2017年8月26日土曜日

【余談】今里地蔵由緒

【編註】
 この元禄今里地蔵は、現在三田用水の水路の跡地に建っているだけのことで、三田用水と直接の関係は全くない。

 ことに、後記のように、地蔵がこの地に祀られたのが昭和20年であるのに対し、

・当ブログの、「【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合」
 https://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html

のとおり、昭和9年9月の室戸台風によって上流部の築堤が崩壊して以来、この場所の下の用水路には水は流れていなかったのだからなおさらである。

 ただし、この敷地の周りの擁壁〔後掲の地蔵堂背後からの写真参照〕に、昭和2年ころ再建された用水路築堤の石積みが残っていることが、かろうじての用水路の「よすが」と、無理無理いえなくもない。


■港区白金台3丁目12番21号の…
 
元三田用水の水路上に祀られている
「元禄今里地蔵」
 
撮影日:2009年01月24日

撮影日:同上



の由緒について、かなり信ぴょう性の高いデータがみつかりました。

■同区の… 

 高輪地区情報誌「みなとっぷ」2016年7月Vol.30
https://www.city.minato.tokyo.jp/takanawachikusei/takanawa/koho/documents/minatop_30.pdf

の4ページ目右欄の記事です。

■もともと…

地蔵は、幼くして亡くなった子供の墓標とする場合を除けば、塞のカミ、つまり村や集落(字)の境界で、外部から入り込もうとする災厄を防ぐカミとして祀られるので、村などの四隅のどこか〔鬼門である北東隅のことが多い〕に祀られることが多いので、
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm
ここに祀るのはどちらかというとやや異例。

 その理由として、かねてから、この地蔵、他の場所にあったものがここに移されたといわれていて、たとえば

ブログ「水の行方を追って」のhttp://wanjin.blog.fc2.com/blog-date-20150304.html
によれば
 この今里地蔵は
1)現在の上大崎周辺の「五反田田圃」にあったものを高輪台交差点周辺に移した
2)その後、桜田通り拡幅のために現在の場所に持ってこられた
 とされていました(ただし、出典の記載なし)


 このうち
2)については、
  現在地は旧今里村内であり
 「高輪台交差点周辺」のうち、北西寄りであれば一応旧今里村内と考えられる
 ので、あり得る話なのですが、

しかし
1)については
 移動させるとしても、上大崎村から他村である今里村に持ってゆくことは、通常はまずあり得ないことといえるのです。


■ところで…

先の記事を要約すれば

白金今里町協和会の町会長鈴木正一氏によると
  • 鈴木氏の先々代で鳶職だった孝三郎氏が、1915(大正4)年に、 200mほど離れた五反田田圃(上大崎1丁目)*のあぜ道で、光背に「元禄十七年」などと刻まれたこの地蔵を見つけた
  • 孝三郎氏は、区域の人々と親睦会を作って
  • 当初、100mほど離れた辻端*に祠を作って祀った
  • そのころは、氷川神社のお祭りに合わせて毎年縁日が賑やかに開かれていた
  • 1945(昭和20)年、現在の環状4号線の道路計画によって移動を余儀なくされ
  • 1933(昭和8)年に建てられた神輿倉を現在地に移築してそこに祀った
  • 鈴木氏(家)は、三田用水が正式に廃止された後、7坪ほどの現敷地を購入し
  • その後は、鈴木氏(家)が個人で管理を続けてきた。
とのことですので

* 後述のとおり、いずれも具体的な位置は不詳

 この地蔵は、他村から「連れて来られた」という珍しい来歴を持つことに疑いの余地がないことになります。

註:記事中やここ
  https://www.city.minato.tokyo.jp/takanawakyoudou/digital-archive/photo/archives/957.html
  の写真をみると光背の右上に「爲荷」〔ために〕とあることから、もともとは幼児の墓標だった可能性もある。
  そうであれば、きちんと祀りさえすれば、どこに祀ってもよいのかもしれない。


港区立港郷土資料館「増補 港区近代沿革図集 高輪・白金・港南・台場」同館/平成20年・刊 p.42抜粋に補入


■今回…

「わかってみると、なるほど納得」が2つ。

・像のプロボーション

 地蔵は、立像つまり立ち姿のものが多いのですが、座像つまり座った姿のものもないではないようです。

【参考】座像の地蔵菩薩の例
木村小舟「日本仏像図説」国書刊行会/S62・刊(原本S15刊)p.153より

 ところが、この今里地蔵、立像にしては背が低すぎるので座像かとも思ったのですが、そうだとすると今度は頭が大きすぎるように思っていたのです*

* もっとも、この種のいわば民間信仰の対象の地蔵像の場合は「儀軌」という「正規のマニュアル」に則って作られるとは限られず、いわば「なんでもアリ」の世界ではある

撮影日:前同
つまり「4」の付く開帳の日にちょうど行き合わせたことになる。
 先の記事と記事中の写真によれば「やはり」で、発見(堀)されたときは「上部30㎝ほどしか残っておらず、後から台座が付け加えられた 」ことが判明しました。

・堂のサイズ

 写真からもわかるように、今里地蔵は、高さ30センチ、台座を入れても35センチ程度の小さな像なのですが、そのわりには、納めている堂が大きい。

撮影日:同上

 まぁ、浅草観音の例もあるので、異例というほどのサイズではないのですが、前記のように、この堂が、中身の神輿を海軍に献納した後空き家になっていた神輿倉をいわば転用したものとわかり、違和感が解消しました。

■ところで…

こうなると、

1)大正4年ころこの地蔵が発見されたという
  「200mほど離れた五反田田圃(上大崎1丁目)
 なる場所
2)最初に祠を建てて祀られた
  「1945(昭和20)年、現在の環状4号線の道路計画によって移動を余儀なくされ」た
  「100mほど離れた辻端
 がどこなのかが気になります。

●まず1)についてみると

 「五反田」といえば、当然ながらJR五反田駅を連想しますし、実際に、この駅の北に「五反田」という字名の地域があったのは確かなのですが
・ここからは6・700メートルは離れていますし
・そもそも、そこは「下」大崎つまり旧下大崎村の村域
ですので条件を満たしません。

 さらに、大正4年といえば、当然五反田駅も開業しており、大正5年の1万分の1地形図「品川」〔後註〕をみても、旧字五反田の地域は耕地整理された農地が、さらに、あらかた宅地化、工業用地化されていて水田は僅かしか残っていませんので、そんな街中で、地蔵像が「今さらあぜ道」*から出土したというのは、想定しにくいのです。

*ただし、「あぜ道」という条件を外せば、一つ可能性というか類例があるのですが。


 そこで、「上大崎1丁目」と「200メートル」を手掛かりに考えてみることにしたのですが…

・上大崎1丁目で
・当地から200メートル(やや誤差を考慮して300メートル)
の範囲で考えてみると
 「五反田」と呼べるような田(圃)のある区域は限られています。

と、いうのは、この区域は
 森ケ崎
 霞ケ崎(後の池田山)
さらに、下大崎ですが
 袖ケ崎(後の島津山)*
といった、大体今の目黒通りを北端とする半島状の台地が、東西に連なっている地域で、水田は、主にそれらの台地の間の狭い谷筋に分布しているからです。

「東京市高低図」
https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-38.pdf
より抜粋


*上下大崎村の字名については
 「土地概評価. 荏原郡大崎町 大正9年8月調」東京興信所/T11・刊 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/5
 参照

 となると、「五反田」というのは(明治初期の地租改正の折には正式な字名にはならなかったとしても)、これらの谷筋のうち、たとえば「五反『しか』水田のない」限られた地域を指していると考えるほうが素直と思われます。

●次いで2)については
 (1)(「戦災復興計画」の)環状4号道路の予定地域内であること
    それに先立つ「震災復興計画」またはそれにさらに先立つ「東京市区計画」でも当地には道路計画があって
    その予定地と「戦災…」とでは、後者がやや北寄りのルートとなっている。
 (2)道の「辻」つまり交差点にあること
 (3)祠に納められていたこと
 (4)通常ならば、現在の所在地と同じ旧今里村の村内で、その「塞」といえる場所にあること
 といった条件を満たしているはずなのですが…

 実は、これらの条件を満たす場所は、今里町の南東に隣接する白金猿町の地域を含めても意外に少ないのです。

 とくに(3)のように祠があるのなら、よほど粗末なものでない限り、1万分の地形図には逆T字型の記号で表現されてることが通常なのですが、大正5年図*には「間に合わない」としても、大正14年図**あたりには反映されていてもおかしくない、というよりも、むしろ当然のはずなのです。

* (公財)後藤・安田記念東京都市研究所→市政専門図書館デジタルアーカイブス→東京関係地図
 「OY-1-025 品川 大日本帝国陸地測量部編 1917.12. 1:10000」 
 https://www.timr.or.jp/library/docs/OY-1-025.pdf
** 同上 
 「OY-1-104 品川 一万分之一地形図 東京近傍14号 大日本帝国陸地測量部編 1926.06. 1:10000」
 https://www.timr.or.jp/library/docs/mrl1003-01-14.pdf

 しかし、やや範囲を広げて観察しても、それらしい記号がみあたりません。
 あるいは、どこかの家の敷地の隅に、そのお家の屋敷神と見間違えてしまうような形で祀られていたのかもしれません。


【参考資料】

・2005年の姿
「Panoramio」
http://www.panoramio.com/photo/85835141

北西隣地のクスノキの存在感が見事

・2007年の北西隣地の工事(基礎のための根切り)
「消えた水路」
http://edonomizu.blog112.fc2.com/blog-category-3.html

当時、赤レンガで作られた用水路の遺構がまだあった
 
 

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