2020年8月21日金曜日

【域外:品川用水】「恵澤潤洽碑」建立記念写真集

■毎年…

「盆暮」にはネットオークションに「お化け」が出ることが多いのだが、今年も「出た」。

品川区大井の鹿嶋神社に、恵澤潤洽碑という巨大な石碑が立っている。

この石碑、昭和8年1月に、昭和に入ってからは下水路に化したといわれる、品川用水の大井内堀(中延と下蛇窪の境界で分水され*、「大井の掛樋」(どうやら正式には「大井の掛渡井」)で立会川を渡る水路)
*大井町編「大井町史」S07 p.308
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209587/247

目黒筋御場絵図(国立公文書館・蔵)の
大井の掛樋/大井内堀/鹿嶋神社















を管理・運営していた「品川用水大井内堀組合」が、用水による恩恵と、明治10年代に私財を投じて「字篠谷耕地三町余の田地」〔現・大井5丁目、伊藤博文墓所南方あたりのようである〕への水路を開鑿した平林九兵衛
  三田用水研究: 【域外:品川用水】大井分水の分水の素掘暗渠
とを顕彰するために建立したものである(碑文による)。

品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五郎・編
「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18 より
後方が「恵澤潤洽碑」

同沿革史p.234によれば
「記念碑は…、昭和七年九月二十四日起工され同年十二月二十七日竣成した。工事報告に據ると
一 水利組合功勞者記念碑建設竝ニ外構其他附帯工事
  間口三十二尺、奥行三十四尺五寸
  記念碑長十七尺六寸 幅七尺二寸 厚一尺二寸 仙臺石
  基礎工事内部鐵筋混凝土 外部根巻自然石 外構鐵筋混凝土竝ニ石材

  右工事金五千九百七拾五圓也」

とされている。

■この写真集は…

その、地鎮祭、基礎工事、石碑の現地への搬入、除幕式などの光景を撮影した15枚の、いわゆる生写真を、厚紙の台紙と、同じく厚紙で作られた枠の間に挟んで、布貼りの表紙で編綴している。


裏表紙見返

その全部をここに載せるというのは、
  • 厚紙の枠があるために(可能ではあるが)スキャナの焦点調整が面倒なのと
  • 「今現地に行ってみても、ほとんど同じ光景」なものや役員さんの集合写真を載せてもさして意味がなさそう
なので、この先のことはともかく、まずは、とくに印象深い3枚だけ、とりあえずご紹介することにする。

■「碑石搬入」

石碑のサイズは
全長19尺7寸(=全高約5.9m)
幅  7尺6寸(=全幅約2.3m)
厚サ 1尺1寸(=厚さ約0.33m)
の由





















碑石建設地現場到着(同日)






















他のページの記述によると、碑文を掘ったのは、青山の石勝という石工とのこと。

青山で掘られたとすると、青山から、1枚目の写真背景である大井町の「川崎貯蓄銀行大井支店」(現・大井第一小学校北向かい。下図青矢印)まで、さらに、池上通りを大森に近い鹿嶋神社(同赤矢印)まで、この荷姿で運ばれたことになる。

説明文の「重量約三千貫」というのが正しいとすると(サイズと比重‐3.5max‐から概算すると、大きな矛盾はない)、石の重さは約12トン。今なら、大型トラックで運べる重さだが、当時は、この重機(ロード・ローラー)の力に頼るしかなかったのだろう。

大日本職業別明細図 品川区 S08


写真中央の若い人物は、次葉の写真にも写っているが、座っている場所からみて、ロード・ローラーの、いまでいうオペレーターだろう。

当時、自動車の運転手もそうだが、大抵の故障なら自力で直せる技術力が必要だったといわれる半分エンジニア。道理で、周囲の人たちとは、顔つきがまるで違う。

センモンカ」だけに服装も凝っているようだ
袖周りとか襟のストラップなど、現代の「マウンテン・パーカー」
として見ても違和感がない、というのがある意味「スゴイ」




















■「除幕式(其ノ三)」


背景が「恵澤潤洽碑」の下部
これだけにも、この碑の巨大さがわかる

 左端が当時の品川区長の由。

 その右の3人の「除幕奉仕童女」は、「神童」役なので、紅白粉(べにおしろい)で化粧していたはず。

 そのためもあってか、中央の「倉本フミ子嬢」は、今のフラッシュ(ストロボ)の代わりに使われていたマグネシウムを燃やす発光器に「正面を切って」いたため、可哀そうに顔がほぼ全面真っ白に写ってしまっている。

区長〔当時は官選〕さんの顔も和みますよね。このパターンだと
当時の用水組合の役員リストの名前から想像すると、この3嬢
役員さんの「ご自慢」の娘さんか孫娘さんの可能性が高いように思われる











ところで、ざっと計算してみると、この倉本嬢、現在95歳の「我が母」とほぼ「おない年」のようである。


【工事写真追加】

基礎工事 昭和7年10月5日

碑石吊上中 昭和7年12月24日


■世田谷…
それもその最北端近くに住みながら、なぜ、この本を手に入れたかったのか(しかも、大井地区は昭和7年には通水を停止しているので、現役の水路が写っているわけでもない)というと…

 実は、
  • 昭和36年ころまでこの大井町に住んでいた
  • 氏神は鹿嶋神社なので、秋祭りには神社に行って(上の地図にある大井(第一)小学校という区立校なのだが、お祭りの日は午後からお休み)、この巨大な石碑を見上げていた
 そればかりでなく
  • 学校の通学路の途中にあった「ドブ川」が、実は品川用水の末流で、東海道線を渡ってほどなく立会川に落ちていたことを、相当後になって知った
ためなのである。

「東京府下大井町全図」T15 抜粋
紫矢印が、通学路が渡っていた品川用水路の「ドブ」
通学路を赤くインキングしてみた






























 当初は開渠(残念ながら、護岸がどうなっていたのかの記憶はない)。
 その後、プレキャスト・コンクリートのU字溝を使った「蓋つき暗渠」になったところまでは彼の地にいた*

*工事の途中で、同級生と途中まで蓋が載っている水路の中を探検しに入ったことが学校にバレて、メチャンコ怒られたが、今思い返しても、この探求心「自分で自分を褒めてあげたい」

■10年ほど前に…

所用で大井に行たついでに見に行ってみたら、本格的な暗渠になっていた。

池上通り東側から撮影
画面左は、かつて「戸越庵」というお蕎麦屋さんだった
確か、当時、
まだ学生だった一番下の叔母、叔父が、夜小腹が空いた時に、とっていた際に

「お相伴」したときの記憶では、モリ・カケが20円、キツネ・タヌキが30円だったと思う。
というのも、ラーメン(なんと、ソバと同じカツオ出汁だった)が+10円だったと記憶しているところ
さすがに、50円もしていた記憶はないからである

【追記】
丁度、上の写真の池上通りを挟んだ反対側の写真が出てきた。
やはり、水路幅の空間が残っている



■しかし…
川道に降りる階段は、ほぼ昔のままだった。


画面左奥に、あるとき、
木造・下見板張・(確か)2階建ての、
天理教の教会が建って、物凄く立派なのに驚いた覚えがある。

ここが、一番よく通った階段

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