公式の三田用水史といってよい
三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊
によれば、三田用水路の
笹塚〔正確には「世田谷町大字下北沢字堀向」〕から大日本麦酒工場までの、同社施工区間
末流である大日本麦酒工場から下流の、三田用水普通水利組合施工区間の暗渠化が行われ「全体の工事が完了したのは、昭和十四年~十五年であった」(pp.236・237)としているのだが、小田急線との交差部の工事完了が昭和16年中と考えられること
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/03/blog-post.html
からみて、この記述は必ずしも正確とはいえないことがわかった。
■そこで…
念のため、比較的時期が特定しやすいポイントと考えられた、そのやや下流にあたる、現・東大駒場キャンパスの資料を探してみた。
駒場公園内「旧前田邸和館」掲出の昭和初期の空中写真の一部に補入 |
ここは、駒場農学校時代から「…一覧」という構内図付き案内書が発行されていて、ここの大半が、第一高等学校や前田侯爵邸になった後も、旧来の敷地西端で、現在は東京大学先端/生産技術研究所となっている東京帝国大学航空研究所(以下「航研」)については、同様の構内図があるのではないか、と考えられたからである。
農商務省農務局「駒場農学校一覧」同/M17・刊(NDLID:812768)掲載(下方が北) |
■その予測通り…
国会図書館のデータベースを検索してみると、明治期に始まり昭和16年度までの多年度にわたる「東京帝国大学一覧」があるので、該当時期とみられる昭和12年度あたりから15年度の航研の構内図を順次調べてみた。
■その結果…
航研前〔北〕の三田用水路が暗渠化されたのは、以下のとおり、ほぼ昭和14年で、ここに関しては「江戸の上水と三田用水」の記述と整合することがわかった。
すなわち、
・昭和15年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466162>掲載の「昭和15年3月31日調査」の「建物配置図」
では、その右端〔北〕の道路との間に「三田用水路暗渠」との記載がある。
国会図書館のデータベースを検索してみると、明治期に始まり昭和16年度までの多年度にわたる「東京帝国大学一覧」があるので、該当時期とみられる昭和12年度あたりから15年度の航研の構内図を順次調べてみた。
■その結果…
航研前〔北〕の三田用水路が暗渠化されたのは、以下のとおり、ほぼ昭和14年で、ここに関しては「江戸の上水と三田用水」の記述と整合することがわかった。
すなわち、
・昭和15年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466162>掲載の「昭和15年3月31日調査」の「建物配置図」
では、その右端〔北〕の道路との間に「三田用水路暗渠」との記載がある。
【資料映像】
先端研/生産研前の橋の欄干の遺構 |
それに対し、その前年の、
・昭和14年度の「…一覧」<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1466223>末尾近くの「昭和14年3月31日調査」の「建物配置図」
上端〔北〕には、そのような記載がなく、単に濃いグレーの開渠と見られる水路が描かれているだけだからである。
※配置図にある、水路に架設されている橋については、Web
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/Mita04.htm
を参照されたい。
【追記】
やや本題から離れるが、上記の昭和15年の配置図を見ると
・図の右上に、「三角橋」の位置・形状が、これまで見たどの地図類よりも詳細に描かれている
北が上方になるように転回 |
・図の上方のは「都市計画道路線」とあるが、これは、都市計画道路20号(現・26号)路線で、
ここの航研の施設との関係で、当初計画を修正した経緯(この図は、その変更後)については、別ブログ
http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2016/09/26-02d7.html
を参照されたい。
今から50年ほど前、当地に越してきた当時は、夏など窓を開けていると、時折、航研の風洞の音が聞こえてきた。
当時から、その風洞がどこにあるのか興味はあったのだが、今回、初めて、その位置がわかった。
そのころは、周囲に家が建て込む前で、北側中央にある本館の時計塔(今でもある)が、我が家の2階から直接見えていたのだから、風洞の音が聞こえても、当然だろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿