が品川用水組合に加わったのは明治9年以降(「沿革史」pp.78-80)

であり、何の目的で、さして利便性が向上するわけではなく、実用上も取扱いが面倒な、このような合成図を作ったのかは不明。

【追記】 

 この図の、右下隅の記述を解読して、やや「見えて」きたことがある。

時計回りに90度転回

昭和四己巳年五月七日写

     洋々楼文庫

 昭和四己(ママ)年五月二十二日写

     三田用水普通水利組合

と読める。

 しかし、「沿革図」が作成された昭和4年には

品川区立品川歴史館・編「品川歴史館資料目録 ―三田用水普通水利組合文書―」品川区教育委員会/H09・刊

のリスト「(1)用水路絵図」(pp.1-8)をみると

近代期入ってから作成された測量絵図が

・品川用水については

 明治13年 〔図1-16〕

 明治16年 〔図17-32〕

 不詳*   〔図64-74〕*世田谷区成立前

 の3系統

・三田用水についても

 明治44年 〔図33-64〕

がすでに制作されている。

 つまり、この沿革図は、これが制作された昭和4年という時期には、たとえば水路管理用などの実用上の機能は失われているうえ、ほぼ、品川用水も、三田用水も、農業用水としての機能を失っていた時期であることを考えあわせると、おそらくは、品川区(当時)の人々の発案で、記念あるいは史料としてとりまとめたものと想像していた。

 そして、図の 左上に

「用水路調査用トシテ大井町内

 堀普通水利組合會議員

 倉本彦五郎氏ニ給與ス

     昭和五年六月

とあるのを発見。

「恵澤潤洽碑」建立記念写真集 中
「建設委員 昭和8年3月31日」から


 



この倉本彦五郎なる人物は、後に、

昭和8年建立の「恵澤潤洽碑」の建設委員

昭和18年発行の「品川用水沿革史」の 編集委員長

を務めているが、品川用水普通水利組合の役員なので当然同用水を引用している農家の出身だろうし、

交詢社「日本紳士録」をトレースすると

大井銀行取締役(T10版)
麹町銀行取締役(S02版)
區會議員/園藝業(S12版)

を経ていることがわかる。

また、徳富蘇峰、東山魁夷などとも文通のある文化人でもあったようである。

■上部の「三田用水」絵図

こちらは、いわば「既製品」

東京都渋谷区「新修渋谷区史・上」同区/S41・刊
pp.520-521












■下部の「品川用水」絵図

当初は鮮明な画像が入手できていなかったので、2022/02/18に
品川歴史館の企画展に展示された現物も含めて確認した。

見てのとおり「翻字」というほどシンドイ作業ではないのだが、漢字の下に小さく振られた、しかもどれも文脈上有りうる文字が「々」なのか「ゝ」なのか「之」なのか「ノ」なのかといった識別は結構手間取るし「ありそうな文字」なのに、どうしても特定できないものもある。また「候」は定番だが、受動表現のための「被」の略字についてはそうと思い至るまでに時間がかかった。

図の左端の、境村の玉川上水の取水圦から順次

〔境取水圦〕

竹垣三右衛門樣御代官所 

武州多摩郡府中領境村地内

品川用水取圦樋 長五間 内法貳尺五寸四方 一ヶ所

 

是者寛文七未年品川宿御傳馬宿附村々爲御救玉川〓御上水分水被下置候處

用水路所々分水有之品川領村々〓ハ用水行届不申候付其後元禄四年取圦樋並

右用水路之内悪水吐伏越樋者勿論用水路掘廣掘込用水梜土手共皆御入用

御普請被仰付其後右取入樋之儀享保元年御材木並切組賃鉄物代トモ

御入用被下之伏方一式之儀者組合九ヶ村百姓役以御普請被仰付其後度〃御修複

有之去ル天保四己年御普請奉願上右御入用金九ヶ村ニテ金仕永久相保候樣

男柱笠木土抱板共石ニ模様替仕度奉願上候㫖御下知相済則御普請最モ

己来御修複等之節者御入用可被下之旨被仰付罷在候然ㇽ處埋樋之分年来相立

木品惣体朽腐候ニ付ル嘉永ニ酉年御伏替奉願上候處御下知相済願之通

御普請被仰付候故當時相保居用水無難引取御田地永續罷在候事

左岸:  境村地内/御高札

橋:   連雀新田

橋:   前新田/拝嶋街道

右岸:  仙川用水/御高札

右分水: …/御普請所/上仙川村/中仙川村/金子村/大町村/組合用水
     
野川村地内/上仙川組引分樋

右分水: 野川村々内/仙川用水口

     野川村地内/仙川引分樋

左岸:  野川村ノ内/御高札

橋:   仙川村ノ内/拝島街道

橋:  〔無印〕

悪水吐:武州多摩郡下仙川村地内

飯高主計樣御知行所

武州多摩郡仙川村地内

 悪水吐伏越樋 長八間 内法/高八尺/横三尺八寸\一ヶ所

 

是者元樋同断組合御普請所に而 享保十年宝暦十三

御材木切組賃鉄物代御入用被下之御普請被仰付其後

度〃伏替御修複等有之去ル文政十亥年同天保十一午年

御普請被仰付猶嘉永四亥年木品惣体腐朽及大破候ニ付

御普請奉願上候處御下知相済願之通御伏替被仰付

當時相保居候事

右岸: 高札

橋:  烏山村々内/甲州街道
    
甲州道中

左岸: 烏山村ノ内/御高札

    〔なし〕

悪水吐:武州多摩郡粕谷村地内

當御代官所

武州多摩郡粕谷村地内

悪水吐伏越樋 長拾間 内法高三尺五寸/横四尺\一ヶ所

 

是者元樋同所九ヶ村組合御普請所ニ而享保十己年宝暦元未年

御材木切組賃鉄物代共御入用被下之御普請被仰付其後度〃御伏替

御修復有之天保七申年御入用金を組合村々而定〓金仕永久相保候様

石樋ニ模様替奉願上候處御下知相済御普請被仰付年来相保〓候処

申卯年震災ニ而埋樋甲蓋石拾五枚胴折ニ相成難捨置候ニ付御普請

奉願上候処御下知相済石材鉄物代共御入用金被下之則當午年春

御修復御普請被仰付大丈夫ニ皆出来相成候事

橋:  廻リ沢村々内/高井戸道

橋:  廻リ沢村々内/船橋道

左岸: 高札

悪水吐:武州多摩郡船橋村地内

當御代官所

武州多摩郡船橋村地内

悪水吐伏越樋 長八間 内法高貳尺/横貳尺五寸\一ヶ所

 

是者元樋同所御普請所ニ而、享保十己年后御材木切組賃鉄物代共

御入用被下之、尤伏方一式乃儀組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付

其後度〃伏替御修複有之去ル文政九年伏替猶天保十三寅年

大破之節御入用尓組合村而足シ金石樋ニ模様替奉願揚上候処御下知

相済願之通御普請被仰付今ニ至大丈夫ニ相保居候尤向後御修復

等の節御入用被下候㫖是又被仰渡有之候事

橋:  横根村/用賀村/北見村/街道
    
「登戸道」の橋

左岸: 世田ケ谷村新町村々内/御高札

橋:  上馬引沢村ノ内/相州街道
    
「二子道」の橋

橋:  碑文谷村々内/稲毛街道/下馬引沢村

 
 青文字は、下の狩野文庫・蔵「品川用水圖の表記

狩野文庫・蔵
こちらは「サラ」で文字が読めるのがありがたい
末尾の下蛇窪村名主清兵衛さん、印章が「顕夢」という雅号印
代田の齋田家をはじめ村役人には文化人が多いが、おそらくその典型

 この図では、取水圦だけは、妙にリアルに描かれている


■なお…

東京都品川区「品川区史続資料編(一)」同区/S51・刊」pp.635-648
九九 天保九年 幕府幕府勘定所役人、品川用水路御普請所請所見分一件書留
(表紙)「天保九戌年
  御改正ニ付
   用水路御普請所御見分ニ付書上候諸控」

冒頭の、
「天保九戌年
 武州荏原郡品川領九ヶ村組合
  用水路御普請所仕来方書上ヶ帳
    九月 品川領九ヶ村組合」
に「沿革図」とほとんど同じ内容が以下のように記載されている(pp.636-637)のを見つけた。

●境分水樋
一 用水取入樋 長五間 内法弐尺五寸四方

是ハ寛文七未年品川宿御伝馬付村〃爲御救、玉川御上水文水被下置候処、用水路所〃分水有之、組合九ヶ村迄用水行届不申候ニ付、其後元禄四年取圦樋右用水路之内悪水吐伏越樋勿論、用水路掘広ケ掘込、用水狭土手共皆御入用ヲ以御普請被仰付、其後右取入樋之儀享保元年御材木切組賃鉄物代共御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付、其後度〃伏替御修覆等有之、去ル天保四年御普請奉願上、右御入用金九ヶ村ニ而足シ金仕、永久相保候様男柱・笠木・土抱板共石ニ模様替仕度奉願上候処、御下知相済伏替被仰付候、尤巳来御修覆等之節b御入用可被下之旨被仰付候、

 ●下仙川村伏越樋 

右同断用水路之内
飯高弥九郎様御知行所
武州多摩郡下仙川村地内

一 悪水吐伏越底樋 長八間 内法高八尺/横三尺八寸/壱ヶ所

是ハ右同断九ヶ村組合御普請所ニ而 、享保十年・宝暦十三年御材木切組賃鉄物代御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役ヲ以御普請被仰付、其後度々伏替御修覆等有之、去ル文政十亥年伏替御普請被仰付候、

●粕谷村伏越樋

 右同断用水路ノ内

当代官所
武州多摩郡粕谷村地内
一 悪水吐伏越樋 長拾間 内法高三尺五寸/横四尺 壱ヶ所
是ハ前〃右同断九ヶ村組合御普請所ニ而、享保十年・宝暦元年御材木幷切組賃鉄物代共御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付、其後度〃伏替御普請御修覆等有之、去ル元禄七申年御入用金江組合九ヶ村ニ而足シ金仕、永久相保候様石樋模様替御願奉申上候処、御下知相済御普請被仰付候、尤以来御修覆等之節御入用可被下之旨被仰付候、

   ●船橋村伏越樋 

 右同断用水路之内

当代官所
武州多摩郡船橋村地内

一 悪水吐伏越樋 長八間 内法高二尺/横二尺四寸 壱 ヶ所

是ハ前々右同断九ヶ村組合御普請所ニ而、享保十年御材木幷ニ切組賃鉄物代共御入用被下之、伏方一式組合九ヶ村百姓役を以御普請被仰付、其後度〃伏替御修覆有之、去ル文政九年伏替御普請被仰付候、

【余談】こんなことまで…

 下段の品川用水図。図の左端やや下の、「砂川呑水」の分水と「小金井呑水」のそれとの間に、ブロック状に注記が書かれている。
 この種の注記の大半は、あらかた、上記のような名称、仕様、由来、伏替(改修)の履歴なので、何か注記の必要がある位置でもなく、一体何が書かれているのかと、スキャン画像と接写写真を使って読んでみると…

上水両岸五十四町間櫻
百株アリ之元文年間中ヨリ
延享ノ頃迄年々植シメラレシ
所ナリ中ニモ花淡紅ニテ葉色
ウルハシキハ吉野ノ種ナ花白ク
葉色靑キハ常陸国川ノ
種ナリト云フ
(緑色文字は、いわば意読。青色文字は、正字体より略字体に近い表記なのでそれによったものだが、昭和4年の写本なのでオリジナルもそうかは当然不明)

というもの。
 書かれている位置からみれば、いわゆる「小金井桜」を意識した注記だろう。
 2種のうち「吉野ノ種」は、吉野原種のヤマザクラではなく、往時「吉野桜」とのいわゆるブランド名で売られていたといわれる、花が先行する江戸染井育ちのソメイヨシノだろう。「桜川ノ種」の方は、おそらくこちらは文字通りで、平安時代から桜の名所といわれていたらしい常陸桜川由来の、花と葉が共存するヤマザクラだろう。



【追記】

東京都公文書館の、デジタルアーカイブスで

上下蓮雀村井口新田一ノ宮村野崎村図

なる、これらの村絵図の集成図を見つけたので、その順序、方角を整理して

【域外:品川用水】境分水圦~牟礼村西端までの村絵図


とのページを作った。

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