【域外:品川用水】「用賀の深堀」を探す

 ■「沿革史」

つまり、ここのブログでは

品川用水沿革史編纂委員長 倉本彦五郎「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊

を、そのように指すことにしているのだが、その口絵写真中の1枚に

当時の地図のみると、北見橋から桜新町までの用水路については、
両岸に道路のある区間は限られており、この写真は、
北見橋ないし、それよりもその直下の橋上から撮影された可能性が高い

この写真がある。
 発行年でわかるように、戦時中の出版物なので(と、いっても、よくぞ不要ではないが不急の本を出版できたものである)、紙質も悪く、網点も荒いので、不鮮明ではあるが(これでも、渋谷区中央図書館からお借りした原本から、旧式とはいえ業務用のスキャナを使い、その画像を階調がなるべくフラットに分布するように調整している)、「深堀」というキャプションも合わせると、
  • 中央にある白い部分は水路の底の水で、
  • その水路底に向かってほぼ垂直に削ったような堀の側面に
  • 生えている樹木は垂直方向ではなく対岸方向に斜めに伸びて
  • 水路を覆うように茂っている
ようである。

■この深堀の…

位置については、
での、3つの悪水吐樋と同じように「沿革史」の巻末近くの品川用水路現狀視察記」(pp.259-268。以下「視察記」)に多少の手掛かりがあった。

 つまり、そのp.264に

  小田急電鐵線路の踏切を越すと向側は横根部落、今の世田ケ谷五丁目である。踏切の左に千歳船橋驛あり、右敷間に用水の開渠を越す鐵橋がある。水路はこれより再び高い築土手となるが、四町行った民家の傍から低くなつて道路と同じ高さに變る。水路敷は僅かの凹みとなって急には見分け難いが、珍らしいことには洗場の跡などが遺されてゐる。 

 横根を過ぎると用賀の臺地にかかる。一帯の丘陵地は大浪のうねりの如く、北から波及し來るたって多摩川岸に終末を告げてゐるが、水路はこれを切割って横斷しなければ荏原へ出られないのだ。この設計と工事は何百年の昔定めて困苦し努力したことであらう。丘陵横斷の半里あまりの水路は、或は二三丈或は四五丈の濠となってゐる。里俗これを用賀の深堀と呼ぶ。兩側の斜面には竹木繁茂し、堀には流れざる水が滿々と湛えられてゐる。湧水の溜ったものか、過去の用水の殘留か、ともあれ全水路中、最もよく舊觀を存してゐるところである。

 歩き去り歩き來って見る水路の千變萬化、或は高く或は低く或は滅び或は遺る。吾々は茲に用水經營の歴史の縮圖を自賭するが如く萬感なきを得ない。

 横根のはづれより水路は廣大なる陸軍自動車學校に入る 迂回して調布道に出で學校正門前に至る。水路の斜面の雜木よく生育して宛ら並木の如し。學校前より右へ折れる水路上、府道に石橋が架せられてゐる

■このうち…

陸軍自動車學校に、用水路の入る地点

同校前の府道の石橋(北見橋)

については、まず goo map の S22の空中写真へのリンクを上記本文にセットしておいたが、残る問題は、この

・「半里あまり」の長さの

・深さ「或は二三丈或は四五丈

の「深堀」なるものが、「横根」のどこで始まり、どこまで続いていたのか、

逆にいえば

「用賀の臺地」なるものがどの範囲にあったのか

ということになる。

■どうやら…

旧水路というより、その脇の標高データをトレースしてみるのが一番効率的なようなので、不慣れというより、まともな目的のために本格的に使うのは全く初めてといえるカシミールを使ってみた。

 登山用などと違って、範囲が狭小なうえ高低差も微小なのでてこずったが、なんとか、いわゆる「見える化」できたのが、下の図である。

「用賀の深堀」説明図
赤色の鎖線が、品川用水路

                    
■かなり…

アバウトな作業だったのだが、見えてきたことは意外に多かった。

たとえば…

1 「玉石擁壁始点」(白矢印)から「玉石擁壁終点」(黄色矢印)の区間

ここには品川用水の「水路跡」というより「水路敷跡」として、最も顕著な遺構が残る

始点

中ごろ1


中ごろ2
建物建築のために一旦撤去した擁壁を
力学的には全く不要なのに、おそらくオリジナルの素材で積みなおしている



終端近く
ここは、素材は異なるが、「玉石積擁壁」を「復元」している






























このあたりは、まだ台地の北端の裾のあたりであることがわかる(お椀を伏せたような形の台地の端を削ったため、擁壁の両端は低く中央は高い状態になる)。

 【補記1】

ここの、玉石積擁壁は、平成14年度に
「玉石垣のある風景」
として、世田谷区の「地域風景資産」に選定されている。

 【補記2】

後記のように、画家・歌人である原田京平1895-1936)の家が、ここの水路の少し南にあったので、この作品

雪 1931-1936

あるいは品川用水路を描いているのではないかと考え該当の場所を探してはいるのだが、みつからない。

もっとも、1930年代前半の用水路沿いとしては拓け過ぎているかもしれない。

2 上図の赤矢印から東が、旧・帝国陸軍自動車學校の敷地である

「視察記」にある、水路が「廣大なる陸軍自動車學校に入る」位置は「ここ」ということになる
現在の桜丘中学校の西端にあたる場所で、後述の「ザリガニ取り」の写真からみて、「深堀」は、このあたりから始まっていたようである。

3 赤矢印のやや東。「現・桜」の下あたりの地色がやや薄くなっている

ここは、自動車學校の訓練用のオーバル・コースのあった場所で、南側の台地の裾を掘り下げてコースを設けていることがわかる。

ここから下流、水路が、右折して南方向に向かった後、左折して東の青線の北見橋方向に向かっているが、この右左折が旧・自動車學校/現・東京農大の敷地北東にある小さな谷をクリアするためであることが、今回初めてわかった。

4 青矢印の「北見橋」のあたりで、上記3のように東に流れてきた用水は右折している

大まかにいえば、これまで横根地域を流れてきた用水は、用賀地区の馬事公苑の東縁を南に流下することになる。

「用賀の深堀」の語源である「用賀」というのは、今でも先の青矢印から南なのであるが…

用賀村絵図 寛政6年10月
右端が品川用水、中央やや左の|の川が矢沢川
右上の\の道が「登戸道」〔現・世田谷通り〕

下のーの道が「大山道」〔現・玉川通り旧道〕


今回の作業までは「用賀」というのが(少なくとも「横根」よりは)有名な地域名なので、

「深堀」の存在していた場所を、本来の「用賀」地域に限定しないで、いわば「用賀のあたり」という程度に考えていたこと

逆に、地名にこだわって最初から対象範囲を限定してしまうと、これまでの経験上も「大勘違い」をしかねない

図中の「俚俗・ババ池」が存在していたこと

このいわゆる「溜池〔溜井〕」は、品川用水開鑿時に設けれた分水に起因し、元禄2年にそれが閉鎖された後も用水からの漏水あるいは浸透水で維持されていたと考えられていた(東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同/S52・刊 第41図 (p.74の 次ページ)) ので、

    • 「深堀」と名付けられるほど深い位置に水路があるのなら、そこに分水口(原則として開閉できるものである必要があるし、そこからババ池までの水路を作るのも難しい)を設け、しかもそれを管理するのは容易ではないし
    • しかも、ババ池のさらに西の用水寄りに、「シン田丁トビ地」つまり、南方にある後の世田谷新町村のおそらく水田が存在していた
彦根藩「世田谷領二十ヶ村繪圖」文化3(1806)年抜粋

と考えられる(「世田谷領二十ヶ村絵図」)ので、わざわざ遠くからここにちっぽけな耕地を設ける以上は、コメの収穫が期待できる、用水からの、漏水程度ではなく分水があったと考えるほかなかった

【参照】弦巻村の八幡社は下北澤村の野屋敷稲荷の類例か?: 平成作庭記+α  

ことから、「深堀」が、本来の意味での「用賀」地域にあったという発想はなかった、というより、本来の「用賀」にはなかったのではないかと考えていたのである。

しかし、今回の作図結果をみると、この「ババ池」のある地域に限っては、標高の高低を色の濃淡で示す色味(以下「標高色」という)からみると、(自動車學校/東京農大北東のそれのように)東方向から蛇崩川の源流に該る小さな谷地が用賀台地に食い込んでいたことがわかり、ここさえ築堤で用水路を通すことを前提にすれば、「用賀」地域に「深堀」があって、何の矛盾もないことがわかった。

しかも、用水路のある大部分の場所の標高色は、先の横根地域に比べても、はるかに濃厚であり、先の「ババ池」上流部の限られた地域を例外とすれば、「用賀の深堀」が存在してたらしい主要な地域は、文字通りの用賀地域だったということになる。

東京都世田谷区「せたがやの歴史」同区/S51・刊 pp.362-363掲載の「旧品川用水に沿って 昭和十六年」との表題のイラストマップによれば、北見橋やや南から陸軍衛生材料廠(現・陸上自衛隊用賀駐屯地)北までの区間は「この辺両岸樹木うっそうとして深い谷をなす」と書かれている。

上記「せたがやの歴史」 p.373抜粋

ここからも「深堀」のピークはこの区域だったと判断できる。

5 作図結果からみて「用賀の深堀」は、ほぼ現・桜新町の旧・玉川通り近くに達している

 「沿革史」口絵写真中

前記のとおり、当時の地図のみると、北見橋から桜新町までの用水路については、
両岸に道路のある区間は限られている。
推定の域を出ないが、この写真は、このあたりの橋上から南方向を撮ったのではなかろうか

との写真からみても、用水路は、旧・玉川通りこと旧・大山街道近くまで、そこそこの深さがあったようである(但し、正面奥に見えるのは少なくとも大山道の100メートルほど北の橋であろうが、橋は水面からかなりの高さにある)。


6 旧・大山街道の手前で水路は左折しているが、そこから東方向は低い谷地である

要するに、今の桜新町の旧・玉川通りは、おそらく呑川源流の自然河川が形成した谷地だったことが図から読み取れる*

 *桜新町=呑川源流ということに今回初めて気付いた。なお、この谷地から南側の地域は、水路跡の宝庫である 

横根からここまで用賀台地があるために、深堀を掘削する苦労はあっただろうが、その一方で、理想的な勾配で水位を維持しながら用水を流下させることができたとも言える。
ここから(船橋のそれほど高いものではないとはいえ)後述の「新町の築堤」を設けて蛇崩川右岸の台地上に水路を疎通させる必要が生じたこともわかる。

このあたりの、見立て(基本設計)は、かなり難易度が高いと思われる。

■桜丘中学校…

に関しては今回の作業中に思い出した「ザリガニ取り」の写真がある。

 確か、画家・歌人である原田京平の旧居探しのお手伝いをさせていただいた(品川用水路近く桜丘4丁目にあった)関係

世田谷文学館友の会会報 第56号 p.8 参照

で、世田谷文学館友の会の幾田充代氏から、品川用水関係の資料として頂戴したものと記憶しているが

「NPO世田谷桜丘まちづくり」発行の「桜丘まちづくりニュース NO12」H24/07・刊https://npo-skr.sakura.ne.jp/New_HP/data/profile_pdf/news_pdf/s-news12.pdf
のp.4
千歳通りにはかつて川(品川用水)が流れていました 品川用水の思い出

と題する、昭和10年生まれで桜丘中学校の第1回生の田中芳徳氏執筆の記事であるが、全文は上記リンク先でお読みいただくとして、旧水路のS20年代初期の状況について、ここに引用させていただくと…
…この川は水が流れていないのである。何と水溜りばかりである。池のように点々としているのだ。川の両岸は堤防のようになっており、川に入るためには、そこを上がって再び降り川底に至るのである。岸辺には所々に喬木が生い、堤防には笹が生い茂っていた。いや川底にも生い茂っていた。…川底には木の枝が折り重なっていた。灌漑用水とは到底言えぬ有様であった。

前段は「視察記」p.264あたりの

兩側の斜面には竹木繁茂し、堀には流れざる水が満々と湛えられてゐる。湧水の溜ったものか、過去の用水の殘留か、ともあれ全水路中、最もよく舊觀を存してゐるところである。
とあるのと、それから10年も経っていないので当然だが、同じような状況だったことがわかるし、さらに有難いのは、記事中に掲載されている、記事のために同氏が提供した写真である。

 原典が小サイズなので、ピントの面でやや不鮮明なのはやむを得ないとして、階調は十分に豊富で、冒頭の「沿革史」の口絵写真よりもはるかに、通水停止後の深堀の様子を知ることができるので、引用させていただくことにした。

「NPO世田谷桜丘まちづくり」発行「桜丘まちづくりニュース NO12」H24/07・刊 p.4
田中芳徳「千歳通りにはかつて川(品川用水)が流れていました 品川用水の思い出」挿絵写真より


 もっとも、本文の内容からみて、桜丘中学校からそう遠くには離れていない場所だろうが、画面中の中学生の身長から推して、掘の深さはせいぜい1丈(=10尺=3メートル)強程度なので、通常の白堀(開渠)から深堀に移行し始めたような場所なのだろう。

【追補】

■この「深堀」が…

もともと、どのような深さだったのかだったのか知りたくなったので、
東京都品川区「品川区史 続資料編(一)」同区/S51・刊
中に何か史料がないか探してみたところ

九三 寛文九年六月~宝永七年五月 品川用水諸書留
「品川用水仕様帳」〔pp.584~605〕

があって、その冒頭近くに掲載されている

元禄三庚午五月十四日付け
「品川領用水堀御普請仕様帳」〔p.587~590〕

に、元禄初期に、官費(御普請)で行われた、品川用水普請の仕様があった。

■もっとも…

その内容を読んでみると、どうもこれは、普請の作業量(人工〔にんく〕)などを幕府に報告する文書のように思われ、「幅を何尺広げ」「深さを何尺掘り込んだ」という記録が多くて、
「普請の結果、幅何間、深さ何間の水路ができた」
という最終形が分かりにくい。

ただ、幸いなことに、当の横根村の字「台」なる場所での、延長650間(≒1.2キロメートル)の区間の普請についての、以下のような記録があった〔p.588〕。

一 長六百五拾間 古深九尺
         広ケ六尺
         古敷六尺
         堀込八尺
         新敷四尺 横根村台之内両方広ケ堀可申候

此所御普請仕様掘込ならし八尺之内ならし六尺五寸埋り上之分壱尺五寸先年之堀敷方新規ニ掘込可申候、堀口之広ケ様深壱間ニ付三尺之積り広ケ堀底ゟ五尺上南方ニ横三尺ヘ犬走を付ケ堀端両方古揚土取除横九尺之道を付新揚土ヲ道之外ヘ揚可申候

ここに「ならし」というのは「平均して」という意味らしいことまではわかったものの、そのほかの注記をどう解釈するのか、結論は出せておらず、掘の深さについても

本来の用水路の深さ「古深9尺」から

・そこから、9尺の堀が6尺5寸埋まってしまった上端より「先年」1尺5寸掘削した状態から「八尺」「堀込」したとすると、水路の深さは、-9+6.5-1.5-8=-12尺≒3.6m

・本来の深さ9尺を基準に、そこから「八尺」「掘込」したとすれば、-9-8=-17尺≒5.1m

のどちらかということになる。

 作業量を示そうとしているとすると、前者の方が適正な解釈ということになるので、一応、そちらに従って作図してみると下図のようになった。



 こうやってみると、先の仕様からみて、
・もともと水路底の標高は前後の水路のそれに規定されるので、
・そこに4尺幅の水路底を設け、
・その両端からの傾斜角と犬走の高さと幅は仕様に従うことになるし、
・そこからの高さ(深さ)は地表面の標高に従うほかないので、
これが「ならし」つまり平均的な状態を示していることも併せ考えると、どちらの解釈でも、わずか5尺程度の差では「全く大勢に影響がない」ことがわかった。

■もっとも…

同じ仕様書の、世田ヶ谷「新町端ゟ上馬引沢村境迄」の320間の区間(p.389)では、やはり「ならし」で、古深4尺、堀込3尺に加え、(敷4尺)高2尺の土手を築いている*ため、土手上端から水路底までの深さは合計すると9尺。それと較べると、横根のは「深堀」の方で、そのために、川浚いや閉塞物の除去などの水路の管理の便宜のために、他の場所には見当たらない「犬走」が必要になったのではなかろうか。

* ここは、上述の「新町の築堤」であり、別ブログの
 に、写真・地図付きで解説を載せておいた。

 
【追記】普段は、ほぼ書くことのない「単なる感想文」だが、全く期待もしていなかった結果が、
    あまりにあっさりとでてしまったことに「びっくりした」ので、ご参考まで

今回、まったく不慣れなカシミールだったが、試行錯誤しながらの1時間ほどで、それまで、全く想定も期待もしていなかった事柄まで目の当たりにすることができた。

もっとも、1時間で目の当たりといっても「自分の脳内でわかるレベル」までの話で、それを、上の平面図のように「他人様にもわかってもらえるだろうというレベル」にまで、このソフトだけで仕上げようとすれば、どれだけ時間がかかるか見当も付かなかったし、できなかったかもしれない。

それがともかくも可能となったのは、カシミールからは「脳内ではOK」という段階の画像を取り出しておいて、使い慣れた、Photoshop Element と Power Point で加工したからである。

カシミールは、これだけをフルに使いこなすのは難しいだろうが、上のような手順を併用することで、今後とも極めて有用なツールになってくれそうである。 

もう一つ、つくづく感じるのが「史料が勝因」ということである。

今重宝しているのは品川区史資料編と続資料編(一)~(三)。

もともとは三田用水関係の史料のつもりで、古書店だと結構な値段が付いているが、ネットオークションにリーズナブルな価格で出ていたのを入手したもので、今では、品川用水関係の記述にポストイットを貼りまくりの「オイラン状態」になっている。

 

1 件のコメント:

  1. 幾田よりコメント再入力(0321):三田用水のご研究に今では品川用水関係の資料も貴重となっておられる由、益々ご研究の内容が増幅され、深淵の境地に進みつつあるように思われ、敬服しております。引き続き興味深い情報の発信を楽しみにしております。

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