三田用水研究: 【域外:品川用水】品川用水(と三田用水)の絵地図
で、かなり状況が判明してきた…
現在の、千歳船橋駅北西方向にあった、今は千歳通りとなっている品川用水の築堤に設けられていた「船橋村の悪水吐口」跡。
・「明治初年『用水記録』」(「沿革史」p.120)記載の仕様
一、〔神奈川〕縣〔下武州多摩〕郡船橋村地内
用水渡井長四間、内法竪四尺五寸/横六尺
石渡井下夕伏樋横長八間、内法竪貳尺/横貳尺五寸
・昭和22年の姿
https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.37.17.581N35.38.42.815/zoom/12/?data=showa-22
環八〔手前左右〕と千歳通り〔奥行方向〕が交差する「環八船橋」と、 そのすぐ東で千歳通りと荒玉水道道路〔画面奥の横断歩道〕との交差点 2021/11/13撮影 手前から奥行方向に高さ約 この写真は、ほぼその築堤の上の高さから下流方向を撮ったことになる。 |
路線価図 北沢税務署#38064 抜粋 |
現在道路(遊歩道または道路の歩道敷)として残っている旧水路
N4の北方は、道路がないのに船橋2丁目9と10の境界線となっているラインが水路だったと思われる
■ 空色の線が〔S1/N1〕
空地として残っている旧水路
■ 緑色の線が
道路に覆われて残存していない旧水路
もっとも、予想通りではなかったのが、千歳通り〔ということは、かつての品川用の築堤南の、今の桜丘5丁目50番と51番の境界部〕の水路である。
この境界線の、おそらく北半分ほど〔S1〕については、水が流れていないだけで、「見事」といってよいほど、かつての水路敷の姿が残っている。
しかし、南半分ほどには、水路跡らしい痕跡はみあたらない。
この南半分の区間についても、もともとは、公有物かつ公用物だったと思われるので、それが、公用廃止→(場合によっては、無償)払下げの手続きがとられていたのかもしれないが、調べてみないと分からない。
■千歳通り南側
〔S1〕北端をフェンス越に。シートに覆われてはいるが… 水路敷(と、いうより「涸沢」といいたい)の雰囲気が残る。 |
左端のパイプによる柵が〔N1〕南端。右端が荒玉水道道路。 |
〔N1〕南端 |
〔N1〕北端で北方向から振り返る |
〔N2〕南端 |
〔N2〕北寄り |
〔N3〕。赤いポールの向こうが、〔N4〕南端 |
〔N3〕北端 〔N4〕南端 |
〔N4〕屈曲点 |
〔N4〕最北端。北側水路跡の北方向の行きどまり |
此段世田ケ谷村百姓傳治郎儀字横根堀筋へ横穴ヲ明ケ土手堀割田場へ水引取候…
〔傳治郎は〕右體盗水盗水致候儀者無之狐穴より自然水洩落旨相答候
つまり、用水の土手に穴を掘って近隣の水田に水を落とした下手人と目された傳治郎*は「狐が土手に掘った穴からの自然漏水」と弁明したとされ、勘定奉行所?の吟味の結果、本物の狐穴の周りを故意に掘り広げたと認定された**ようだが、この弁明、なかなかユニークなためか、
「世田谷の河川と用水」p.68
堀越正雄「江戸の上水」新人物往来社/S45・刊 pp.179‐180
*後掲の図から推すと、大蔵村の住民らしい
** さすがに、後掲の図のとおり、幅1尺5寸(45cm)はともかく、深さ5尺(150㎝)もの溝を、自然の流水が削ったというのは不合理だし、鋤などによって人為的に削った痕跡も残ってしまうだろうから、露見して当然。
一方、土手に掘られた「狐穴」の方は、人には無理でキツネにしか掘れないような「出来が良すぎる」穴だったのかもしれない。
盗水場所麁絵図 |
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