2017年6月25日日曜日

上大崎村の溜井(池)新田

北沢川文化遺産保存の会…
<http://blog.livedoor.jp/rail777/>恒例のツアー「都市物語を旅する会」の一環、
2017年6月24日の「第2期第4区 大日本麦酒工場跡~五反田駅」
のご案内をさせていただいた。

そのツアーの終盤の…
目玉と考えていた場所に、日本鉄道品川線(現・JR山手線)開通時に目黒駅のあった、三田用水の烏久保分水末流に近い場所(下図赤丸)がある。

迅速測図〔M13〕抜粋に
三田用水路=紫線、烏久保分水路=青線、水車場=空色星印を各補入

初代目黒駅のことは…
今回措くとして、この地域に興味を持った理由は

高島緑雄「関東中世水田の研究」日本経済評論社/1997・刊*

のpp.65・66に

…そこはJR山手線五反田駅の西北方約五〇〇メートルの地点で、白金台地を刻んできた目黒川左岸低地に開口する「西」・「中」・「東」の三本の狭短な谷が合わさった出口である。ちなみに一九〇九年地形図によると、JR山手線が五反田駅と目黒駅間を登り下りする線路は、「西」側の谷の傾斜を利用して敷設されている。また地形図が目黒駅南の切り通しになった谷頭付近に付した地名は、「西ノ谷」である*…。
 このような溜池の立地は、この溜池の機能が、明らかに二本の谷水を谷口で貯留し、目黒川左岸低地所在の水田を灌漑するものであったことを明らかにする。寛文四年(一六六四)に下北沢村で玉川上水を分水し、芝白金御殿に通水した上水で、享保八年(一七一三)に用水に転用された三田用水が、「中」の谷を経由して目黒川左岸低地の水田に注がれると、同池はその役割を終えて溜井新田に変化するのである。

とあったからである。

* なお、高島教授の原論文は

 高島緑雄「荏原郡の水利と摘田(一)-谷田地帯における中世水田へのアプローチ-」駿台史學Vol.55,pp.87-
 https://meiji.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4093&file_id=17&file_no=1&nc_session=t6kr2rkloenoofcruv8k6rfb51

 

** 加えて「『中』の谷」の地名は、上流部は分水名の起源と思われる「烏久保」だが、下流部の溜井新田のあたりは「池ノ谷」という、いわば「そのまんま」の名前である。
 (国会図書館・蔵「土地概評価. 荏原郡大崎町 大正9年8月調」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/6
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/921562/7
 参照)

つまり…

高島教授の考えでは、
  • 後に三田用水烏久保分水となった谷を中心にその東西2つの谷からの合流点に、(おそらく中世期にこの地に水田が拓かれたときに)溜井(池)が設けられ、その水が、そこから、南の目黒川に至る地域の水田の灌漑に使われていた*
  • その後、中央の谷が三田用水の烏久保分水となって、上流から恒常的に水が供給可能となったため、溜井(池)が不要となったので、干拓するなどして水田に転用された
ということになるし、現に同書p.66に引用されている弘化2(1845)年の宿村絵図によると、同地が「(上大崎村)溜井新田」、つまり、「元は溜井だった場所に新たに開かれた田**」を意味する地名で呼ばれていたことがわかる。

* 「言われてみれば当り前」のことながら、中世期、水田とこれに灌漑する溜井の水を一定のルールに従って使う権利とは、いわば1セットで売買などの取引の対象となっていた。
 宝月圭吾「中世売券よりみた池灌漑について」(「風俗」第17巻2・3号 日本風俗史学会/S54/04・刊)pp.1-12


**「新田」といっても必ずしも「水田」を指すわけではない(畑であることも多い)。
    ただ、この地の場合は、地形的にも水利の面でも水田と考えてよいだろう。


なお…

この地については、幕府普請方制作の「御府内場末往還其外沿革圖書」中の広域図である
「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」国会図書館・蔵
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9370094/2>
にも「溜池新田」と表示されていて、この地名がかなり「固定」されていたことがわかる。



 (なお、「弘化三午年九月調 麻布…碑文谷村一圓之繪圖 三枚之内中」国会図書館・蔵〔pid=2587256〕も同じ)

こうなると…
高島教授のいう溜池の新田への転換と、当方のメインテーマである三田(上)用水との関連について、さらに詳しく情報の分析をしてみたいところなので、まずは、新編武蔵風土記稿で、烏久保分水の水の引取先とされている*上大崎村と谷山〔ややま〕村の件を見てみると

*品川町役場・編「品川町史 中巻」同町役場/S07 /06/10・刊 p.487
 <https://books.google.co.jp/books?id=y8zEhyFuhsQC&pg=PT515&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwibhd2prdjUAhUEEbwKHUVsDJIQ6AEILjAD#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false>

●上大崎村

 …撿地ハ元禄八年織田越前守改メシ後享保十七年筧播磨守新田を撿ス… 

●谷山村

 …享保五年筧播磨守撿地セリト云コレハコノ頃新墾ノ田アリシ故ナルヘシ

とあって、上大崎村については三田用水の開鑿と時期的に整合することがわかった。

*享保11年8月に幕府から「新田検地条目」が発布されている。
 新田については、開発後、通常2~3年、条件によっては5~7年、鍬下年季と呼ばれる年貢の免除期間があったので、三田用水の開鑿後ほどなく溜池が新田化され、その年季明けに検地が行われたとすると、時期的に整合する。【末尾「追記170902」参照】
 
ところで…
この溜井(池)新田のことを知った4年ほど前から、まだ溜井(池)のあった時代の地図を探していたのであるが、実は「探す」までもなく、すでに6年以上前からPCの中に眠っていたことが、今朝になって、わかってしまった。
 
それが
「江戸方角安見図」
という、幕末にいわば大流行した切絵図の原型3系統のうちの1系統とされる*、延宝8(1681)年**刊行の地図(帳)である。
 
*朝倉治彦・編「江戸方角安見図」東京堂出版/S50/12/25・刊p.4

**三田「上」水の開鑿(寛文4〔1664〕年)から17年後
  三田「用」水の開鑿(享保9〔1724〕年)に43年先立つ

 
国会図書館・蔵〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575024/28
の図を抜粋+反時計回りに90度転回+画像調整
図の右下の青塗り部分が溜井
 
この図を最初に早稲田大学のライブラリ(こちらにもある)の方からダウンロードして観察したときは(三田用水の経路が含まれているので、チェックの対象だった)いわゆる「事実の理論負荷性」というやつで、この青塗り部分が溜池とは全く思いも及ばず、南方にあるので目黒川を簡略化して表現したものか、などと漠然と考えていた。
 
しかし、今あらためて見てみると、青塗の左下に「トクセウシ」つまり、今の山手線の南側線路際にあって目黒川からはそこそこ北に離れている徳蔵寺(念の為濁点をふると「トクゼウジ」)


2017/06/08撮影
〔Sonyα7R+Elmarit28(4th.)〕

が表示されているので(前掲「弘化三午年九月調 芝…桐ケ谷村一圓之繪圖 三枚之内下」左下付近の赤塗部参照、青塗部が目黒川であるわけがなく、高島教授の指摘する溜井を表現していることに疑いはない。

【追加調査】

■ここまでわかったので…

はたして、この池がいつごろまであったのかを調べてみたくなった。

 かつては、探すのに苦労したのだが、最近は、幸い国会図書館のデジタルライブラリで、膨大な「江戸大絵圖」の精彩なデータを見ることができるようになり、むしろ、選択に迷うほどとなっている。

■まずは…

三田「上」水時代の、ほぼ最後(享保7〔1722〕年)の状態といえる

●享保2 〔1717〕年の「分間江戸大絵図」

 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542439/3
 を見ると、同所(以下、いずれも左上隅付近)には「池」が表示されている。

以後、三田用水開鑿(享保9〔1724〕年)以降も

●享保14〔1729〕年の「分間江戸大絵圖」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542498/3

をはじめ、「池」が描かれた状態が続くが、変化が現れるのは

●延享5〔1748〕年「分間延享江戸大絵図」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542456/3


あたりからで、同図では、墨刷りの版では「池」が表示されているものの、たとえば、東の雉子神社の往還を隔てた向かいにある池については、青色の版で彩色されているのに対し、この上大崎の池には彩色がない。

そして、その後約半世紀を隔てた

●享和3〔1803〕年「分間江戸大絵図 完」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286186
 に至って「池」が消滅している。
 
■もう少し…
 
細かく時系列が追えればよいのだが、それでも
  • いわゆる「御府内」ならともかく、郷村に属するこの地域について、地図の制作・改訂にあたって、どこまで本格的に踏査したかについて疑いが残る
  • 水を張ってまだ田植えする前の水田と溜井とでは、遠目では見境いを付けにくい
  • 制作・改訂のための調査の時期と地図の刊行との間には、現代でも一定のタイムラグがあるのだから、往時ではなおさらである

こともあって、これ以上の解明はなかなか難しそうである。

【追記170902】

ふと思いついたので「沿革図書」(国会図書館)をトレースしてみた。

ここは「御府内場末往還其外沿革圖書. [5]拾六下」
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236
の領域で、

まず、「享保十四酉年之形」〔1729年〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236/93


次いで、「寛延元辰年之形」〔1748年〕
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2587236/94






というわけで、一目瞭然だった。

〔参照〕
https://drive.google.com/open?id=1IgnBuX_r2CeAxAiTmaNPx-LmJ18&usp=sharing


【追記】20230704

後記コメント欄に「なかの様」から貴重なご指摘を頂いた。

●要は、
 従前から「鳥〔トリ〕久保分水」と呼ばれていた分水口や分水名は、彼の地では旧来から呼ばれていた「「烏〔カラス〕久保」であろうというもの。

●このページだけでなく、三田用水の分水名については
 三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59 p.51
 に依拠して、あらかたのネットに書かれているのだが、さらに、同書の記載は
 品川町史・中巻 pp.487,491
 に依拠していることが、とくに分水名の表示順からもわかる。

●しかし、「…三田用水」ひいては「町史・中巻」が、参照した古文書からの近現代文字への翻訳(「翻字」と呼ばれる)に問題があることは、これまでもいくつかの事例で明らかになっていた。

●実際

すでに、当ブログで報告済の

「溝が谷分水」の「澁が谷分水」
「実相寺山分水」の「定相寺山分水」
の誤翻字はほぼ疑う余地がない。

●今回のご指摘も「鳥」〔トリ〕と「烏」〔カラス〕との「1角違い」なので、誤翻字の可能性は限りなく高いので、お説の「※久保」について調べてみたら

地元の文献ということで
東京府荏原郡大崎町・編「大崎町誌 : 市郡合併記念」同町/S07・刊
p.101
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1879929/1/78
を見ると、確かに「烏久保」である。

但し、
中所眞「土地概評価 荏原郡大崎町 大正9年8月調」東京興信所/T11・刊
p.6
では「鳥久保」
とされているが、
・後者は民間企業発行物
というだけでなく、
・前者の大崎町は、町民の戸籍管理上地名については相応の精度が要求されていたので
その信ぴょう性には圧倒な差があるので、こちらに依拠するほかないし、そのうえ明らかな不合理もないので、
ここは
烏久保〔カラスクボ〕口、烏久保分水
と呼ぶのが正しいと判断すべきことがわかった。

 そのため、今後、当ブログ内の「鳥久保」については、見つかり次第「烏久保」と校正することにする。

2017年6月13日火曜日

2016年9月21日 代官山での講演記録

■昨2016年9月21日に…

代官山ステキサロンで「三田用水略史」と題してお話させていただいた記録が
 
リ・ニューアル中の「代官山ホームページ」
http://www.daikanyama.ne.jp/

に掲載されました。
http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file04.pdf

■ちょうど…

当ブログの

【余録】「旧山手通り」は、なぜ「『旧』山手通り」なのか?
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/03/blog-post_18.html
の序論にあたる内容です。

併せてお読みいただければ幸いです。


PS:元倉真琴先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
  享年71歳とのこと。早すぎる、というのもありますが、当方の
  「オジ」世代と思っていたのと、キャリアからも少々「畏れ多い」
  先生と思っていたのですが、今回わかってみると「アニキ」世
  代。もっと、いろいろお話をうかがう機会を作ればよかった、と
  「後悔先に立たず」ですね。




2017年6月6日火曜日

【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合

■小坂克信先生から…
羽村市郷土博物館・編「羽村市郷土博物館紀要 第三十一号」同市教育委員会/平成30年3月30日・刊
をお送りいただいた。

■左から開く…
縦組みのページの中の
出版社であるクオリの代表者である
http://bigai.world.coocan.jp/msand/miwa/kuori.html

比留間 博「玉川上水十三里小考」〔同紀要pp.24-30〕
は、大変興味深いものの、その内容の検証には、この先、かなり時間がかかりそうなので、「後回し」というか今後の課題にしておくことにする。

■と、いうわけで…
同紀要中の
 小坂克信「武蔵野台地における玉川上水の水利用」〔同紀要pp.31-53〕
の方をじっくりと読ませていただいた。
 内容的には、小坂先生の、これまでの研究成果の、いわば集大成の要約。
 とくに、近世の享保あたりから昭和の時代に至るまでの、当方のメインテーマである三田用水史を含めて、時系列的にコンパクトにまとめられているので有難く読んでいたところ

■その…
46ページの「表6 昭和6年6月 玉川上水の分水 (東京市第二水道計画参考書)」なる表〔以下「分水表」という〕を見て「ビックリ」。
 かねてから、欲しかったデータの一つだったのである。

■と、いうのも…
この昭和6年当時のデータによれば、三田用水普通水利組合〔以下「組合」〕による三田用水の給水先は
飲料水に使用している者(推定)    0人
雑用水に使用している者(推定)    0人
田反別(=田用水に使用している面積)  0反*
水車数(精穀・工業)          0基
工場                 3か所
庭園                 14か所
となっている。

*三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S59・刊 pp.280-281の、昭和9年5月19日の組合から東京府知事宛て「震災応急施設費借入金免除方陳情」中に
「反別割ハ区域内市街化セル現在二於テハ之ヲ賦課徴収スルコトハ到底世論ノ許ササルトコロト相成候故本年度ヨリ之レヲ廃止」
とある。

■つまりは…
この昭和6(1931)年の時点では、もともとは農業用水だったはずの三田用水の水で灌漑する田圃はゼロで、結局は

3か所の工場と
14か所の庭園(つまり、池の水)

に給水するため「だけ」に組合が存続していたことになる。

■これらの「水の使用者」のうち…
「池の水」については、もう少し調べなければわからないのだが、
「工場」については、この論文の46ページによると
・海軍技術研究所
・ヱビスビール
・電信協会
の3か所の由。

 このうち
・海軍技術研究所 は、現・防衛省技術研究所
・ヱビスビール  は、現・エビスガーデンプレイス
の場所にあるのは自明、加えて
・電信協会    は、防衛省技術研究所の北隣りの別所坂上
にあったことがわかっている*

*ただし、 東京電話番号簿. 昭和2年10月1日現在 によれば、同年の電信協会の主要な事業所は「下目黒5番地」の由。
 また、一次資料が不明のため詳細は略すが、ある文献には、昭和27年当時の用水利用者として

・大日本麦酒(ヱビスビール)
のほか

・目黒雅叙園  <http://mitaditch.blogspot.jp/2017/07/1.html>で詳述
・東光園      (鑓が崎交差点付近)<http://npodsi.sakura.ne.jp/dhp2017/mitayosui/file04.pdf>のp.18参照
・日本交通公社 全く不明
が挙がっている。
そのほか、恵比寿の日の丸自動車教習所南の伊藤ハム(目黒区三田1-6-21。ただし、昭和33年当地に進出)を挙げる資料もあるが、これも出典不明。


■ここまでわかってくると…
これまで、ある程度まで想像はできてはいたものの、いわば「最後のウラが取れなかった」3つほどの問題について、はっきり、解明が可能になってきた。

■その懸案というのは…
3つあったのだが、そのうち2つは「ほぼ見当はついていたものの、最後のウラが取れなかった」という類の話なので、まずは残りの1つから。

■数少ない…
今も残る三田用水の遺構

①~④の遺構は、今後の,、図中にある環状4号線の工事で消滅することになる。
なお、⑥は、猿町橋跡にあたる
この街中に、こういった遺構が残っていたのには、それなりの「訳」があったのである。

の一つに、白金台の「石積の築堤」がある。


 ここは、いかにも存在感のある用水路の石積の築堤の西端が残されている場所ではあるのだが

渡部一二〔わたべ かつじ〕著「玉川上水系に関わる用水路網の環境調査」とうきゅう環境浄化財団/1980・刊
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E7%B3%BB%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8B%E7%94%A8%E6%B0%B4%E8%B7%AF%E7%B6%B2%E3%81%AE%E7%92%B0%E5%A2%83%E8%AA%BF%E6%9F%BB

のpp.355・356によると、現存している遺構から、上の写真の手前(東)方向の40~50メートルの部分が、渡部教授の調査時点である昭和54(1979)年3月3日当時〔p.358〕崩壊していた

渡部論文p.335より引用
という。

渡部前掲p.136 写真49


■かつてWeb上で…
情報を探すと、どうやら、1934(昭和9)年9月の室戸台風で決壊「(今里101 番地)旧町野武馬邸*表庭に放水滝に上大崎へ流水。」**となったまま、放置されていたらしいことがわかってはいた***
https://www.city.minato.tokyo.jp/takanawachikusei/takanawa/koho/documents/takanawab2.pdf

*町野武馬
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BA%E9%87%8E%E6%AD%A6%E9%A6%AC 交詢社・刊「日本紳士録 昭和9年版」
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2127091/440
 によれば、当時の住所は
 芝区白金今里102
**なお、https://ameblo.jp/henry7/entry-10368695526.html も参照

***
【資料映像】

2009/02/14の、三田用水ツアー第1期第2回の、恵比寿ガーデン~高輪猿町間のルートの終端近くにあったグリル久住のご主人から「三田用水の水は雉神社の方に流れていた」とのお話をうかがった。


当時は、よくわからなかった、その意味が、築堤の崩壊の経緯が判明したことによって、氷解した。
 
【追記】

この「滝」については


出演の金子芳夫氏が10分18秒以降で、幼少期の記憶を語っている。


■問題は…
 
なぜ、決壊したまま放置されていたのか、にある。
 と、いうのも、この場所は、江戸時代から築堤(築立場)を作って用水を通していた場所らしいのだが、


国会図書館・藏「御府内場末往還其外沿革図」より


大正12年の関東地震でそれが崩壊し、おそらく昭和2年まで時間と3500円という大金をかけて、石積みの築堤を再構築した*はずの場所だからである。

*三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同/S59/09/30・刊 p.277

■しかし…
先にみたように、この昭和9年当時、すでに
  • 流域に全く水田はないのだから、かりに三田用水全体の通水が止まっても、そのために困る農家は存在せず、その点では水車用水についても同様だし
  • 工業用水についても、需要者中の最下流にあるヱビスビール(当時は大日本麦酒)への分水口である、今の日の丸自動車のあたりにあった銭瓶窪口まで通水できれば足りていたのである。



■従って…
残るのは、庭園用水しかなく、現に問題の崩落場所のすぐ上流には、藤原銀次郎という三井出身の財界人の茶室*があって、

*いわゆる「三田用水事件」の第1審判決である、東京地方裁判所昭和 昭和36年10月24日付け判決別紙の「第三 目録」「二、水路施設 総延長 四、六七五間」「(2)、開渠のコンクリート造水路 一四七・九七間」中に
(ホ)、港区芝白金今里町九〇番地から一一七番地先藤原銀次郎邸茶室脇から南里橋)まで。一一五・五間」
とある。
 

藤原銀次郎茶庭
同「私のお茶」講談社/S33・刊

残念ながら暁雲庵の庭ではないようである。


推定〕旧・藤原銀次郎邸庭水排水口跡
現存せず、現在はロイヤルシーズン白金台という集合住宅の半地下駐車場入り口



なぜか旧藤原邸跡地にあった茶室風建物
2009/02/11撮影:現在は、2棟の戸建て住宅が建っている

【追記】
 
この茶室、2009年当時、建築後それほどの期間が経過しているように見えなかったのですが、すでに現存しておらず、あるいは、何かの由緒のあったものかもしれませんので、念のため、今回「発掘」した、この時撮影した写真を、ここに置いておくことにします。


築堤跡遺構脇から金網越しに撮影


 
築堤跡遺構下から撮影
【追記終り】
 
 
そこの池に水を供給していたのだが、それより下流に庭園水の需要者がいたのかどうかも不明なのであるし、いずれにせよ

  • 人の生命や企業の存亡にかかわる水ではなく
  • すでに近代水道(日本水道)が引かれていた地域でもあるし
  • なにより、年間の引水料が1軒につき17円程度*だったので、多額の費用をかけて築堤を再築しても採算が合わない可能性が高かった
ためと考えて大きな間違いはなさそうである。

*前掲「江戸の上水と三田用水」p.168の昭和7年度の「歳入歳出予算表」に「西郷従徳外三名」分の「用水使用料」として、前年度と同額の68円が計上されている。

【余談】

「藤原銀次郎の茶室」なるものを調べていると…

齊藤康彦「根津嘉一郎の茶会ネットワーク」
山梨大学教育人間科学部紀要  第 十三 巻 二〇一一年度
http://opac.lib.yamanashi.ac.jp/opac/repository/1/29184/13_XXXI-XLIII.pdf
p.32(pdfのp.2)によれば、この白金今里の藤原邸の茶室は、「暁雲庵」と名付けられていたことがわかった。

藤原銀次郎は、明治2(1869)年生まれ昭和35(1960)年死亡、昭和9(1934)年ころは65歳で当時としては驚異的ともいえる資本金額1億5000万円の王子製紙社長の時代であり、この時期、すでに当地に茶室を設けていたと考えてよい。
また、三田用水事件の第一審(東京地裁)判決(昭和36(1941)年)の「第三目録」の「二(2)(ホ)」に、三田用水の流路を特定する記載として「港区芝白金今里町九〇番地から一一七番地先(藤原銀次郎邸茶室脇から南里橋)まで。一一五・五間」とあるので、少なくともこの裁判が提起された昭和27年当時、この茶室は現存していたと考えられる。

 で、この「暁雲庵」、細かい経緯は不明ながら、なんと我が家の菩提寺である、杉並・梅里の三井寺〔「みいでら」ではなく「みついでら」〕こと真盛寺



に移されていたことがわかった。
http://goddoor70.exblog.jp/5993589/

 これまで、墓参の折などに写真は撮っていたのだが(なお、檀家・墓参者以外入山禁止)、最近はあらかた、境内にいる「地域猫」の写真



ばっかり。

 次回には、この、「暁雲庵」の写真を撮りたいところだが、同寺には、山門を入ってすぐ右の1棟


のほか、境内奥、本堂西に多分2棟の茶室があって、どれが「暁雲庵」なのやら…。

【余談追記】2017/08/13

従前眞盛寺からいただいた年表を確認したところ…

本堂西の奥庭にある茶室は、平成18年移築修理された武者小路千家由来の「一方庵」に加え、「泥子閑」*「寂庵」とのこと。

「暁雲庵」については、平成15(2008)年の条に「東海大学稲葉和也教授の縁にて三井不動産より世田谷区玉川、幽篁堂庭園より茶室暁雲庵・腰掛待合・江戸時代初期の四脚門、十三重石塔・石造諸塔・赤松等を譲り受け、表境内、及び奥殿の庭園を造園す。」とあり、上の写真が暁雲庵と考えて間違いないようである(今後、墓参や施餓鬼会の折にでも確認してみたい**)。

*別の資料中に「坭子関」、「泥子関」との標記もある。

** 平成30年1月7日の墓参の折、拝観してきた。
  「【余録】藤原銀次郎の茶室『暁雲庵』」