2019年6月17日月曜日

三田用水の通水期間(その1:近代)

■定義の上では…

「上水」は飲料用水の水路を指し、「用水」は農業用水、とくに「米本位社会」といってもよい江戸時代においては水稲を育て収穫する水田用水といってよい。
 現代でも「○○用水」と銘打たれている水路は、年間を通じて通水されているわけではなく、初春に試験通水が行われた後、春先の苗床を育てる時期から初秋の水田から水を落とす時期に限って通水されてる例もある(と、いうより結構多い)ようである。*1

*1 平成31年度の見沼代用水の通水告知
 http://www.minuma-daiyosui-lid.or.jp/H31%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%8C%E3%81%84%E7%94%A8%E6%B0%B4%E3%81%AE%E9%80%9A%E6%B0%B4%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.pdf

 この用水は、現地を見に行ったことがあるが、徳川幕府による「利水」系の「大プロジェクト」の一つと言ってよい。
 いわゆる「利根川東遷」の関係で調べたことはあるが、このアーティクルの脇道に逸れるので後日…


■一方…

たとえば、玉川上水は、「上水」と銘打たれ、もともと江戸城(の特に「将軍様」)や江戸市街の呑水を供給するための水路なのだから、年間を通じて通水されているのが原則であることはいうまでもない。
 ただ、同上水には、数多くの分水があって、その中には
・野火止用水など、ほぼ当初から「用水」だった分水もあるし(ただし、取水口に堰が無いので通年通水*2
・卑近な例を挙げれば(上)北沢用水のように、当初は呑水用つまり「上水」として開鑿されながら後に「用水」として再整備された分水もあるうえ、*3
・結局最後まで、武蔵野台地には水田に適する土地が少ないために、呑水用の「上水」に留まった分水もまた多かった*4
ようなのである。

*2 小坂克信「玉川上水の分水の沿革と概要」<http://www.tokyuenv.or.jp/wp/wp-content/uploads/2014/10/G210.pdf>p.30
*3 東京都世田谷区教育委員会「世田谷の河川と用水」同委員会/S52・刊 pp.79-81
*4 小坂・前掲論文全般

■さらに…

千川上水のように、上水と銘打たれても、当初から「用水」としての利用が許されていたと思われる例もあるので、「上水」か「用水」かといった文字に拘泥すると判断を誤る危険がある。

■ここで、問題になるのは…

三田「用水」の性格である。

 と、いうのは、今の渋谷区代官山のヒルサイドテラス北のデンマーク大使館の場所にあったと考えられる朝倉水車は、明治7年に、三田用水の本水路に設置されているのであるが、水車を設ける以上、この三田用水の本水路にほぼ一年を通じて水が流れていたことを示唆するからである。

 つまり、朝倉金蔵の明治6年12月1日付け「差入申添書之事」と題する書面の末尾に

東京都公文書館・蔵
ただし、明治6年に書かれた原本は東京府に提出されているはずなので
これは、その控の写ということになる



尤田場養水入用の時節ニは水上は勿論水下中下目黒村地内迄で日々見廻り、水相堪様塵芥等入念相除可申候。*5

とあり、この記述には「田場養水入用の時節」でなくても、三田用水に通水されていることが示唆されている。

*5 松本芳行「近代東京の水車 -明治・大正期の多摩川流域尾の水車分布-」1992
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4
〔以下「水車台帳」〕#21

【追記】

不可解なのは、上記12月1日に先立つ、同年11月組合村の、以下の議定との整合性である。

第七大区壱・弐・五・六小区へ白金・北品川・目黒・大崎・上下北沢等)、第八大区壱小区(千駄谷、その他)拾参ケ村組合字三田用水路の儀は、往古より田場養水ニ被二下置一、是迄無難ニ永続罷在候得共、一体当用水路の儀は高台にて築土手多、其上地理元樋より流未迄低ク無レ之哉水相淀、渇水の砌は田場養水ニ差支極難の村々、然ル処方今分水口所々エ水車等追々取建ニ相成、夫々議定規則書等は有レ之候得共、素より万民為二撫育之一被二下置一候用水之、自己の弁利ヲ以水車等取建侯ては不二相済一儀、且は終ニは規則ヲも相破候儀ニ成行、甚不体裁之儀ニ付、自今以後分水口々工決テ新規水車為二取建一申間敷候。仍レ之組合一同連印議定致置候処、仍て如レ件
  明治六年十一月
      下渋谷副戸長
      外十ニケ村長

たしかに、朝倉水車は、「分水口々」ではなく、本水路に設ける水車ではあるが、この議定書で問題にしている弊害に差異はなさそう(実際には、本水路には本水路固有のリスクがある)なのであり、なぜその設置が承認されたのであろうか。

■調べてみると…

この明治6年当時、「時節」に無関係な通水が全くなかったわけではないことが解った。

 すなわち、「江戸の上水と三田用水」*6に引用されている、「三田用水取調表」に以下の記述があるとのことである
*6 三田用水普通水利組合「江戸の上と三田用水」同組合/昭和59年9月30日・刊(以下〔江戸三田〕)p.50

明治四年中高輪南町肥後七左衛門ヨリ、呑水ノ為メ用水引用スルコトヲ願出タリ。因テ水積九坪ヲ被下置是ヲ三田用水江合流ス。*7

*7 この、飲料水用の分水らしきものは、東京国立博物館・藏
「玉川上水線路図」https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0023342
に描かれている。https://image.tnm.jp/image/1024/E0023346.jpg
右端近くの「三田用水呑水」
同図を抜粋して画像レベルを補正
画面左端の往還が水路を渡る場所が代田橋





















 つまり、この明治4年以降は、少なくとも、水積9坪の水が三田用水路の笹塚の取水圦から高輪まで、ということは白金猿町の末流部までの全区間を流下していたことになる。
 しかも、水積9坪というのは、決して少量ではなく、現在の西郷橋のところの分水口から渋谷川の氷川橋のところまで流れていた鉢山分水や、現在の防衛装備庁の研究所から恵比寿市街に流下していた道城池分水のそれ(各9坪2合3勺4/9坪3合2勺5)*8にほぼ匹敵する水量なので、この水だけでも、途中の分水口が閉まっていさえすれば、本水路(「大堀」「外堀」ともいう)に設置された朝倉水車*9を回すことはできたと考えられる。
*8 前掲「江戸三田]p.52
*9 朝倉水車の、明治21年の継年期申請書の添付図面によれば、同水車が三田用水の本水路に設置されていることがわかる


東京都公文書館・蔵
地目の記載されていrる土地が、この当時の朝倉徳次郎の所有地だったのだろう。
この図にある、地目が「畑」の土地の一部が、後に、朝倉徳次郎の次世代の虎治郎から
渋谷町に道路用地して寄附されている。





■しかし…

朝倉水車はさておいても、どうやら、明治4年以前の時点でも、水車を回すに足りる水が通水されていた可能性があることがわかってきた。

 なぜなら、先の「差入申添書之事」によると、

三田用水路之内上大崎村字永峯町地續江 去ル天保十五辰年中同村雄吉〔→と?〕申者新規水車相目論見 其砌は拾四ヶ村組合貮拾四分村々御役人中御会議之上 用水路之差障候モ不相成 依之議定書等御被為換ニ相成 木材等引入候処 同人義如何之義ニ候哉 其儘空敷捨置打過有之」(適宜、” ”〔スペース〕補入)

とされていて、朝倉水車の部材は、天保15〔1844〕年に、「永峯町地続」つまり現在の目黒駅東方あたりの上大崎村内*10に存在する水路に設置することが予定されていた水車のために準備されたものを、上大崎村の雄吉なる人物から(いわゆる「キット・フォーム」で)引き取って転用したものとされていて、このことから、すでに1844年の時点で、三田用水路に水車用水として利用できる通水が行われている、あるいは行われようとしていた可能性が期待できたらしいといえるからである。

*10 T01地籍図から永峯通周辺を合成
左下部分が「永峯通」
国会図書館・蔵〔http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966080/331〕の各図を合成

■たしかに、その天保期にも…

水量はともかく、ある程度の水は通年流れていたのではないか、と思わせる史料が、いくつかはみつかりつつある*11

*11 天保期からやや後れるが、安政4(1857)年から文久3(1863)年9月までは、現在の目黒艦艇装備研究所のあたりに、幕府の合薬(火薬)製造所が稼働し、水車が使用されていた(「江戸三田」pp.216‐217。なお、その詳細は
小坂克信「日本の近代化を支えた多摩川の水」<http://www.tokyuenv.or.jp/archives/g_research/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%9F%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%B0%B4>
pp.83-84,86〔pdf pp.88-89,91〕)、
少なくともこの間、笹塚の取水口からここまでの水路については、一定量の水が通年流れていたと考えられる。

 しかし、一言でいえば、それらの「時系列が矛盾なく追えない」ため、その経過をまとめるに至っていない。

 また、かつて読んだ記憶は確かにあるものの、当時は、このような問題意識がなかったために、「事実の理論負荷性」というものの典型で、出典を忘失しているものもある。

  将来うまくまとめることができれば、続編で明らかにしたい。

【追記1】

 当初の発想では、前記のようか幕末の合薬製造所は、いわば非常時の例外で、
「用水なんだから春先から秋まで通水なんてことは『当ったり前だ』」
と思い、そのバックデータを史料から探し始めた。

 たしかに、上記の裏付けとなる「用水としての建前どおり」の記載のある史料は見つかったのであるが…
同時に、そのような原理原則に反する状況を示す史料も見つかってしまった。

 これでは、当分、続編にたどりつけそうもないので、ここに追記しておく

  続篇は、こちら
  三田用水の通水期間(その2:近世)
  https://mitaditch.blogspot.com/2020/01/blog-post.html

【追記2】

品川用水沿革史編纂委員長倉本彦五・編「品川用水沿革史」品川用水普通水利組合/S18・刊「品川用水沿革史」pp.82-83によれば

十三年二月八日付けで、養水聯合會議員の安田富次郎が同會を構成する各宿村の戸長宛てに提出した「建議書」に、以下の一文があるという。

「舊來三田養水外壹貳ノ養水而己、冬水免許アリ其他養水ハ是ヲ許サゝル舊慣ナリ、然ルニ明治十年間ヨリ許可ヲ受ル是専務トスルノ旨趣ヲ以テ、各村養水共總テ平等ニ冬水ヲ引入ルゝ、是舊慣ニ據ラサルノ一ノ證ナリ」

 ここにいう「舊來」が、いつまで遡るのかは定かではないが、まだ、明治もわずか13年の時点での指摘であり、三田用水への冬季の通水が維新前に遡る「舊慣」である可能性がでてきたといえる。








2019年1月4日金曜日

三田用水の品川分水

■品川町史の…

・中巻
https://books.google.co.jp/books?id=eM5etc2FqQsC&dq=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&hl=ja&pg=PP989#v=onepage&q=%E5%93%81%E5%B7%9D%E7%94%BA%E5%8F%B2&f=false
 *タイトルに「上巻」とあるのは誤記
のpp.487-501には
寛政9〔1797〕年10月「御料・御霊屋料・私領・寺領拾四ケ村組合三田用水路白樋埋樋桝形分水口御普請出來形帳」記載の、

・下巻
のpp.891-894には
 明治11〔1878〕年10月「三田用水水路分水口寸坪取調書」記載の、

三田用水の分水がそれぞれリストアップされている。



■その約200年の間に…

寛政当時からいくつかの分水口の増減があるが、その中で最も注目されるのが、「あるく渋谷川入門」の著者である梶山公子氏も着目している*「…取調帳」19番の「品川口」といえる。

* http://www17.plala.or.jp/mitayousui2016/
 中「2016年 10月15日
  三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く」 の(註8)

 
と、いっても、三田上水
 
通称・正徳上水図の三田上水流末部抜粋
北品川宿あたりは東海道筋を南下している
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
と三田用水の両時代を通じて、分水口名となっている「品川」(この場合は旧・北品川宿)の農地を灌漑することが可能なのは、公式には三田用水の流末とされていた白金猿町から先の余水路だった、本立寺から南に流下する水路*しか考えようがなかったのではあるが、さりとて、「この元の三田用水の余水路が品川口からの分水」と断定できるまでのウラが、なかなか取れなかったのである。
 
* 約10年前の2009年6月6日に行った、こ余水路のツアーのリポートは
 
■その懸案を解決したのは…
 
「水車台帳」つまり

松本芳行「近代東京の水車 -明治・大正期の多摩川流域尾の水車分布-」1992
http://www.tokyuenv.or.jp/archives/a_research/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B5%81%E5%9F%9F%E3%81%AE%E6%B0%B4%E8%BB%8A%E5%88%86%E5%B8%83%EF%BC%8D%E6%B0%B4

だった。

 すなわち、同台帳記載の3+1か所の水車の所在地と引用水路は

#438 河野寅次郎 水車
水車所在地 荏原郡品川町大字北品川字小関耕地611番地
〔引用〕玉川上水三田用水品川分水路

#855 日本醤油株式会社水車
水車所在地 荏原郡品川町北品川宿631番地
〔引用〕玉川上水三田用水品川分水路

#990 (藤倉桂助)二番水車
水車所在地 荏原郡大崎村下大崎477番地
〔引用〕玉川上水三田用水品川分水大崎水路

なお、
#697 立石知満水車
水車所在地 荏原郡大崎村下大崎458番地
〔引用〕玉川上水三田用水大崎

とされていて、これらをいわゆる「郵便地図」にプロットすると、以下のようになる

 





































■このように…

三田用水の「品川口」が、かつての余水路が正式な分水路である「品川分水」となったものであることは明らかになったものの、そこで、新たな問題が生じることになる。

余水路であった時代は、北品川宿の水田の灌漑に必要な水を含めて、白金猿町まで流れてきた水をすべてこの水路に落とせば済んでいたはずだが、先の品川町史下のリストによれば、この品川分水となった時代には水積が規定され*、この品川口の分水口からは、一定量以上の水が流出しないように変更されていることになる。
 
* 4寸7分2厘四方、22坪2合7勺8才

三田用水は、いうまでもなく、水路の勾配にしたがって水を自然流下させているのであるから、品川分水になったかつての余水路に代わるあらたな余水路が絶対に必要になったはずなのである。

そこで、考えられるのは、先の正徳上水図に描かれている、かつて三田上水の時代に、二本榎から、ほぼ現在の柘榴坂に沿ってJR/京急の品川駅前に向かっていた(宿場としての)北品川宿に水を供給していた水路である。

この方向には
  • 江戸時代の終わりころ、弘化年間(1844~1847)に,、現在のグランドプリンスホテル高輪などの場所にあった薩摩藩の屋敷に、三田用水の水が供給しされていたこと
    (企画・建設省関東地方建設局京浜工事事務所/編集・多摩川誌編集委員会「多摩川誌」(財)河川環境管理財団/昭和61年3月29日・刊「第4編 第2章 1.4.1 亀有,青山,三田,千川上水」
    http://web.archive.org/web/20130105185141/http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/kensaku/mokuji2/01youyaku.html
  • 明治期になって、ここは北白川宮などの皇族の屋敷となったが、その庭の跡と思われる「港区立高輪森の公園」に、庭園用の水路の遺構が残っていること
    • 堤塘及水路使用料」とは、三田用水のそれとは別の水利権に基づいて、三田用水路を利用して引用する場合に支払う水路の利用料である
  • 現在の柘榴坂中ほどにかつてあった「石神社」を描いた、江戸名所図会をみても、柘榴坂*沿いに水路があったこと
     (平成作庭記 諏訪・伊那・木曽の旅【茅野市神長官守矢史料館】 余録: 高輪のミシャグジのカミ
      http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2015/06/post-9eaf.html
      参照)

石神社と門前の水路
 * ただし、各種の江戸図をトレースしてみると、この柘榴坂は多くの変遷を経ているように見える
から、明治期以降も水路が存在したことは間違いなさそうである。

【追記】
なお、三田用水の終端とされる高輪猿町から、二本榎~柘榴坂方向への水路については

の「●明治4(1871)年」の項参照。