■こちらは…
ミッシングリンクというほどのことでもないのですが、
現・防衛装備庁艦艇装備研究所 <http://www.mod.go.jp/atla/kansouken.html>
の実験用水槽の水。
画面手前横方向の緑色の屋根の細長い建屋が実験用水槽 手前側の三角屋根が「大水槽棟」。奥側のカマボコ形の屋根が「高速水槽棟」 |
ここの構内の建物の配置や、これら2つの実験用水槽など構内の施設の規模や機能の詳細については、
佐藤隆一「防衛庁技術研究本部第1研究所」(TECHNO MARINE 日本造船学会誌/第875〔平成15年9月号〕)
に詳しいので、そちらをご参照いただくことにして、ここでは「水槽」の話。
■水槽といえば…
ここには、屋内の2つの水槽(実際には、ほかにも「中水槽」「無響水槽」などがある)のほかに、屋外、敷地南西端、上の写真でいうと左端に写り込んでいる高い煙突のある清掃工場の向かい側の、現在、統幕学校(かつての、陸軍/海軍大学校に相当するようである)、幹部学校(同じく、陸軍士官学校、海軍兵学校に相当すると思われる)のある場所(煙突右の立方体に近い形のビル)に、「旋回円形水槽」という円形のプールと「旋回実験池」という略紡錘≒洋梨型の池があって(下図参照)、屋内水槽やこれらの水槽に「三田用水の水が使われていた」とかねてから言われていましたのですが、これまで「ウラ」が取れていなかったのです。
Army Map Service〔A.M.S.〕(U.S.A.)1946制作 "TOKYO AND ENVIRONS, SHEET 12 - NIHOMBASHI"テキサス大学図書館・蔵 <http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6549645-12.jpg> 〔抜粋〕 |
■「ブラタモリ」に…
登場したのは、これらのうち「大水槽」。
佐藤・前掲p.103によると
長さ 255m × 幅 12.5m × 深さ 7.5m 昭和5年竣工
(なお、隣の高速水槽は
長さ 346.5m × 幅 6m × 深さ 3m 戦前に着工・戦後竣工)
なので、容積は 2万3906.25 立法メートル(放送では1.8万トンとされていますが、水槽に、文字通り「波風を立てて」実験することもあるので、7.5メートルの縁ギリギリまで水は入れられないためと思われ*、これを水深に換算すると5.65メートル)
(高速水槽の方は6237立方メートルなので、その約4倍)
*佐藤・前掲p.106
【追記】2021/09/05
不覚にも、ネットオークション出品画像を見て、帝都地形図(之潮・刊)の「三田」図に、おそらく、震災前、ほぼT11の火薬製造所の姿が記録されていることを、今頃になって知った(さらに不覚にも、この「三田」図のコピーは、渋谷区猿楽町の旧朝倉家住宅の沿革を調べるために入手済みで*、手許にあった^^;)。
帝都地形図 T10/12測図S22/07補修「三田」〔抜粋〕 S03起工の大水槽はまだ存在しない一方で、 目黒川沿いの、洋梨形の旋回実験池(右下)と、終戦時未完成だった旋回円形水槽は、輪郭だけ追記され、 また、新茶屋坂も、追記はされているが坂下が目黒川で行きどまり |
*帝都地形図なら、上図同様に東京都立図書館などでコピーが入手できるので、あわてて入札しなくて正解だった。地図が欲しいわけではなく、情報が欲しいだけなので。
■今回の放送での…
大きな収穫は、明治13年に開設された海軍(後に陸軍)の火薬製造所時代、火薬製造所が大正12年の関東地震で全焼したのを機に移転された後、昭和に入ってからの海軍技術研究所時代(この間、昭和21年までは、明確な裏付けがある)だけでなく、防衛庁(当時)技術研究本部第1技術研究所となった後も(その前の連合軍による接収時期*を除いて) 昭和48年にここの構内の暗渠が破損して通水が停止されるまで(公式な通水終了は、昭和49年8月31日)、三田用水の水がここで使われていたうえ、それが残存していることの裏付けがとれたところにあります。
*高速水槽が未完成なので、連合軍による接収解除後間もないと思われる時期の構内図が、
HONDASO氏のTweet記事中にあった。
https://pbs.twimg.com/media/CdJEA72UYAEftFO.jpg
ここに描かれている、三田用水から目黒川への分水。謎である。
【追記】2018/01/21
この謎の分水。このアーティクルのコメント欄で大御所本田創氏から、その素性をご教示いただいた。
逆サイフォン入口の余水吐けとなると、増水時(あるいは、上流部の分水口で故障などがありそこでの取水が停されたときも同様)には、この水路には大量の水が流れ込むことになるので、その水を崖下で溢水させないだけの、相応の容量が必要である(この製造所の東端の「出口」先の「実相寺山分水」のところには、明治13年当時、そこから下流に大量の水が流下しなようにするための「仕掛」があったようだが、そこから上流部に同様の「仕掛」は、今のところ見つからない)。
この位置と流路、下図のとおり、明治初期までの別所上口とその分水路と、ほぼ整合しているように見える。
M13測M30修測 1/20000 内藤新宿〔抜粋〕 この時点で、旧海軍火薬製造所から渋谷川に流下する道城池口は、2度目の移転を経ている。 |
M42測T06修測 1/10000 三田〔抜粋〕 |
しかも、驚いたことに、現在のを設定する大水槽に貯留されている水の、約4割つまり4500トンは三田用水の水が残っている、ということでした。
■とはいえ…
三田用水の水は、元を質せは玉川上水、ひいては、多摩川の水なので、たとえば「地底湖に封じ込められた5万年前の水」などどいうのに比べれば、それほどのインパクトではなく、やはり、昭和21年から48年までのミッシングリンクが繋がった*ことの方が、個人的には1番の収穫といえます。
*なお、佐藤・前掲pp.103-104によれば、この敷地が昭和31年ころ連合国による接収が解除されたときには「大水槽側壁のクラックは総延長約1600mに及んでいたがセメントガン吹付工法による防水工事が行われた」〔原典は高比良善郎「防衛庁技術研究本部第一研究所水槽施設復旧工事に関する報告」の由〕とされているので、接収宇解除時には水は無かったはずで、現在大水槽にある水は、(戦艦大和の艦形の設計のための実験に使われた水ではなくて)間違いなく「戦後の水」なのである。
こんにちは。引用されたtweet主の本田です。このブラタモリの調査時に、防衛省内に保存されている三田用水関連の資料を見ることができました。拙著「東京暗渠学」に少しだけ記したのですが、三田用水は防衛省内をサイフォン水路で抜けていました。(敷地が低くなっているため)。目黒川への分水路は、そのサイフォン区間の取入れ口に設けられた余水吐です。
返信削除本田創 様
削除貴重なご教示ありがとうございます。
それにしても、あそこは、敷地、地形、水路、分水路どれをとっても変遷が著しいのに加えて、大正期以降の史料が乏しく、実に悩ましい地域ですね。
きむらたかし@三田用水