2018年5月7日月曜日

御城内 玉川上水の揚水用の桝形


■幕末~明治初期の…
江戸周辺の写真としてば、F.ベアトのそれが有名だが、最近注目されている写真としてはモーザー*のそれがある。

*外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」
 http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180406-OYT8T50009.html

 知の拠点セミナー
 http://www.kyoten.org/seminar/H30/78/

■この連休中…
モーザーの写真をネット上で見ることができないかと、検索をしているうちに、

国立大学附置研究所・センター長会議のweb中の

東京大学史料編纂所附属 画像史料解析センター
http://shochou-kaigi.org/interview/interview_41/
と題する、
東京大学史料編纂所 附属画像史料解析センター/近世史料部門維新史料室(兼)
の 保谷徹教授
のインタビュー記事に行き当たった。

■同webページの…
冒頭から3枚目の写真のキャプションを読んでみると…
なんと「城内の旧松江藩邸。下が反転加工したガラス原板画像の全容で、坂の右が藩邸。上の写真は、前に置かれた木製の桝のアップ。ここから上水道を屋敷内に引き込んでいる。
と書いてある。

■当然のことながら…
モーザーの写真の著作権は消滅しているので、PCに取り込み、写真の変形を修正し、さらに、サイズ、色調を調整してみると、

写真全体が



右側の建物の中央より少し奥の、建物の石積みの基礎の際にあると思われる枡を拡大したものが


全体写真の方は元のWeb上の画像が小さかっただけに不鮮明なのは仕方ないとして、枡の拡大写真の方は驚くほど精細であることがわかる。

■記事によれば…
オリジナルの写真は、いわゆる「8×10」(エイトバイテン)つまり、20×25センチクラスより一回りや小ぶりとはいっても、大きなサイズの湿版で撮影されているうえ、現代の標準ないし長焦点のレンズに相当する焦点距離のレンズを使って、ほぼ無限遠の距離を撮っているので(しかも、スナップ・ショットではないので、十分に時間をかけてピントを調整できる)、広角のレンズに比べて、もともと、「性能が出しやすい」といわれている標準~長焦点のレンズの性能をフルに活かした画像なのだろう。

■カメラの…
話はほどほどにしておいて、肝心の用水の枡の話に戻る。

旧松江藩邸(出雲松江藩上屋敷)は、江戸城外堀の赤坂御門を入ってすぐ右手にあり、屋敷地の西側は堀に接している(後記の「五千分一東京図測量原図」参照)ので、この写真は、屋敷の東側の道を北方向から撮ったものということになる。

■ここへの…
上水の給水経路は、

貞享期(1684~1688)のものとされる上水図(通称「貞享上水図」)には

































には記載がない(松江藩邸には、赤坂御門のすぐ東で北側から給水されている)。

また、正徳期(1711~1716)のものとされる上水図(通称「正徳上水図」)でも


「松平出羽守」が松江藩邸
































大きな変化はみられない。

同図では、四谷御門から外堀内側に引き込まれた玉川上水が、門の東の「糀町五丁目」で、松江藩邸を含む3か所の屋敷と「永田丁組合」の屋敷群に向け、それぞれ独立した地中の管路(埋樋)に分水されている。

おそらく、写真の分水は、正徳期の後に、従前からの北側からの給水だけでは水に不足を来たしたとか、邸内に新築した建物に北側の分水からの給水が難しい、などといった事情があって、「永田丁組合」用の分水から新たに分水されたものではなかろうか。

■枡の…
写真をみると、その右(西)側に屋敷内への水の引き込み用と見られる四角い斜めの管が地盤面よりも上にあるのに対し、ここまでの埋樋は地盤面よりも下、つまり地中にあるはずなので、この枡は、そこまでの地形の高低差の影響によって生じている水圧を利用して水位を上げるための、いわば「揚水枡」(上水記によれば「登り龍樋」などともいうらしい)と推定できる。

■と、なると…

「糀町五丁目」から松江藩邸に至るまでの土地の高低差を確認する必要があるのだが、当時から約150年経った現代の地形図でトレースしても、「都心部中の都心部」なので、その間の地形の変化が大きくて全く歯が立たない。

たとえば、国土地理院のwebの「地理院地図」
の「高低差」機能を使うと、一定の区間の高低差を断面図で確認することができる
ただし、現在では後述の三平坂が削られているので、ここでは、使い物にならない。

しかし、この地域については、幸いなことに「都心部中の都心部」だけあって、「地図の宝石」と評する人もいるほど美しい上に細密な、明治10年代に参謀本部陸軍部測量局が測量した「五千分一東京図測量原図」*が残されてる。

* http://net.jmc.or.jp/books_map_tokyoSokuryogenzu.html

■同図を…

歴史的農業環境閲覧システム**
http://habs.dc.affrc.go.jp/index.html

**東京を選択
  http://habs.dc.affrc.go.jp/habs_map.html?zoom=13&lat=35.68428&lon=139.75339&layers=B0
  Base Layer で
  「東京五千分の1(1880年代)」
  を選択
  Overlays
  はすべてOFF

で確認すると


取り込んだ画像を明るく修正している。中央の「宮内省用地」の範囲が松江藩邸


には、要所要所に標高データも記入されているのだが、全体写真正面の道の部分に記入されている標高データ(海抜 m)を赤字で補入すると、以下のようになる。









全体写真正面の急な坂道の上端が地図の下端にある「三平坂」の頂上と思われ、その急坂部の下から、画面左(東)側に略直交する道路のあたりまで「ダラ下がり」で下ってきていることが見て取れる。

■つまり…

(かなり推定にわたるところはあるが)この松江藩邸東面の道路の南北方向の断面は



 のような状態と考えられ、枡の部分には、少なくとも図の右(北)から枡までの高低差約5メートル強分の水圧が生じていることになるので、下図のような枡を用いれば容易に藩邸内に水を引き入れることが可能になることになる。






















■そればかりでなく…

この部分の水圧にはまだ余力がありそうなので、枡やそこから邸内に引きこむ導水樋(画面右)の気密性がある程度確保できれば、導水樋内の水にも水圧がかかることになり、邸内のさらに高い場所にも配水することも可能だったと思われるし、その程度の気密性を確保するのは、木造船(構造船)の舷側などに用いる木材を剥ぎ合わせる技法を使えば、当時の技術水準でも十分可能だったと思われるのである。

■実は…
この枡にここまでこだわったのには、理由がある。

「貞享上水図」の一部と思われる絵図で、三田用水の前身といえる、細川上水と三田上水が、下北沢村から芝方面まで並走していた部分をみると、いくつかの桝形を示す記号が描かれている。

これらが「単なる接続枡」ならば、少なくとも埋樋の屈曲部などには不可欠なのだから、二本榎から北にはもっと数が多く描かれていなければおかしいことになる。したがって、同図に描かれている枡は、そのような一般的な枡とは異なる、何らかの特別な機能を持っていたものと考えざるを得ない。

その中でも、特に異様に感じたのは、今の目黒駅の略東方で、三田上水を引き入れていると思われる保科肥後守の屋敷であって、屋敷への引水を示す茶色の線が引かれているばかりでなく、その線と上水路を示す青い線の交点附近に桝形が描かれている。




























ほぼ同一場所の、細川・三田両上水時代の、沿革圖系の地図


国会図書館蔵「設彩江戸大江図」[伝・延享-宝暦頃](NdlId:8369288)〔部分〕


上の上水図の保科肥後守屋敷は、この図では堀大膳(土佐)?守屋敷となっている。
この図で松平主殿守抱屋敷の南に接している有馬日向守屋敷は、上水図には描かれていない。
このことからも、上水図に水路沿いの全ての武家屋敷が描かれているわけではなく、桝形と同様に一定の条件を満たすものだけが描かれていると考えられる。















































実際、前・高松宮邸のところにあった細川家中屋敷への上水道である細川上水はさておいて、三田上水は、もともとが芝・三田(あるいは、それに加えて高輪)地区への上水の供給を目的として開鑿されたのであるから、その水を引水している屋敷は多々あったはずなのに(細川上水については細川邸に到達する直前の2つの桝形が描かれているが)、三田上水については類例がないので、その点からみても、単なる分水枡や接続枡とは考えにくいのである(そもそも、この辺りは原則として開渠(白堀)だったはずであるし)。

今回判明した、松江藩邸前の揚水用の桝形は、この保科邸前のそれをわざわざ描いた理由を示唆していて、同邸に水を引き入れるために同様の揚水用の枡が設けれていたことを示しているように思われる。


【参考画像】

フェリックス・ベアト撮影の、幕末ころの赤坂の家並(画面左手)。中央の小高い杜は、紀州藩徳川家の上屋敷で、松江藩邸は、その右手前にあったことになる。中央の堀は弁慶堀と呼ばれ、溜池の上流部にあたる。


  
「江戸一目図屏風」津山郷土博物館・蔵   〔部分〕https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/3320315200/3320315200100020/mp030010

左手前の、堀の堰のような場所が、いわゆる「溜池の落し」と思われるので
中央上部の建物群が松江藩邸ということになる





【追記】2018/06/04

芳賀徹:外「写真でみる江戸東京」新潮社〔とんぼの本〕/2003年・刊

を眺めていたら、p.92に、玉村康三郎撮影と推定されている、モーザーのそれとほぼ同一アングルの写真(横浜開港記念館・蔵の由)があった。



すぐ前に、人物が写り込んでいるので、モーザーの写真よりも、揚水枡の大きさの見当を付けやすい。

しかし、左側のお武家さん(なんぼ背が低いとしても、身長140センチ位はあるのでは?)
との距離の差を考えてもやたらにデカイ
6尺豊かとまでは言えないにしても、頭部とのプロポ-ションからしても、身長170センチ位
はありそうに見える
まぁ、このガタイを見ただけで相手はビビるだろうから、門衛には最適であろう



【追記】
モーザーによる、写真は

YOMIURI ONLINE
「 外国人少年写真家が撮影…甦った「150年前の日本」
の3ページ目
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180406-OYT8T50009.html?page_no=3
でもみることができる。



【追々記】

■揚水枡に味をしめて…

幕末~明治初期の他の写真に用水の枡が写っているものがないか、探してみると

後藤和雄/松本逸也・編「写真集 蘇る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社/1987・刊

pp.6‐7の「江戸・外堀呉服橋周辺」と題する写真で、道路中央部に埋められている用水枡らしいものが写っているのを見つけた。

解説文によれば、中央左の呉服橋がまだ木造なのと、その袂にガス燈が建っていることから、
明治8~13年撮影とのことである。
【追記】
前掲「写真で見る江戸東京」p.76 の同一の写真についての解説では
右手中央にそびえているのは清水喜助設計で明治7年に駿河町に建てられた三井組
、明治10年に石橋化された常盤橋が木橋なので明治7-10年の撮影だろう

としている。




上の写真中央やや右の路上の桝形。
手前は人力車だが、往来のまん真ん中に放り出しにしておいても、特に問題が生じなかったらしいのも「時代」というものなのだろう。
 
 よく見ると、その前後の道路に、一旦掘削して埋め戻したような跡が見られるので、地中の樋菅を交換して程ない時期なのかもしれない。

正徳上水図〔部分〕


 ここは、現在の八重洲1丁目の外堀通りの場所であるが、上の正徳上水図によると、この通りに赤線が引かれていことから、神田上水の接続枡らしい。

 なお、迅速測図(フランス式彩色図)によれば、この道に樋管が道路に埋設されていることを示す破線が描かれてい。

「歴史的農業環境閲覧システム」
https://habs.dc.affrc.go.jp/habs_map.html?zoom=13&lat=35.68428&lon=139.75339&layers=B0
より
 
【追記】
 
前掲「写真で見る江戸東京」pp.30-31より
横山松三郎撮影の「半蔵門」をモノクロ化+諧調加工
ハイライトの部分が江戸城内に向かう埋樋に設けられた桝の由
人物往来社版「江戸幕府の制度」附図中「江戸城吹上御庭全圖」より半蔵門抜粋
確かに半蔵門から2筋の埋樋が場内に入っている

 
 なお、上水記の図では…
堀越正雄「玉川上水系配管の仕組み」
(「多摩のあゆみ34号 特集 玉川上水そのⅡ」たましん地域文化財団/S59.02.15・刊所収)
p.17
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1392015100/1392015100100010/tamanoayumi034/?p=14


と、より詳細で、余水吐(「吐樋」)まで記載されている。



2018年4月26日木曜日

港区の区史類がアーカイブされていた

■今年…

6月の北沢川文化遺産保存の会恒例の三田用水ツアー。
東京都港区内の分水跡をたどるべく、先日から、キュレィション中なのですが、流路にあたる三田老増町の情報を探しているうち、不思議なページに行き当たりました。

■その…

親ページを順次遡ってゆくと、

「デジタル港区史」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305100/index.html

なる Web に行きつきました。

■この Web 内の…

「これまでの港区史」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305100/archive/index.html

には

・昭和54年発行の「新修港区史」     (全文検索可能)
・昭和35年発行の「港区史」(上・下)   (目次から刊本の画像データにアクセス可能)

・昭和16年発行の「赤坂区史」       (同上)
・昭和16年発行の「麻布区史」       (同上)

・昭和12年発行の「芝区史」        (同上)

さらに別ページ
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305200/


・昭和46年発行の「港区教育史」(上・下)
・平成09年発行の同・「資料編」

が収録されていて

 区史類の横断検索
に加え
 それに教育史を含めた横断検索
が可能というスグレモノです。

■できれば…

昭和35年発行の「港区史」(上・下) 

以下の画像データをダウンロードできるようにしてほしいところですが、サーバーの負担が大きくなって肝心の検索が重くなる危険もあるので、まぁ、当面は仕方ないのかもしれません。


【追記】

アーカイブから取得することができた「貞享上水図」(部分写し)


下の約半分が、三田水・細川上水の給水域

2018年4月18日水曜日

「多摩川誌」がアーカイブされていた

■かつて…

ネット上の
http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/kensaku/mokuji2/01youyaku.html
で読むことのできた

企 画  建設省関東地方建設局京浜工事事務所
編 集  多摩川誌編集委員会
財団法人河川環境管理財団/昭和61年3月29日・刊

「多摩川誌」

■いつの間にか…

ホームページともども「消えて」しまっていました。

まぁ、どうしても必要と思われる部分はセーブしてありましたので、特段不便がないといえば不便がないのですが、社会生活史(6編)や民俗(7編)まで網羅しているうえ、図版も豊富で、これがないと、ちょっとしたことを調べるにも本を何冊か引っ張り出さなければならないことを考えると「あると便利」

■ふと思いついて…

改めて調べてみたら、web.archive.org に保存されている

http://web.archive.org/web/20130105185141/http://www.keihin.ktr.mlit.go.jp/tama/04siraberu/tama_tosyo/tamagawashi/parts/kensaku/mokuji2/01youyaku.html

ことがわかりました。

よかった。

2018年1月14日日曜日

「駒場道」の新知見

■当方の…

Web ”Half Mile Project”で採り上げた

駒場道
http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/HalfMile/KomabaMichi.htm

について、先日、そこでも「孫引き」している(「*4」)

堀切森之助・編「幡ヶ谷郷土誌」幡ヶ谷を語る会/H05・刊*

を読んできた。

* おそらく内容は同一と思われるが
 東京都渋谷区立渋谷図書館/S53〔1978〕・刊
 が初出で、標記のものは「復刻版」のようである

【補注】
この後、ネットオークションで、原典を入手できた。


■同書の…

「五、道路・水路・交通機関」「l  道 」中の
「世田谷道(鎌倉街道)」の項(pp.35-)の末尾近くに、以下のような駒場道についての記述があった

執れ〔註:京王線幡ヶ谷駅前から南方向に向かう道〕は甲州街道開通後に造られた路ではあったらうが、古くから開かれてゐたであらうといふ事は、甲州街道からの分岐點の西角に幅八寸、厚さ六寸、高さ三尺程の「おほかみだに道」の古い石標があった事でも知る事ができる。…
 元来此の道は駒場道の本道では無い。それが地理的條件と時代の推移によって甲州街道開通以前から存在したであらうと推定される本道を、今は廢道同様の有様に変ぜしめて自ら隆昌を衿って居るが、これも寛文四年(一六六四年)八月以来代々木大上谷(狼谷)火葬場への道として、(新編風土記曰ふ。四谷西念寺勝興寺戒行寺麹町栖岸院心法寺五ヶ寺の拝領地、同上年茶毘所を造ると)多くの亡き人々の霊を送迎してゐるがため、その功徳によって本道以上に榮えたのでもあらうか。
」(p.38)

■これを図解すると…

以下のようになるようである。

東京逓信管理局「東京府豊多摩郡代々幡村」逓信協会/M44・刊
< https://www.tokyo-23city.or.jp/base/archive/home51files/Yoyohata-Toyo_CHOSON/Yoyohata-Toyo_CHOSON_kmview-zoom.html >
の抜粋に地名等を補入

■文中の…

「おほかみだに道」と刻まれた旧い石標。甲州街道と駒場道の交点付近、つまり京王線幡ヶ谷駅近くの地中に、今も眠っているのかもしれません。



【追記】2018/02/04

■今日…

地蔵窪から駒場道旧道を歩いてきた。
(旧駒場道と甲州街道との交差点の「子育地蔵」
 その西の「牛窪地蔵」については
 http://baumdorf.cocolog-nifty.com/gardengarden/2018/02/post-619a.html
をご参照を。)



■甲州街道沿いの子育地蔵



地蔵堂
頂上に九輪を戴き、狭い不整形の敷地一杯に収めるなど、
設計、とくに構造計算に苦労したと思われるが、さすが「都会の地蔵堂」。
ただ、すでに水平方向に亀裂が発生していまっているし、頂上付近には、
鉄筋に対するコンクリートの被覆厚(かぶり厚さ)不足によると思われる錆が見える。
そろそろ、何らかのメンテナンスは必要だろう。



堂の東脇が駒場道の旧道(手前)
 
堂の前の歩道橋に登って甲州街道越しにみると
北方向にも道路が続いていたことがわかる
 
駒場道旧道に入る
「廃道」は免れたとはいえ、この部分の道幅はとりわけ狭い
 
京王線の旧地上線の跡を越える

 

 
駒場道新道との交差点
左方向が西原
 
【追記】181012
 
この、旧駒場道は、明暦の大火以前の江戸のまちを描いているといわれる
寛永江戸図
「セタカヤ道」
として表記されている。
 
 
 

2018年1月8日月曜日

【余録】藤原銀次郎の茶室「暁雲庵」

■当ブログの…

【懸案解決】昭和初期の三田用水普通水利組合
http://mitaditch.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html

の末尾に触れたように、元王子製紙社長の藤原銀次郎の茶室「暁雲庵」が、父の墓所のある杉並区梅里の眞盛寺に移築されているらしいことが判明したことから、昨1月7日の墓参の折に参道右手にある茶室を参観してきた。

■能書きは…

ほどほどにしておくことにして、同山は、檀信徒以外は入山不可


環状7号線から山門に通じる参道を東方向から

参道入口左にあるサイン

のこともあってか、ネット上では同山に興味を持たれている方も結構おられるようなので、茶室だけとはいえ、いわば「代参」。


山門やや西から
画面左端が本堂、右手が暁雲庵
参道からみた暁雲庵全景
外露地腰掛待合西面

同上東面


外露地から垣越しに見た暁雲庵
内露地から見た暁雲庵南東部
内露地の蹲踞
 
屋根と扁額
間違いなく暁雲庵
暁雲庵南面
同上南面西端
塵穴は角型。柱の下部のやや大きめの礎石と土台下の小さめのそれとの関係がよくわかる。

■冒頭の…

記事で少し触れたが、この暁雲庵。最初は、三田用水沿いの港区芝白金今里町一一七番地麻布區新網町2-16の藤原邸内にあったらしい

【追記】
箒庵高橋義雄「甲子 大正茶道記 」慶文堂書店/T14・刊
p.334
暁雲殘茶(大正十三年十一月二十八日)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183131/181
「…斯くて余は十一月二十八日の佳招を蒙り例の通り麻布新網町暁雲庵の寄附に推参すれば…」とあった。

 なお、ゴム新報社 編「大日本護謨同業名鑑」同社/T02・刊 p.ム175 〔https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950441/208〕によれば麻布新網町は、藤原の昭和7までの本宅である。 

また、交詢社の日本紳士録掲載の藤原の住所は

・昭和7年までは、麻布新網町2-16

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145826/381 

・昭和8年以降は、白金今里町121

 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145885/385

とされている。

この「芝区白金今里121」一帯の117番地にも藤原は茶室を設けたが、暁雲とは別の号を採って「長間堂」と名付けたという情報もあったので、後記【追記1】までは、暁雲庵と三田用水路との関連は確定できなかった。 


M42測T05修測1 1/10000地形図 品川 抜粋
ただし、藤原が新網町からここに転居してきたのはS07/08なので
藤原邸が表示されているとすると、S12修測図のはずだが、未入手



 




















https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.50.691N35.37.56.312/zoom/11/?data=showa-22
平面形状は、青丸の建物が類似している。
 赤丸が、後掲の写真の排水口のあたり。

























 藤原銀次郎は、いわば「茶〔道具〕敵」であったらしいサッポロビールの前身日本麦酒の社長を務めた馬越恭平などと同じく三井出身で、おそらく、三井不動産が世田谷区玉川にあった幽篁堂庭園跡をパークコート二子玉川*1として開発するにあたり、同地にあった暁雲庵を、三井寺〔みついでら〕こと、この眞盛寺*2が引き継いだのも「三井の縁」なのだろうと思われる。
〔藤原銀次郎の〕祿子夫人逝いて早くもー年、秋を迎へ、春を送って一周忌の日は近づいて来た。中野堀ノ内の本願寺墓地に建設中であった墓所も完成したので、その納骨を前にして、夫人が生前最も深く好愛してゐたお茶会を催して追善の志とすることになった。昭和二十四年五月十九、二十日の両日、藤原氏は最も親しかつたお茶の友人達を、緑のしたゝる白金の暁雲庵に招じて、壊しく主客で夫人を偲ぶ追善の茶會を催し、續いて二十一日には、永年にわたって藤原家の道具集めに力をつくした山澄不問氏の未亡人はじめ、山澄商店の関係者等を招いて跡見の會を開いた。(pp.471-472)
とあった。

 藤原が、当初暁雲庵を設けたのは当時の藤原邸のあった、麻布區新網町2丁目16番地であるが、goo マップで昭和22年の同地を見ると、一面焼野原であり、藤原が白金今里に移った後も暁雲庵が当初の場所にあったのなら、現在眞盛寺に残っているわけがない。

によれば、そもそも、新網町2丁目9~17番地は、強制疎開の対象地だったことが判明した。
 したがって、仮に昭和20年近くまで暁雲庵が同地に残っていたとしても、藤原がこれを残すには、どこかに移築するほかなかったわけで、その時期いかんはともかく、暁雲庵が新網町からどこかに移築されたことは明らかである。

 これに対し、「…回顧八十年」が出版されたのは、祿子夫人追善の茶会からわずか半年後であり、「緑のしたゝる白金の」茶室の名前を誤るとは考えにくいので、藤原が白金今里への転居にあたり、暁雲庵を同所に移築していた可能性が高い。
 この白金今里の藤原邸の敷地は面積4~5000坪に及んでいたといわれ、たとえば、いわゆる眞行草の様々なタイプの茶室を同地に複数建てることは十分可能だったろう。

 さらに調べてみると
福岡市美術館研究紀要#9

中、pp.74-49〔pdf pp.79-54〕(逆綴)
後藤恒「雪中庵茶会記 翻刻版(5)」
は、工芸家仰木政斎による昭和15年1月から同16年2月間の茶会記を翻刻したものであるが、その

○藤原暁雲翁邸建塔茶事供養会 六月三日

の条に、
藤原が原六郎より譲り受けた多宝塔*の白金今里の藤原邸への移築工事が落慶したのを記念して催された供養の式と茶会の記録に、
茶席ハ暁雲庵、山里庵、外数席である
とあった(p.68〔73〕)。

 これで、ここ何年も抱えていた、果たして暁雲庵が三田用水沿いに存在していたのか(正確には「存在していたことがあるのか」)、という疑問が、2つ目のソースが見つかったことから、ようやく氷解した。
 残るのは、果たして藤原邸に三田用水の水が引水されていたのか**、との疑問だけになったわけである。

* この塔については、播磨無量寿院・よみうりランド多宝塔  に詳しい

** 気になるのが、昭和七年三田用水普通水利組合歳入歳出予算表(三田用水普通水利組合「江戸の上水と三田用水」同組合/S54・刊 pp.168-172)の「臨時歳入部」(同p.169)に「寄附金 六〇〇円」が「分水口設置ニ付 寄附金」として計上されていることである。

 この時期は、白金今里の藤原邸が着工されたと考えられる時期と整合しているし、茶庭の池のために不可欠だったのなら藤原に出せない金ではない。

 しかし、この地には、大正半ばから民間会社である玉川水道株式会社による上水道が敷設されおり(後掲の今里橋欄干遺構の写真参照)、池水は常時給水が必要なわけではないため、そのための「水道代」は、藤原にとって「端金〔はしたがね〕」で済むはずなので、倹約家との評価も高かった(といっても、出すべき金は惜しまなかったし、茶道具については「湯水のように」金を使っていたといえる)藤原が、この600円を池水のために寄附する気になったかについては疑問が残る。 

 さらに、昭和7年という時期は、常時大量の水が必要な庭の渓流や複数の滝水のために三田用水を引水していた目黒雅叙園の開業時期(昭和6年)ともほぼ整合しているので、前後の年度の記録が無いのも手伝ってなかなか悩ましい。

【参考写真】

●旧藤原銀次郎邸の肩書地である白金今里町121番地

【参考】

「東京市及接続郡部地籍地図(上)」東京市区調査会/T01・刊 芝63図
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966079/320
略中央の赤丸が「芝區白金今里町121番地」
藤原邸は、その北西の131から南東の191まで及んでいたと考えられる

 直近の今里橋脇の、かつて三田用水路を渡っていた水道管

2009年2月11日撮影

●白金今里にかつてあった、〔推定〕旧藤原銀次郎邸庭園からの排水口

2009年2月11日、排水口を東方向から撮影
 

同上、西方向から撮影

【当ブログ再掲】2016年6月11日撮影
後期の久留嶋上口右岸分水に、ほぼ正対する位置にある。

 【追記2】

 たまたま、眞盛寺さんから頂いていた
「天台眞盛宗 東京別院 天羅山 眞盛寺史 年表 並びに歴代住職の思考史」
と題する年表の、平成15年(2003)の項に

東海大学稲葉和也教授の縁にて三井不動産より世田谷区玉川、幽篁堂庭園より茶室暁雲庵・腰掛待合・江戸時代初期の四脚門、十三重石塔・石造諸塔・赤松等を譲受け、表境内、及び奥殿の庭園を造園す。

とあった。

稲葉先生とは、かつて代官山のヒルサイドテラス内を流れていた三田用水の縁で、代官山にある重要文化財の旧朝倉家住宅
の保存・活用を巡って、何度かお目にかかったことがあります。

2018年10月16日 重文・旧朝倉家住宅にて
左の襖の奥が稲葉先生




















その折、当方が世田谷区民であることをお話したら、世田谷区の文化財保護審議会会長を長く勤められていた稲葉先生から「渋谷区だけでなく、世田谷区についても活動するように」と促されたこともあって、世田谷代田駅前広場の「ダイダラボッチの足跡」探しのお手伝いをさせていただく結果
につながりました。

 改めて「ご縁」の不思議さを思い返します。

 【追記】

コメントを下さったトーマスさんの論文。おそらく、これ

Thomas Ekholm ”DÅ HAR JAPAN UPPHÖRT ATT VARA JAPAN

- Det japanska tehuset vid Etnografiska museet,samt bilden av chanoyu i Sverige och väst, 1878-1939 -

https://gupea.ub.gu.se/bitstream/2077/57787/3/gupea_2077_57787_3.pdf

当ページのURLは、p.164の註779にあり、その本文(スウェーデン語らしい)をgoogle で翻訳したところ、1935年11月28日の毎日新聞に、藤原と暁雲庵に関する記事が掲載されているらしいことが分かった。